婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「イロハ・フォン・ローゼン! 貴様との婚約は、今この瞬間をもって破棄する!」

王立学園の大講堂。

シャンデリアが煌めく卒業パーティの会場に、カイル王子の絶叫が響き渡った。

オーケストラの演奏がピタリと止まる。

楽しげに談笑していた令嬢たちは扇子で口元を隠し、貴族の子息たちはグラスを持ったまま凍りついた。

誰もが息を呑んで注目する視線の先。

壇上の中心には、金髪碧眼の美青年――カイル王子が、正義の炎に燃える瞳で仁王立ちしている。

その背後には、小動物のように震える桃色髪の少女、マリア男爵令嬢が隠れていた。

そして、彼らに対峙するのは、鮮烈な真紅のドレスを纏った公爵令嬢、イロハだ。

「……」

イロハは無言だった。

切れ長の瞳をわずかに伏せ、表情一つ変えない。

その沈黙を「絶望」と受け取ったのか、カイル王子はさらに勢いづいて声を張り上げた。

「何も言えないようだな! 当然だ、貴様がマリアに対して行ってきた数々の悪行は、すべて調べがついている!」

「カイル様、もうやめてくださいっ……! イロハ様だって、きっと反省なさっていますから……!」

マリアが涙目でカイルの袖を引く。

「優しいな、マリアは。だが、その優しさが彼女を増長させたんだ。教科書を隠す、ドレスにワインをこぼす、階段から突き落とそうとする……。これらはすべて、未来の王妃としてあるまじき所業だ!」

カイルは酔いしれていた。

愛する少女を守り、悪を断罪する自分という「物語」に。

会場の空気は、完全にイロハへの非難一色に染まりつつある。

「さあ、何か弁明があるなら言ってみろ! もっとも、貴様の口から出る言葉など、すべて言い訳に過ぎないだろうがな!」

カイルが高らかに宣言し、勝利を確信した、その時だった。

カチャ、カチャ、カチャ。

静まり返った会場に、場違いな音が響いた。

硬質で、リズミカルな、金属音。

カイルが眉をひそめる。

「……ん? なんの音だ?」

カチャ、カチャ、チーン。

「おい、イロハ。聞いているのか?」

カチャカチャカチャカチャ、ターンッ!

イロハの手元からだった。

彼女は扇子の代わりに、掌サイズの四角い機械を持っていた。

真鍮で作られたボディに、いくつもの数字キーと歯車が組み込まれた、最新式の携帯用計算機だ。

彼女は超高速でそのキーを叩き続けていた。

「おい貴様! 人が話している時に何を……」

「……7、8、9、掛けることの1・5倍……加えて精神的苦痛の算定係数を乗算……」

イロハがボソボソと呟く。

「は?」

「あ、すみません殿下。今、ちょっと大事なところなんで静かにしていただけます?」

「なっ……!?」

イロハは顔も上げずに計算機を叩き続ける。

「静かにしろだと!? 貴様、自分の立場が分かっているのか! 婚約破棄だぞ!? 王家からの絶縁だぞ!?」

「ええ、存じ上げております。ですから今、その『精算』を行っているところです」

「精算……?」

「はい、出ました」

ターンッ!

イロハは最後にひときわ強くキーを叩くと、計算機から吐き出された長い紙片(レシート)をビッと引きちぎった。

そして、優雅な仕草で髪を払い、ようやくカイル王子を直視した。

その瞳に涙はない。

あるのは、獲物を狙う猛禽類のような鋭い光と、商人が金貨を数える時のような冷徹な輝きだけだった。

「カイル殿下。先ほどの『婚約破棄』というお言葉、確かに承りました。証人はこれだけの数おりますので、後から『やっぱりなしで』というのは通用いたしませんわよ?」

「と、当然だ! 誰が貴様のような冷血女と……」

「結構。では、こちらの請求書をご確認ください」

イロハは優雅に歩み寄ると、カイルの胸元に紙片を押し付けた。

「……は?」

カイルは呆気にとられながらも、その紙片を見る。

一番下に書かれた数字を見て、彼の目が飛び出そうになった。

「な、なんだこの金額はあああああッ!?」

会場がざわめく。

「に、二十億ゴールド!? 国家予算の三割に匹敵するではないか! 貴様、ふざけているのか!?」

「ふざけてなどおりません。すべて適正価格です」

イロハは懐から予備の指示棒(折りたたみ式)を取り出し、ピシッと伸ばして紙片の明細を指し示した。

「まず、ここ。『王妃教育費』です。私は六歳の頃から、殿下の婚約者として王妃教育を受けてまいりました。家庭教師代、教材費、マナー講習、ダンスレッスン……これらはすべて『将来、王妃として国に奉仕するため』の先行投資です」

「そ、それは……」

「ですが、婚約破棄となれば、これらのスキルは無用の長物。投資回収が不可能となります。よって、これまでの教育にかかった費用全額に、年利5%の利息を上乗せして請求いたします」

イロハの口調は、まるで重役会議のプレゼンのように流暢だった。

「次にここ。『殿下の補佐業務代行費』です」

「補佐……だと?」

「お忘れですか? 殿下が『勉強が面倒だ』と放り出した公務の書類。あれを誰が処理していたとお思いで? 私が毎晩、徹夜で片付けていたのです。王族の公務代行ですから、当然、最上級の専門職レートで換算させていただきます。深夜割増と休日出勤手当も込みです」

カイルの顔が青ざめていく。

「さらにここ。『イメージ毀損による慰謝料』です。殿下は先ほど、公衆の面前で私を『悪役』と罵りましたね? 事実無根の誹謗中傷により、私の社会的信用は傷つきました。今後の再婚活動にも支障が出ます。その損失補填です」

「じ、事実無根だと!? 貴様、マリアをいじめていたではないか!」

カイルが叫ぶが、イロハは冷ややかな目でマリアを見た。

「いじめ? ……ああ、もしかして『階段事件』のことですか?」

「そうだ! マリアを突き落としただろう!」

「いいえ。私は彼女が『自分のドレスの裾を踏んで転ぶ』軌道を物理演算で瞬時に予測し、彼女の着地地点にクッションを投げただけです」

「は……?」

「あの時、クッションがなければ彼女は全治三ヶ月の骨折でした。私は彼女の命の恩人です。むしろ治療費の節約になったので、その分のコンサルティング料もいただきたいくらいですが、今回はサービスしておきましょう」

イロハは早口でまくし立てる。

「教科書を隠した? いいえ、彼女が次の授業の準備を忘れていたので、私の予備を貸し出すために机に入れただけです。ワインをかけた? 彼女に蜂が寄ってきたので、ワインを囮にして追い払ったのです。すべて合理的判断に基づく救済措置です」

会場が静まり返る。

あまりの理路整然とした説明に、周囲の貴族たちが「あ、あれ? そう言えばイロハ様って昔から合理的すぎて誤解されやすいだけで……」とヒソヒソ話し始めた。

「う、嘘だ……マリアは泣いていたぞ!」

「それは彼女が状況を理解できずにパニックになったからでしょう。私の説明不足かもしれませんが、結果として彼女は無傷です。数字と結果がすべてです」

イロハはピシャリと言い放つと、再びカイルに向き直った。

「さて、殿下。お支払いは現金一括のみとさせていただきます。王家の金庫から出すか、ご自身の私財を売却するかはお任せしますが、期限は明日までです」

「は、払えるわけがないだろう! こんな法外な金額!」

「払えない?」

イロハの目が、キラリと光った。

「払えないのであれば、契約不履行です。その場合は――」

彼女はニッコリと微笑んだ。

それは聖女のような慈愛の笑みではなく、借金取りがカモを見つけた時の悪魔的な笑みだった。

「担保として、殿下の持つ『王位継承権』あるいは『王領の一部』を譲渡していただくことになりますが、よろしいですね?」

「な、なにを……!」

「等価交換です。愛に生きたいのであれば、王冠を捨ててパン屋にでもなればよろしい。自由を手に入れるには対価が必要なのです。さあ、どうなさいますか?」

カイルは言葉を失い、パクパクと口を開閉させる。

マリアも状況が飲み込めず、ポカンと口を開けている。

イロハは勝った、と思った。

この瞬間までは。

「……くくっ」

どこからか、低く、楽しげな笑い声が聞こえた。

それは会場の入り口付近から響いてきた。

「はーっはっはっは! 傑作だ! まさか卒業パーティで、王家に国の買収を持ちかける令嬢がいようとは!」

その声に、会場の空気が一変する。

カイル王子でさえも、その声の主を見て震え上がった。

「あ、兄上……!?」

現れたのは、漆黒の礼服を身に纏った長身の男。

カイルとは対照的な黒髪に、血のように赤い瞳。

この国の影の支配者であり、冷酷無比と恐れられる「魔王公爵」――シルヴィス・グランディエその人だった。

彼は群衆を割って進み出ると、イロハの目の前で立ち止まり、面白くてたまらないという顔で彼女を見下ろした。

「イロハ・フォン・ローゼンと言ったか。その借金、私が買い取ろう」

「……はい?」

イロハが初めて怪訝な顔をする。

「二十億ゴールド。私が肩代わりして払ってやる。その代わり――」

シルヴィスはイロハの手を取り、その指先に口づけを落とした。

その瞳は、獲物を見つけた肉食獣そのものだった。

「お前を私が買い取る。返品は不可だぞ?」

イロハの電卓が、手から滑り落ちて床に音を立てた。

計算外のエラーが発生しました、と彼女の脳内が告げていた。
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