悪役令嬢、婚約破棄に即答する、この王子〇〇すぎて私が悪女に見えるだけでは?

恋の箱庭

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「ま、待てと言っているだろう! チェルシー!」


大広間の扉に手をかけたその時、背後から悲鳴のような怒声が飛んできた。

チェルシーは立ち止まる。

振り返る動作にかかった時間は〇・五秒。表情筋の動きはゼロ。


「……まだ何か? 契約は成立しましたが」


「成立などしていない! いや、書類上はしたが、俺の気が済まない!」


「『気が済まない』。それは法的な異議申し立てではなく、単なる殿下の感情処理の問題ですね。カウンセラーを手配しましょうか? 王都で評判の良いメンタルクリニックを知っていますが」


「俺を精神病患者扱いするな! 貴様の罪はまだ山ほどあると言っているんだ!」


エリオット王子は顔を真っ赤にして、さらに長い巻物のような紙を広げた。

どうやら、先ほどの「階段突き落とし事件」や「ワイン事件」は序の口だったらしい。

会場の貴族たちは、もはや呆れを通り越して「次はどんな切り返しが見られるのか」と期待の眼差しを向けている。

チェルシーは懐中時計を確認した。


「あと三分ならお付き合いしましょう。馬車の待機料金が発生しますので」


「金の話ばかりしやがって……! 聞け! 貴様、先週の園遊会でミナの手作りクッキーを地面に叩きつけて踏みつけただろう!」


会場から「ひえっ」と息を呑む音が漏れる。

食べ物を粗末にする行為は、貴族としても人間としても品位を疑われる。

ミナがエリオットの腕の中で、さめざめと泣き始めた。


「うぅ……一生懸命焼いたのに……お姉様、『これは毒物です』って……」


「事実です」


チェルシーは即答した。

躊躇いも、悪びれる様子もない。


「毒物だと!? ミナの愛が詰まったクッキーを!」


「愛で殺菌はできません、殿下。あのクッキーと称される物体ですが、成分分析を行わずとも視覚情報だけで危険性が判断できました。表面は炭化して黒焦げ、しかし内部は半生。割った瞬間に漂ったのは甘い香りではなく、硫黄のような異臭でした」


「そ、それは焼き加減が難しくて……! でも、味は美味しかったはずです!」


ミナが反論するが、チェルシーは冷淡に首を横に振る。


「小麦粉と卵を使った加熱不十分な食品は、サルモネラ菌の温床です。しかも当日の気温は二十八度。園遊会のテーブルに野ざらしで二時間放置されていました。あれを摂取した場合、急性胃腸炎による王子の公務欠席リスクは九割を超えると判断。よって、バイオハザード(生物学的危害)として廃棄処分し、靴底で踏み潰して感染拡大を防ぎました」


「くっ……! だ、だが踏むことはないだろう!」


「埋め立て処理する時間が惜しかったので。私の靴はその後、高濃度アルコールで消毒済みですのでご安心を」


「誰が靴の心配をしているんだ!」


エリオット王子は地団駄を踏んだ。

論点がずれていることに気づいていないのは王子だけのようだ。

周囲の貴族たちはコソコソと囁き合っている。

『あの日、腹を壊した令嬢がいたのはそのせいか……』
『チェルシー様、王子の腹痛を未然に防いだのでは?』

だが、王子は止まらない。次の罪状を読み上げる。


「い、言い訳は上手いようだが、これはどうだ! ミナが俺のために刺繍したハンカチ! 貴様、これをハサミで切り刻んだそうだな!」


「はい、裁断しました」


「認めたな! この冷血女! 嫉妬に狂ってミナの贈り物を破壊するとは!」


「嫉妬? いいえ、品質管理(クオリティ・コントロール)です」


チェルシーは眼鏡のブリッジ(かけていないが、心の目で)を押し上げた。


「あのハンカチ、糸の始末が不十分で、裏側が蜘蛛の巣のように絡まっていました。あのような粗悪品を王族が所持しているところを他国の外交官に見られれば、『我が国の繊維産業は衰退したのか』と誤解を招きます。国家の威信に関わる問題です」


「たかがハンカチで国家の威信だと!?」


「『たかが』ではありません。王族の持ち物はすべてが国の広告塔です。さらに言えば、あの刺繍のデザイン……あれは『王家の紋章』を模したつもりでしょうが、獅子の足が三本しかありませんでした。足りない一本はどこへ? 不吉すぎます」


「えっ」


エリオット王子が慌ててミナを見る。

ミナは「てへっ」と舌を出して誤魔化した。


「あ……ちょっと難しくて……四本足だと可愛くないかなって……」


「三本足の獅子は『敗北』や『王権の喪失』を意味する暗喩として使われる地域もあります。それを王太子の胸ポケットに入れようとするなど、反逆罪に問われても文句は言えませんよ。私はその証拠を隠滅するためにハサミを入れたのです。感謝していただきたいくらいですね」


「ぐぬぬ……!」


王子は言葉に詰まった。

言えば言うほど、ミナのドジとチェルシーの危機管理能力が浮き彫りになっていく。

だが、ここで引き下がれないエリオットは、最後の切り札とばかりに叫んだ。


「だ、だが! 貴様の態度は可愛くない! そうだ、可愛げがないんだよ! ミナを見ろ! 彼女はドジかもしれないが、いつでも笑顔で俺を癒してくれる! 貴様にはその『癒し』がない!」


「癒し……ですか」


チェルシーは小首を傾げた。

その単語の意味を脳内辞書で検索しているようだ。


「精神的疲労の回復効果、ということでしょうか。でしたら、私の執務室には常に最適な温度設定と、疲労回復効果のあるハーブティーを用意しておりましたが」


「そういう物理的なことじゃない! 心の! 潤いだ!」


「殿下。王族に必要なのは潤いではなく、乾いた論理と強固な基盤です。統治者が『癒されたい』などと現実逃避をしていては、国は三日で干上がります」


「う……うるさいうるさい! とにかく俺はミナを選ぶ! 貴様のような機械人形は願い下げだ!」


結局、議論はそこに戻るらしい。

チェルシーは深く、この日一番深いため息をついた。

懐中時計を見る。予定時間を十五秒オーバーしている。


「……そうですか。理解いたしました。殿下が求めているのは『有能なパートナー』ではなく『介護者』あるいは『愛玩動物』であったと。私のマーケティングミスです」


「なんだと!?」


「ニーズの不一致ですね。では、これ以上の対話は生産性を生まないので終了とさせていただきます。どうぞ、その三本足の獅子がお似合いの愛らしい方と、末長くお幸せに」


チェルシーはそれだけ言い残すと、今度こそ大広間の扉を開け放った。

夜風が吹き込み、彼女のドレスの裾を揺らす。

背後でミナが「お姉様、待ってください!」と追いかけてこようとしたが、何もない平らな床で派手に転んだ。


「きゃっ!」


「ミナ!」


王子が慌てて駆け寄る。

そのドタバタ劇を背中で感じながら、チェルシーは廊下へと歩み出した。


「……やれやれ。これでやっと、私の人生(タスク)が最適化されるわ」


呟いた声は、誰にも聞かれることなく夜の闇に消えた。

はずだった。


「――見事な論破だったな」


廊下の陰から、低い声がかかるまでは。


チェルシーが足を止め、視線を向けると、そこには先ほど広間ですれ違った男――宰相サイラスが壁に背を預けて立っていた。

腕を組み、面白そうに口角を上げている。


「盗み聞きとは趣味が悪いですね、宰相閣下」


「人聞きが悪い。私はただ、君があまりに速足で出て行くので、忘れ物をしていないか確認しに来ただけだ」


「忘れ物?」


チェルシーは自分の荷物を確認する。

署名済み書類、筆記用具、財布。完璧だ。


「何もありませんが」


「いや、あるだろう。……君の『正当な評価』だ」


サイラスは一歩、チェルシーに近づいた。

その瞳は、獲物を見つけた肉食獣のように鋭く、それでいて奇妙な熱を帯びていた。


「あのバカ王子には理解できなかったようだが、君の危機管理能力と事務処理手腕、そして何よりその『可愛げのない』合理性……実に素晴らしい。我が国にこんな逸材が埋もれていたとは」


「……褒め言葉として受け取っておきます。皮肉でなければ」


「本心だとも。どうだ、これから少し時間をくれないか? 君のその能力、腐らせておくには惜しい」


「生憎ですが、今日は直帰して祝杯を上げる予定です。残業はお断りです」


チェルシーはピシャリと言い放つ。

相手が国のナンバー2であろうと、定時後は定時後だ。

しかし、サイラスは引かなかった。むしろ、さらに楽しげに笑う。


「残業ではない。……ヘッドハンティングだと言ったら?」


チェルシーの足が止まる。

振り返り、初めてまじまじとサイラスの顔を見た。

整った顔立ちだが、目の下には隠しきれない隈がある。

過労。慢性的な人材不足。そしてトップ(王子)の無能さによるしわ寄せ。

同類の匂いがした。


「……条件次第ですね」


「悪くない返事だ」


二人の視線が絡み合う。

恋の火花ではなく、商談成立の火花が散った瞬間だった。
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