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平和な休日の午後。
宰相邸のサンルームで、チェルシーは優雅にティータイムを楽しんでいた。
ただし、テーブルの上にはスコーンやクッキーではなく、領地の「灌漑工事計画書」と「土壌改良データ」が広げられている。
彼女にとっての「優雅」とは、何もしないことではなく、誰にも邪魔されずにタスクを消化することなのだ。
「……ふむ。水路の勾配を二度修正すれば、流速が一五%向上するわね」
「熱心だな、チェルシー。だが、スコーンが冷めるぞ」
向かいの席では、サイラスが分厚い洋書(おそらく他国の法律書)を片手に、焼きたてのスコーンにクロテッドクリームを塗っていた。
彼の手つきは正確で、クリームの配分は黄金比(一対一・六一八)を守っているように見える。
「ありがとうございます、あなた。……あら、美味しい。この小麦、産地を変えました?」
「気づいたか。北部の契約農家から直送させた。君が『粉の香りが弱い』と指摘したからな」
「素晴らしい改善(カイゼン)です。評価Aプラスを与えます」
「光栄だ」
穏やかな午後。
二人の間には、静謐で合理的な愛(のようなもの)が満ちていた。
だが、その平穏は唐突に破られる。
「大変です! 旦那様、奥様!」
門番が血相を変えてサンルームに駆け込んできた。
「緊急事態(エマージェンシー)ですか? 侵入者? それとも火災?」
サイラスが即座に立ち上がり、チェルシーを背に庇う。
だが、門番の報告は予想外のものだった。
「い、いえ……その、ピンク色の『何か』が正門を突破しようとしておりまして……!」
「ピンク色の何か?」
「『お姉様を返せぇぇぇ!』と叫びながら、門にしがみついて泣いております! 警備兵が排除しようとしたのですが、『可哀想すぎて触れない』と困惑しており……!」
チェルシーとサイラスは顔を見合わせた。
その特徴(プロファイル)に合致する人物は、この国に一人しかいない。
「……ミナ男爵令嬢ですね」
「ああ。エリオット殿下の婚約者にして、歩く労働災害(トラブルメーカー)だ」
チェルシーは溜息をつき、懐中時計を確認した。
「放置すると近所迷惑になります。騒音問題で通報される前に処理しましょう」
「私が追い返してこよう」
「いいえ、彼女は対話不能(エラー)な存在です。閣下の論理は通じません。私が対応します」
チェルシーは立ち上がり、戦闘服(ドレス)の裾を払った。
***
宰相邸の正門前。
そこでは、ミナが鉄柵にしがみつき、セミのように泣き叫んでいた。
「お姉様ぁぁぁ! 出てきてくださいぃぃ! うぅっ、酷い……こんな鉄格子のついたお屋敷に閉じ込められて……!」
「……鉄格子ではありません。防犯用のフェンスです」
冷ややかな声が降ってくる。
ミナが顔を上げると、門の内側にチェルシーが立っていた。
日傘を差し、涼しい顔でこちらを見下ろしている。
「お姉様っ! 無事でしたか!?」
「五体満足、健康状態は良好です。何の用ですか? アポイントメントはありませんが」
「アポなんていりません! 私、お姉様を助けに来たんです!」
「助ける?」
チェルシーが首を傾げる。
「はい! 私、見ちゃいました……一昨日、お城で、お姉様が鬼のような形相でハンコを押しているところを!」
ミナは涙ながらに訴えた。
「あんなに働かされるなんて……やっぱりお姉様、あの怖い宰相さんに脅されているんですよね!? 『借金を返したければ馬車馬のように働け!』って!」
「……」
チェルシーは数秒間、沈黙した。
ミナの脳内変換機能は、ある意味で天才的だ。
あの業務は「高額コンサルティング」であり、脅されたのはむしろ王子の方だったのだが。
「認識に重大なバグがあります。私は脅されていません。あれは業務委託契約に基づいた正当な労働です」
「嘘です! だって、お姉様、全然笑ってなかった! 目が死んでたもの!」
「集中していただけです。フロー状態(没頭)に入ると表情筋の活動は停止します」
「それが不幸の証拠です! エリオット様も言ってました。『チェルシーは今頃、冷たい地下牢で鎖に繋がれて、内職をさせられているに違いない』って!」
「殿下の想像力は、なぜいつも悪い方向にクリエイティブなのでしょうか」
チェルシーは呆れて門を開けさせた。
このまま門前で騒がれては、ご近所の資産価値に関わる。
「入りなさい、ミナ様。百聞は一見に如かず。私の『不幸な生活』とやらを、その目で確認するといいわ」
「は、はい! お姉様、今すぐ連れて逃げてあげますからね!」
ミナは勇ましく(しかし足元の石につまずきながら)屋敷に足を踏み入れた。
***
応接室に通されたミナは、キョロキョロと室内を見回した。
「……あれ? 地下牢じゃない?」
「ここは地上二階の応接室です。日当たり良好、通気性抜群です」
チェルシーがソファを勧める。
すぐにメイドがお茶とお菓子を運んできた。
最高級茶葉のダージリンと、有名パティスリーの季節のフルーツタルトだ。
「ど、毒が入ってるんじゃ……」
「入っていません。入っているのはビタミンとポリフェノールです。どうぞ」
ミナはおずおずとタルトを口にした。
瞬間、目が輝く。
「おいしぃぃぃ~♡」
「でしょうね。我が家のシェフは王都でも五本の指に入ります」
「でも、騙されません! これはお姉様を太らせて食べるための餌付け作戦です!」
「……私は家畜ではありません。それに、私のBMI(体格指数)は一八・五で安定しています」
チェルシーが紅茶を啜っていると、扉が開いた。
現れたのは、部屋着(といっても高級なシルクシャツ)姿のサイラスだ。
「……騒がしいな。害虫駆除は終わっていないのか?」
「ひぃっ! で、出たぁぁぁ! ラスボス!」
ミナがソファの影に隠れて震え上がる。
サイラスの鋭い眼光と、冷徹な美貌は、小動物(ミナ)にとっては捕食者にしか見えないらしい。
「失礼ですね。彼は私の夫であり、この家のオーナーです」
「でもお姉様! その人、目が笑ってないですよ! 絶対にお姉様のこと、『便利な道具』としか思ってません!」
ミナが指差して叫ぶ。
その指摘に、サイラスはふっと口元を歪めた。
「……便利な道具、か。否定はしないな」
「ほらやっぱり!」
「彼女ほど有能で、多機能で、維持費対効果の高い存在はいない。私の人生において、彼女を手放すことは最大の損失(リスク)だ」
サイラスはチェルシーの隣に座り、自然にその腰に手を回した。
「だからこそ、私は彼女を丁重に扱う。最高のメンテナンス環境と、セキュリティ、そして報酬を与えてな」
「ほ、報酬って……どうせ銅貨数枚でしょ!?」
「いいや。私の全財産と、公爵家の全権限だ」
「えっ」
ミナがポカンと口を開ける。
サイラスは続ける。
「ついでに言えば、彼女の睡眠時間を確保するために私が夜な夜なホットミルクを作り、彼女が肩こりを訴えれば専属マッサージ師を手配し、彼女が『寒い』と言えば私が体温を提供している」
「……えっと、それって……」
「俗に言う『溺愛』というやつらしいが。どう見える?」
サイラスがチェルシーを見つめる。
その瞳は、確かに冷徹だが、チェルシーを映す時だけは妙に熱っぽく、甘い。
チェルシーも平然と頷く。
「ええ。契約条項に基づき、閣下は私のメンタルケアを完璧に遂行されています。昨夜も、就寝前の『ハグ五分間』のノルマを達成されました」
「五分ではない。七分三十秒だ。記録は正確にな」
「おや、修正ありがとうございます」
二人の間に流れる空気。
それは「熱烈なラブラブ」というよりは、「噛み合ってないのになぜか成立している、奇妙なイチャイチャ」だった。
ミナの小さすぎる脳味噌が、処理落ちを起こして煙を上げ始めた。
「わ、わけがわからないよぉ……! お姉様は不幸なの? 幸せなの?」
「定義によりますが」
チェルシーは指を立てて解説する。
「『愛=感情の揺れ動き』と定義するなら、私は冷静ですので該当しません。しかし、『幸福=欲求の充足とストレスフリーな環境』と定義するなら、私は現在、この上なく幸福です」
「うぅ……難しいこと言わないでぇ……」
「結論を言います。ミナ様、貴女の心配は無用です。私はこの『鉄仮面』と称される旦那様と、非常に効率的で快適な結婚生活を送っています。エリオット殿下と泥遊びをしているより、遥かに生産的ですので」
「ど、泥遊び!?」
「ええ。殿下との日々は、生産性のない感情の泥仕合でしたから。……さて、納得していただけましたか?」
チェルシーがニッコリ(営業用スマイル)と笑う。
ミナは完全に気圧された。
彼女の知っている「いじめっ子のお姉様」はそこにはいない。
いるのは、ハイスペックな旦那様に守られ、自信に満ち溢れた「公爵夫人」だった。
「うぅ……わかりました。お姉様が幸せなら……いいです」
ミナはしょんぼりと肩を落とした。
その姿は、捨てられた子犬のようで少し哀れだ。
チェルシーは少し考え、テーブルの上のクッキーを包んで渡した。
「お土産です。これを殿下に渡してください。糖分補給が必要です」
「あ……ありがとうございます」
「それと、伝言を。『次回のコンサルティングが必要な場合は、早めに予約を。特別料金で対応します』と」
「は、はい……」
ミナはクッキーを抱え、トボトボと帰っていった。
「やっぱりお姉様、怖かったぁ……でも、あの旦那様、本当にお姉様のこと好きなのかなぁ……変な人たち……」と呟きながら。
嵐が去り、再び静寂が戻った応接室。
「……やれやれ。これでセキュリティホールは塞がったか」
サイラスが肩をすくめる。
「ええ。当分は来ないでしょう。……ですが、ミナ様がああして騒いでくれたお陰で、一つ有益なデータが得られました」
「なんだ?」
「閣下が、私のことを『全財産』に匹敵する価値があると評価されていること、です」
チェルシーが少し揶揄うように言うと、サイラスは咳払いをして顔を背けた。
「……事実を述べたまでだ。君の市場価値は青天井(プライスレス)だからな」
「あら。では、今夜の『ハグ』のノルマは、十分間に延長して差し上げましょうか?」
「……悪くない提案だ。採用する」
二人は再び、甘いお茶と甘くない会話の続きを楽しんだ。
ミナの襲来は、結果として夫婦の絆(という名の契約更新)を強固にするだけのイベントに終わったのである。
宰相邸のサンルームで、チェルシーは優雅にティータイムを楽しんでいた。
ただし、テーブルの上にはスコーンやクッキーではなく、領地の「灌漑工事計画書」と「土壌改良データ」が広げられている。
彼女にとっての「優雅」とは、何もしないことではなく、誰にも邪魔されずにタスクを消化することなのだ。
「……ふむ。水路の勾配を二度修正すれば、流速が一五%向上するわね」
「熱心だな、チェルシー。だが、スコーンが冷めるぞ」
向かいの席では、サイラスが分厚い洋書(おそらく他国の法律書)を片手に、焼きたてのスコーンにクロテッドクリームを塗っていた。
彼の手つきは正確で、クリームの配分は黄金比(一対一・六一八)を守っているように見える。
「ありがとうございます、あなた。……あら、美味しい。この小麦、産地を変えました?」
「気づいたか。北部の契約農家から直送させた。君が『粉の香りが弱い』と指摘したからな」
「素晴らしい改善(カイゼン)です。評価Aプラスを与えます」
「光栄だ」
穏やかな午後。
二人の間には、静謐で合理的な愛(のようなもの)が満ちていた。
だが、その平穏は唐突に破られる。
「大変です! 旦那様、奥様!」
門番が血相を変えてサンルームに駆け込んできた。
「緊急事態(エマージェンシー)ですか? 侵入者? それとも火災?」
サイラスが即座に立ち上がり、チェルシーを背に庇う。
だが、門番の報告は予想外のものだった。
「い、いえ……その、ピンク色の『何か』が正門を突破しようとしておりまして……!」
「ピンク色の何か?」
「『お姉様を返せぇぇぇ!』と叫びながら、門にしがみついて泣いております! 警備兵が排除しようとしたのですが、『可哀想すぎて触れない』と困惑しており……!」
チェルシーとサイラスは顔を見合わせた。
その特徴(プロファイル)に合致する人物は、この国に一人しかいない。
「……ミナ男爵令嬢ですね」
「ああ。エリオット殿下の婚約者にして、歩く労働災害(トラブルメーカー)だ」
チェルシーは溜息をつき、懐中時計を確認した。
「放置すると近所迷惑になります。騒音問題で通報される前に処理しましょう」
「私が追い返してこよう」
「いいえ、彼女は対話不能(エラー)な存在です。閣下の論理は通じません。私が対応します」
チェルシーは立ち上がり、戦闘服(ドレス)の裾を払った。
***
宰相邸の正門前。
そこでは、ミナが鉄柵にしがみつき、セミのように泣き叫んでいた。
「お姉様ぁぁぁ! 出てきてくださいぃぃ! うぅっ、酷い……こんな鉄格子のついたお屋敷に閉じ込められて……!」
「……鉄格子ではありません。防犯用のフェンスです」
冷ややかな声が降ってくる。
ミナが顔を上げると、門の内側にチェルシーが立っていた。
日傘を差し、涼しい顔でこちらを見下ろしている。
「お姉様っ! 無事でしたか!?」
「五体満足、健康状態は良好です。何の用ですか? アポイントメントはありませんが」
「アポなんていりません! 私、お姉様を助けに来たんです!」
「助ける?」
チェルシーが首を傾げる。
「はい! 私、見ちゃいました……一昨日、お城で、お姉様が鬼のような形相でハンコを押しているところを!」
ミナは涙ながらに訴えた。
「あんなに働かされるなんて……やっぱりお姉様、あの怖い宰相さんに脅されているんですよね!? 『借金を返したければ馬車馬のように働け!』って!」
「……」
チェルシーは数秒間、沈黙した。
ミナの脳内変換機能は、ある意味で天才的だ。
あの業務は「高額コンサルティング」であり、脅されたのはむしろ王子の方だったのだが。
「認識に重大なバグがあります。私は脅されていません。あれは業務委託契約に基づいた正当な労働です」
「嘘です! だって、お姉様、全然笑ってなかった! 目が死んでたもの!」
「集中していただけです。フロー状態(没頭)に入ると表情筋の活動は停止します」
「それが不幸の証拠です! エリオット様も言ってました。『チェルシーは今頃、冷たい地下牢で鎖に繋がれて、内職をさせられているに違いない』って!」
「殿下の想像力は、なぜいつも悪い方向にクリエイティブなのでしょうか」
チェルシーは呆れて門を開けさせた。
このまま門前で騒がれては、ご近所の資産価値に関わる。
「入りなさい、ミナ様。百聞は一見に如かず。私の『不幸な生活』とやらを、その目で確認するといいわ」
「は、はい! お姉様、今すぐ連れて逃げてあげますからね!」
ミナは勇ましく(しかし足元の石につまずきながら)屋敷に足を踏み入れた。
***
応接室に通されたミナは、キョロキョロと室内を見回した。
「……あれ? 地下牢じゃない?」
「ここは地上二階の応接室です。日当たり良好、通気性抜群です」
チェルシーがソファを勧める。
すぐにメイドがお茶とお菓子を運んできた。
最高級茶葉のダージリンと、有名パティスリーの季節のフルーツタルトだ。
「ど、毒が入ってるんじゃ……」
「入っていません。入っているのはビタミンとポリフェノールです。どうぞ」
ミナはおずおずとタルトを口にした。
瞬間、目が輝く。
「おいしぃぃぃ~♡」
「でしょうね。我が家のシェフは王都でも五本の指に入ります」
「でも、騙されません! これはお姉様を太らせて食べるための餌付け作戦です!」
「……私は家畜ではありません。それに、私のBMI(体格指数)は一八・五で安定しています」
チェルシーが紅茶を啜っていると、扉が開いた。
現れたのは、部屋着(といっても高級なシルクシャツ)姿のサイラスだ。
「……騒がしいな。害虫駆除は終わっていないのか?」
「ひぃっ! で、出たぁぁぁ! ラスボス!」
ミナがソファの影に隠れて震え上がる。
サイラスの鋭い眼光と、冷徹な美貌は、小動物(ミナ)にとっては捕食者にしか見えないらしい。
「失礼ですね。彼は私の夫であり、この家のオーナーです」
「でもお姉様! その人、目が笑ってないですよ! 絶対にお姉様のこと、『便利な道具』としか思ってません!」
ミナが指差して叫ぶ。
その指摘に、サイラスはふっと口元を歪めた。
「……便利な道具、か。否定はしないな」
「ほらやっぱり!」
「彼女ほど有能で、多機能で、維持費対効果の高い存在はいない。私の人生において、彼女を手放すことは最大の損失(リスク)だ」
サイラスはチェルシーの隣に座り、自然にその腰に手を回した。
「だからこそ、私は彼女を丁重に扱う。最高のメンテナンス環境と、セキュリティ、そして報酬を与えてな」
「ほ、報酬って……どうせ銅貨数枚でしょ!?」
「いいや。私の全財産と、公爵家の全権限だ」
「えっ」
ミナがポカンと口を開ける。
サイラスは続ける。
「ついでに言えば、彼女の睡眠時間を確保するために私が夜な夜なホットミルクを作り、彼女が肩こりを訴えれば専属マッサージ師を手配し、彼女が『寒い』と言えば私が体温を提供している」
「……えっと、それって……」
「俗に言う『溺愛』というやつらしいが。どう見える?」
サイラスがチェルシーを見つめる。
その瞳は、確かに冷徹だが、チェルシーを映す時だけは妙に熱っぽく、甘い。
チェルシーも平然と頷く。
「ええ。契約条項に基づき、閣下は私のメンタルケアを完璧に遂行されています。昨夜も、就寝前の『ハグ五分間』のノルマを達成されました」
「五分ではない。七分三十秒だ。記録は正確にな」
「おや、修正ありがとうございます」
二人の間に流れる空気。
それは「熱烈なラブラブ」というよりは、「噛み合ってないのになぜか成立している、奇妙なイチャイチャ」だった。
ミナの小さすぎる脳味噌が、処理落ちを起こして煙を上げ始めた。
「わ、わけがわからないよぉ……! お姉様は不幸なの? 幸せなの?」
「定義によりますが」
チェルシーは指を立てて解説する。
「『愛=感情の揺れ動き』と定義するなら、私は冷静ですので該当しません。しかし、『幸福=欲求の充足とストレスフリーな環境』と定義するなら、私は現在、この上なく幸福です」
「うぅ……難しいこと言わないでぇ……」
「結論を言います。ミナ様、貴女の心配は無用です。私はこの『鉄仮面』と称される旦那様と、非常に効率的で快適な結婚生活を送っています。エリオット殿下と泥遊びをしているより、遥かに生産的ですので」
「ど、泥遊び!?」
「ええ。殿下との日々は、生産性のない感情の泥仕合でしたから。……さて、納得していただけましたか?」
チェルシーがニッコリ(営業用スマイル)と笑う。
ミナは完全に気圧された。
彼女の知っている「いじめっ子のお姉様」はそこにはいない。
いるのは、ハイスペックな旦那様に守られ、自信に満ち溢れた「公爵夫人」だった。
「うぅ……わかりました。お姉様が幸せなら……いいです」
ミナはしょんぼりと肩を落とした。
その姿は、捨てられた子犬のようで少し哀れだ。
チェルシーは少し考え、テーブルの上のクッキーを包んで渡した。
「お土産です。これを殿下に渡してください。糖分補給が必要です」
「あ……ありがとうございます」
「それと、伝言を。『次回のコンサルティングが必要な場合は、早めに予約を。特別料金で対応します』と」
「は、はい……」
ミナはクッキーを抱え、トボトボと帰っていった。
「やっぱりお姉様、怖かったぁ……でも、あの旦那様、本当にお姉様のこと好きなのかなぁ……変な人たち……」と呟きながら。
嵐が去り、再び静寂が戻った応接室。
「……やれやれ。これでセキュリティホールは塞がったか」
サイラスが肩をすくめる。
「ええ。当分は来ないでしょう。……ですが、ミナ様がああして騒いでくれたお陰で、一つ有益なデータが得られました」
「なんだ?」
「閣下が、私のことを『全財産』に匹敵する価値があると評価されていること、です」
チェルシーが少し揶揄うように言うと、サイラスは咳払いをして顔を背けた。
「……事実を述べたまでだ。君の市場価値は青天井(プライスレス)だからな」
「あら。では、今夜の『ハグ』のノルマは、十分間に延長して差し上げましょうか?」
「……悪くない提案だ。採用する」
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