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宰相邸の執務室。
今日も今日とて、チェルシーとサイラスは並んでデスクに向かい、国の行政を動かしていた。
だが、今日のサイラスは少し様子がおかしい。
いつもなら流れるようなペン運びで書類を決済していくのだが、今日は頻繁にペンを止め、眉間にシワを寄せている。
そして時折、隣のチェルシーをじっと見つめては、フンと鼻を鳴らして書類に戻るのだ。
(……稼働率が低下していますね)
チェルシーは手元の損益計算書から目を離さずに分析した。
(閣下の通常時の書類処理速度は時速四十五枚。現在は時速三十枚にまで落ち込んでいる。原因は……気圧の変化による偏頭痛? それとも昨夜の『ハグ延長戦』による睡眠不足?)
チェルシーは、昨夜のことを思い出す。
王子の手紙を撃退した後、サイラスは「よくやった」と褒めてくれたものの、就寝前のハグがやけに長く、かつ力が強かった。
「……苦しいです、閣下。酸素飽和度が下がります」と申告するまで、彼はチェルシーを離さなかったのだ。
「……チェルシー」
不意に名前を呼ばれた。
チェルシーは顔を上げる。
「はい、閣下。何かご用命でしょうか? コーヒーのおかわりなら、あと三分で抽出が完了します」
「違う。……君のこれからの予定だ」
サイラスはペンを置き、椅子を回転させてチェルシーの方を向いた。
「来週、王城で開かれる『建国記念祝賀会』の招待状が来ているだろう」
「はい。夫婦での参加が義務付けられている公式行事ですので、スケジューリング済みです。ドレスの手配も完了しています」
「……その会場で、エリオット殿下がまた君に接触してくる可能性がある」
サイラスの声が低くなる。
その瞳には、隠しきれない不快感(イライラ)が滲んでいた。
「先日の手紙といい、あの馬鹿……失礼、殿下は学習能力がない。君が赤ペンで0点をつけても、それを『愛の鞭』だと都合よく解釈する恐れがある」
「否定できません。殿下のポジティブ思考は、ある意味で国家の防壁よりも強固ですから」
「そこでだ」
サイラスが立ち上がり、チェルシーの椅子の背に手をかけた。
そして、顔を近づける。
いわゆる「壁ドン」ならぬ「椅子ドン」の体勢だ。
「会場では、私の側から片時も離れるな。トイレに行く時も、飲み物を取る時もだ。半径一メートル以内を維持しろ」
「……一メートルですか? ソーシャルディスタンスとしては適切ですが、ダンスや会話の際には少々不自然な距離感になりかねませんが」
「なら五十センチだ。いや、ゼロ距離でも構わない」
サイラスの顔がさらに近づく。
吐息がかかる距離。
その瞳は真剣そのもので、まるで重要な外交機密を囁くかのような緊張感を帯びていた。
「いいか、チェルシー。君は私の妻であり、私の補佐官だ。君という『最高戦力』を、あの無能な王子ごときに奪われるわけにはいかない」
「……合理的です。人材流出(ブレインドレイン)は組織にとって致命的ですから」
チェルシーは頷いた。
有能な社員がライバル企業(この場合は王子一派)に引き抜かれるのを防ぐ。経営者として当然のリスク管理だ。
「ですので、ご安心ください。私は契約遵守の精神を重んじます。殿下の元に戻るメリットはありませんし、私のキャリアプランにも『王子の介護』という項目はありません」
「……そうじゃない」
サイラスが少し苛ただしげに呟いた。
「契約とかメリットとか、そういう理屈の話をしているんじゃない。私が言いたいのは……感情の問題だ」
「感情?」
「ああ。君があの男と言葉を交わすだけで、私は不愉快だ。君があの男の文字(手紙)を目にするだけで、私の精神衛生が悪化する。……これがどういう意味か分かるか?」
サイラスがチェルシーの手を取り、自分の胸に当てさせた。
ドクン、ドクンと心臓が強く打っているのが伝わってくる。
「心拍数上昇。交感神経の昂り。……ストレス反応ですね。やはり殿下の存在自体が、閣下にとって強力なアレルゲンになっているようです」
「……違う。いや、違わないが、そうじゃない」
サイラスは天を仰いだ。
なぜ伝わらないのか。
「嫉妬している」「独占したい」と言っているのに、なぜこの妻は「ストレス」や「アレルギー」で片付けてしまうのか。
だが、彼は気を取り直して、チェルシーの目を真っ直ぐに見つめた。
「とにかく、だ。私は君を誰にも渡すつもりはない。エリオット殿下にも、他の貴族にもだ。君は私の……私の専属だ。分かるな?」
その言葉は、熱を帯びていた。
「専属」という言葉の響きに、チェルシーはピクリと反応する。
(専属……つまり、排他的利用権の行使宣言ですね)
チェルシーの脳内で、契約書の一部が書き換えられる。
『甲(サイラス)は乙(チェルシー)に対し、業務時間内外を問わず、第三者からの干渉を排除する権利を有する』
「理解いたしました、閣下」
チェルシーはキリッとした表情で答えた。
「つまり、私は閣下だけの『占有資産』であると。他者への貸し出しや共有は一切行わないという、強いセキュリティポリシーの宣言ですね」
「……まあ、意訳すればそうだ」
「承知しました。では、祝賀会当日は『サイラス・ヴァーミリオン所有物(プロパティ)』というタグを背中に貼っておきましょうか? あるいは、首から『使用中』の札を下げておきますか?」
「……そこまではしなくていい。逆に目立つ」
サイラスはガックリと肩を落とした。
だが、チェルシーなりの「貴方のものです」という意思表示であることは伝わった。
彼は苦笑し、チェルシーの手の甲に口づけを落とした。
「タグは不要だ。その代わり……当日は、誰が見ても『私のもの』だと分かるような振る舞いをさせてもらう」
「振る舞い? 具体的には?」
「……マーキングだ」
「マーキング……? 香水でも振りかけるのですか?」
「当日のお楽しみだ」
サイラスは意味深に笑い、ようやく自分の席に戻った。
チェルシーは首を傾げつつ、仕事に戻る。
(マーキング……。動物行動学的には縄張りの主張ですが、人間社会においては何に該当するのでしょう? ペアルック? それとも、お揃いの社章バッジをつけるとか?)
チェルシーの想像は、相変わらずロマンの斜め下を行っていた。
だが、サイラスの機嫌が直り、書類処理速度が時速五十枚(通常以上)に回復したことだけは、喜ばしい事実だった。
「……ふふっ」
隣で快調にペンを走らせる夫を見ながら、チェルシーは無意識に微笑んだ。
「独占したい」と言われることが、なぜか少しだけ心地よい。
それを彼女が「所有欲求の充足による安心感」ではなく「愛」だと自覚するには、もう少しのデータ蓄積が必要なようだった。
そして、運命の祝賀会の日が近づいてくる。
それは、サイラスが予告通り「強烈なマーキング」を行い、社交界を震撼させ、エリオット王子を再起不能にするXデーでもあった。
今日も今日とて、チェルシーとサイラスは並んでデスクに向かい、国の行政を動かしていた。
だが、今日のサイラスは少し様子がおかしい。
いつもなら流れるようなペン運びで書類を決済していくのだが、今日は頻繁にペンを止め、眉間にシワを寄せている。
そして時折、隣のチェルシーをじっと見つめては、フンと鼻を鳴らして書類に戻るのだ。
(……稼働率が低下していますね)
チェルシーは手元の損益計算書から目を離さずに分析した。
(閣下の通常時の書類処理速度は時速四十五枚。現在は時速三十枚にまで落ち込んでいる。原因は……気圧の変化による偏頭痛? それとも昨夜の『ハグ延長戦』による睡眠不足?)
チェルシーは、昨夜のことを思い出す。
王子の手紙を撃退した後、サイラスは「よくやった」と褒めてくれたものの、就寝前のハグがやけに長く、かつ力が強かった。
「……苦しいです、閣下。酸素飽和度が下がります」と申告するまで、彼はチェルシーを離さなかったのだ。
「……チェルシー」
不意に名前を呼ばれた。
チェルシーは顔を上げる。
「はい、閣下。何かご用命でしょうか? コーヒーのおかわりなら、あと三分で抽出が完了します」
「違う。……君のこれからの予定だ」
サイラスはペンを置き、椅子を回転させてチェルシーの方を向いた。
「来週、王城で開かれる『建国記念祝賀会』の招待状が来ているだろう」
「はい。夫婦での参加が義務付けられている公式行事ですので、スケジューリング済みです。ドレスの手配も完了しています」
「……その会場で、エリオット殿下がまた君に接触してくる可能性がある」
サイラスの声が低くなる。
その瞳には、隠しきれない不快感(イライラ)が滲んでいた。
「先日の手紙といい、あの馬鹿……失礼、殿下は学習能力がない。君が赤ペンで0点をつけても、それを『愛の鞭』だと都合よく解釈する恐れがある」
「否定できません。殿下のポジティブ思考は、ある意味で国家の防壁よりも強固ですから」
「そこでだ」
サイラスが立ち上がり、チェルシーの椅子の背に手をかけた。
そして、顔を近づける。
いわゆる「壁ドン」ならぬ「椅子ドン」の体勢だ。
「会場では、私の側から片時も離れるな。トイレに行く時も、飲み物を取る時もだ。半径一メートル以内を維持しろ」
「……一メートルですか? ソーシャルディスタンスとしては適切ですが、ダンスや会話の際には少々不自然な距離感になりかねませんが」
「なら五十センチだ。いや、ゼロ距離でも構わない」
サイラスの顔がさらに近づく。
吐息がかかる距離。
その瞳は真剣そのもので、まるで重要な外交機密を囁くかのような緊張感を帯びていた。
「いいか、チェルシー。君は私の妻であり、私の補佐官だ。君という『最高戦力』を、あの無能な王子ごときに奪われるわけにはいかない」
「……合理的です。人材流出(ブレインドレイン)は組織にとって致命的ですから」
チェルシーは頷いた。
有能な社員がライバル企業(この場合は王子一派)に引き抜かれるのを防ぐ。経営者として当然のリスク管理だ。
「ですので、ご安心ください。私は契約遵守の精神を重んじます。殿下の元に戻るメリットはありませんし、私のキャリアプランにも『王子の介護』という項目はありません」
「……そうじゃない」
サイラスが少し苛ただしげに呟いた。
「契約とかメリットとか、そういう理屈の話をしているんじゃない。私が言いたいのは……感情の問題だ」
「感情?」
「ああ。君があの男と言葉を交わすだけで、私は不愉快だ。君があの男の文字(手紙)を目にするだけで、私の精神衛生が悪化する。……これがどういう意味か分かるか?」
サイラスがチェルシーの手を取り、自分の胸に当てさせた。
ドクン、ドクンと心臓が強く打っているのが伝わってくる。
「心拍数上昇。交感神経の昂り。……ストレス反応ですね。やはり殿下の存在自体が、閣下にとって強力なアレルゲンになっているようです」
「……違う。いや、違わないが、そうじゃない」
サイラスは天を仰いだ。
なぜ伝わらないのか。
「嫉妬している」「独占したい」と言っているのに、なぜこの妻は「ストレス」や「アレルギー」で片付けてしまうのか。
だが、彼は気を取り直して、チェルシーの目を真っ直ぐに見つめた。
「とにかく、だ。私は君を誰にも渡すつもりはない。エリオット殿下にも、他の貴族にもだ。君は私の……私の専属だ。分かるな?」
その言葉は、熱を帯びていた。
「専属」という言葉の響きに、チェルシーはピクリと反応する。
(専属……つまり、排他的利用権の行使宣言ですね)
チェルシーの脳内で、契約書の一部が書き換えられる。
『甲(サイラス)は乙(チェルシー)に対し、業務時間内外を問わず、第三者からの干渉を排除する権利を有する』
「理解いたしました、閣下」
チェルシーはキリッとした表情で答えた。
「つまり、私は閣下だけの『占有資産』であると。他者への貸し出しや共有は一切行わないという、強いセキュリティポリシーの宣言ですね」
「……まあ、意訳すればそうだ」
「承知しました。では、祝賀会当日は『サイラス・ヴァーミリオン所有物(プロパティ)』というタグを背中に貼っておきましょうか? あるいは、首から『使用中』の札を下げておきますか?」
「……そこまではしなくていい。逆に目立つ」
サイラスはガックリと肩を落とした。
だが、チェルシーなりの「貴方のものです」という意思表示であることは伝わった。
彼は苦笑し、チェルシーの手の甲に口づけを落とした。
「タグは不要だ。その代わり……当日は、誰が見ても『私のもの』だと分かるような振る舞いをさせてもらう」
「振る舞い? 具体的には?」
「……マーキングだ」
「マーキング……? 香水でも振りかけるのですか?」
「当日のお楽しみだ」
サイラスは意味深に笑い、ようやく自分の席に戻った。
チェルシーは首を傾げつつ、仕事に戻る。
(マーキング……。動物行動学的には縄張りの主張ですが、人間社会においては何に該当するのでしょう? ペアルック? それとも、お揃いの社章バッジをつけるとか?)
チェルシーの想像は、相変わらずロマンの斜め下を行っていた。
だが、サイラスの機嫌が直り、書類処理速度が時速五十枚(通常以上)に回復したことだけは、喜ばしい事実だった。
「……ふふっ」
隣で快調にペンを走らせる夫を見ながら、チェルシーは無意識に微笑んだ。
「独占したい」と言われることが、なぜか少しだけ心地よい。
それを彼女が「所有欲求の充足による安心感」ではなく「愛」だと自覚するには、もう少しのデータ蓄積が必要なようだった。
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