悪役令嬢、婚約破棄に即答する、この王子〇〇すぎて私が悪女に見えるだけでは?

恋の箱庭

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「……ただいま、チェルシー」


その日の夜遅く、帰宅したサイラスの姿を見た瞬間、チェルシーは手にしていたティーカップをソーサーに置いた。

いつもは鉄のように強靭で、姿勢の良いサイラスが、今日はまるで錆びついた廃材のように扉に寄りかかっていたからだ。


「……閣下。顔色が青白さを通り越して土気色(アッシュグレー)です。目の下のクマの深さは三ミリ。歩行時のふらつきあり。……緊急事態(コード・レッド)ですね?」


チェルシーが駆け寄ると、サイラスは力なく笑おうとして、失敗した。


「ああ……少し、働きすぎたようだ。……三日間、一睡もしていない」


「七十二時間連続稼働!? 労働基準法違反どころか、人体実験のレベルです! 一体何が?」


サイラスは重い足取りでソファに倒れ込んだ。

チェルシーはすぐにネクタイを緩め、水を用意する。

サイラスは水を一口飲み、呪詛のように呟いた。


「……エリオット殿下だ」


「またですか。あのバグ(王子)は、今度は何をやらかしたのです?」


「『税制改革』だ」


「は?」


チェルシーは耳を疑った。

税制。国家の根幹であり、最も複雑かつ繊細なシステムだ。

それを、あの王子が? 足し算と引き算も怪しい彼が?


「殿下は仰ったそうだ。『税金計算は難しすぎて、国民が可哀想だ! もっとシンプルでハッピーな税制にしよう!』と」


「……嫌な予感がします。具体的には?」


「『愛国心特別控除』の導入だ。『この国が大好きだ!』と窓口で叫べば、税金が半額になるシステムを、独断で施行しやがった」


「……正気ですか?」


チェルシーの眼鏡(心の目)が割れる音がした。


「結果はどうなりました?」


「当然、国民全員が『大好きだー!』と叫んで、税収が半減した。それだけじゃない。叫び声の音量判定のために役人が駆り出され、窓口が大混雑。さらに『愛の証明書』の発行手続きで書類が昨年の五倍に膨れ上がった」


「地獄絵図ですね。……いえ、ただの馬鹿です」


「その尻拭いを……この三日間、私が一人でやっていた。……減税分の穴埋めのために緊急国債を発行し、役人の配置転換を行い、殿下の署名を偽造……いや、代行して撤回命令を出し……」


サイラスの言葉が途切れる。

彼の頭がガクリと揺れ、そのままチェルシーの肩に倒れかかってきた。


「閣下!?」


「……すまない、チェルシー。少し……シャットダウンする……」


「サイラス様! サイラス様!」


返事はない。

聞こえるのは、浅く速い呼吸音だけ。

完全にバッテリー切れ(過労による気絶)だ。


チェルシーはサイラスの体をソファに横たえ、ブランケットをかけた。

その寝顔は、いつもの精悍さは影を潜め、疲れ切った少年のようだった。

チェルシーは、そっと彼の手を握った。

冷たい。

いつもは温かく、チェルシーを安心させてくれる大きな手が、今は氷のように冷たい。


その瞬間。

チェルシーの胸の奥で、何かが「パチン」と弾けた。


(……許せない)


それは、これまでに感じたことのない、熱く、激しい感情だった。

エリオット王子への呆れや軽蔑ではない。

明確な「怒り」。

自分の大切なパートナー(資産)を、あのような無能なウイルスによって傷つけられたことへの、猛烈な憤り。


「……私の夫を、ここまで酷使するとは」


チェルシーの声は、絶対零度よりも冷たく、それでいてマグマのように煮えたぎっていた。


「これはもはや、業務妨害の域を超えています。……公爵家への宣戦布告と見なします」


チェルシーは立ち上がった。

その動きに、もはや慈悲はない。

彼女は執務机に向かい、一枚の羊皮紙を取り出した。

サラサラとペンを走らせる。

それは「請求書」ではない。

「辞表」でもない。


**『エリオット王太子殿下に対する、最終通告及び実力行使予告書』**


チェルシーはそれを懐に入れると、部屋の隅に控えていた執事セバスチャンを呼んだ。


「セバスチャン。旦那様をお願いします。最高級の栄養剤と、安眠アロマを」


「かしこまりました。……奥様はどちらへ?」


「少し、害虫駆除(バグフィックス)に行ってまいります」


チェルシーは夜用の外出着(戦闘服)を羽織った。

黒いケープを翻し、彼女は夜の闇へと消えていく。


「馬車を出して。行き先は王城。……正門を突破します」


***


王城の門前。

深夜にもかかわらず、一人の貴婦人が門を叩いていた。


「開けなさい」


「こ、困ります公爵夫人! こんな夜更けにアポなしでは……!」


衛兵が止めるが、チェルシーの殺気に気圧されて後ずさる。


「緊急事態です。国家の中枢(宰相)がダウンしました。原因となるウイルス(王子)を隔離・無力化しなければ、明日にもこの国は機能不全(システムダウン)に陥ります」


「は、はぁ……?」


「通り魔に遭いたくなければ、道を開けることね」


チェルシーは衛兵を睨みだけで無力化し、ツカツカと城内へ侵入した。

目指すは王子の私室。

普段なら「不敬罪」で即逮捕の暴挙だが、今の彼女には「道理」も「法」も関係ない。

あるのは「私のサイラスを休ませる」という目的関数(オブジェクティブ)のみ。


バンッ!!


王子の寝室の扉が、蹴破られた(ように見えるほど勢いよく開けられた)。


「な、なんだ!? 刺客か!?」


パジャマ姿のエリオット王子が、ベッドから飛び起きる。

枕元にはナイトキャップを被ったミナもいた。


「きゃっ! お化けぇ!?」


そこに立っていたのは、鬼の形相……ではない。

無表情。

完全なる無表情のまま、青白い炎を背負ったチェルシーだった。


「ごきげんよう、殿下。いい夢を見ていらっしゃいましたか?」


「チ、チェルシー!? な、なんでここに……まさか、夜這いか!? ついに俺への愛を抑えきれずに……!」


「寝言は寝て言ってください。……いえ、もう二度と目覚めなくても結構ですが」


チェルシーが一歩近づく。

エリオットは本能的な恐怖を感じてベッドの隅に後ずさった。


「な、なんだその目は! 俺を殺す気か!?」


「殺しません。殺すと死体処理のコストがかかりますので。……ただ」


チェルシーは懐から、先ほどの『通告書』を取り出し、王子の顔面に叩きつけた。


「私の夫、サイラス・ヴァーミリオン公爵は、貴方の浅はかな思いつきのせいで倒れました」


「えっ? サイラスが? あいつ、鉄人じゃなかったのか?」


「人間です。貴方と同じく、心臓があり、限界がある人間です。……それを貴方は、三日間も不眠不休で働かせ、命を削らせた」


チェルシーの声が震えた。

それは悲しみではない。激怒による共振だ。


「私は、自分の所有物が傷つけられるのを何よりも嫌います。特に、サイラス様は私の『最重要資産』であり、替えの利かないパートナーです」


チェルシーは王子の胸倉(パジャマの襟)を掴み上げた。

細腕のどこにそんな力があるのか、王子が浮き上がる。


「よくお聞きなさい、エリオット。……次、あの方に無茶な残業をさせたら、貴方のその金色の髪をすべて毟り取り、王太子の位ごと剥奪して、北の果ての開拓村に『片道切符』で送り込みます」


「ひぃぃぃっ!!」


「これは脅しではありません。確定した未来予測(スケジュール)です。……分かったら、明日の朝一番でサイラス様の元へ行き、土下座して謝罪なさい。そして、二度と『改革』などという名の破壊活動をしないと誓約書を書きなさい」


「は、はいぃぃぃ! 分かりましたぁぁぁ!」


エリオットは涙目で首を縦に振った。

チェルシーはパッと手を離す。

王子はベッドに崩れ落ちた。


「……用件は以上です。ああ、ミナ様」


チェルシーは震えるミナを見た。


「殿下が約束を破りそうになったら、すぐに私に通報してください。情報提供料として、限定スイーツ一年分を差し上げます」


「はいっ! 任せてくださいお姉様! 私、スパイになります!」


ミナが即座に裏切った(買収された)。


チェルシーは用が済むと、埃を払うように手を叩き、踵を返した。

「……早く帰らないと。サイラス様が目を覚ました時に、私がいないと不安がるかもしれませんから」


その背中は、以前よりも一回り大きく、そして「愛(のようなもの)」に満ちて見えた。

これが、チェルシー・ヴァーミリオン公爵夫人が、初めて「夫のために」理性をかなぐり捨てた夜の出来事である。
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