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「……気に入らない」
宰相邸の執務室。
完全に体調を回復したサイラスが、窓の外を見下ろしながら低く唸った。
その視線の先、正門前には、やたらと派手な馬車が停まっている。
金箔で装飾され、屋根には孔雀の羽をあしらった、成金趣味……いや、豪華絢爛な馬車だ。
「閣下。眉間にシワが寄っています。表情筋の硬直は美容に悪影響ですし、部下が怯えて業務効率が低下します」
チェルシーが冷静に指摘するが、サイラスの不機嫌は収まらない。
「あれを見ろ、チェルシー。隣国ガレリアの第一皇子、フレデリック殿下の馬車だ」
「派手ですね。空気抵抗係数が高そうです」
「中身も派手だ。奴は『大陸一のプレイボーイ』として知られ、気に入った女性には既婚・未婚を問わず声をかける。……よりによって、今回の視察の案内役に私が指名されるとは」
サイラスは忌々しげに舌打ちした。
先日の「エリオット王子事件」が解決し、ようやく二人きりの平和な日常(執務)が戻ってきたと思ったら、これだ。
「公務ですので拒否権はありません。諦めて対応しましょう。私も補佐官として同席します」
「……いや、君は隠れていろ。奴の目に触れさせたくない」
「なぜです? 私の語学スキルは外交交渉に有用ですが」
「君が有能すぎるからだ。奴は『美しいもの』と『有能なもの』に目がない。君はその両方だ。……奪われるリスクは極力排除したい」
サイラスがチェルシーの肩を抱き寄せ、髪にキスを落とす。
最近、彼のスキンシップ(デレ)の頻度と強度が上がっている気がする。
「……過剰なリスク回避(ヘッジ)です、閣下。私は貴方の契約妻ですので、他国への流出はありません」
「契約だけでは不安だ。……鎖で繋いでおきたいくらいだ」
「それは監禁罪ですので却下します。さあ、行きますよ」
チェルシーはサイラスの腕を引いて、応接室へと向かった。
***
応接室の扉が開くと、そこには甘い香水の香りが漂っていた。
ソファに優雅に座っているのは、長い銀髪を揺らす美青年。
隣国ガレリアの皇太子、フレデリックだ。
彼は入室してきた二人を見ると、立ち上がって大げさに手を広げた。
「やあ、サイラス! 久しぶりだね、相変わらず陰気……いや、クールな顔をしているな!」
「……ご無沙汰しております、フレデリック殿下。遠路はるばるご苦労様です」
サイラスが鉄仮面の笑顔で応対する。
だが、フレデリックの視線はすぐにその隣、チェルシーへと移動した。
「おや? そちらの麗しい女性は? 噂に聞く『氷の悪女』、チェルシー嬢かな?」
「……お初にお目にかかります。サイラス・ヴァーミリオンの妻、チェルシーです」
チェルシーが完璧なカーテシーを披露すると、フレデリックは目を輝かせて駆け寄った。
そして、チェルシーの手を取り、跪いて手の甲にキスをする。
「なんてことだ! 噂以上の美しさだ! 氷のように冷たく、それでいてダイヤモンドのように硬質で輝いている……! 僕の好みにドンピシャだ!」
「……恐縮です。ですが殿下、挨拶のキスは三秒以内が国際儀礼(プロトコル)の標準ですが、現在五秒経過しています」
チェルシーが時間を計測して指摘するが、フレデリックは手を離さない。
むしろ、さらに強く握りしめた。
「面白い! その事務的な態度、ゾクゾクするね! ねえチェルシー、こんな仕事ばかりの男(サイラス)とは別れて、僕の国に来ないかい? 君になら『第一側室』の座を用意するよ?」
爆弾発言。
他国の宰相夫人を、堂々とナンパ(引き抜き)したのだ。
チェルシーが口を開く前に、部屋の温度が氷点下まで下がった。
「……殿下」
地獄の底から響くような声。
サイラスが、フレデリックとチェルシーの間に割って入った。
「冗談でも笑えませんな。彼女は私の妻だ。……その汚い手を離していただけますか?」
「おっと、怖い怖い。でもサイラス、君は彼女を『道具』として扱っているという噂だけど? なら、より高く評価する僕に譲るのが商売の理屈だろう?」
フレデリックは挑発的に笑う。
サイラスのこめかみに青筋が浮かんだ。
一触即発。
外交問題に発展しかねない空気を、チェルシーの冷徹な声が切り裂いた。
「……非効率です」
「え?」
フレデリックが振り返る。
チェルシーは冷めた目で彼を見下ろしていた。
「第一側室? 魅力のないオファーですね。側室は法的権利が弱く、王位継承権争いに巻き込まれるリスクが高い。さらに『プレイボーイ』を自称する殿下の下では、愛人同士の醜い争い(キャットファイト)に時間を奪われるのが目に見えています」
「うっ……」
「対して、現在の私の地位は『宰相の正妻』かつ『全権委任されたCOO』です。サイラス様は私に全財産管理権と、快適な住環境、そして独占的な愛(という名の契約履行)を提供してくれています。……どう考えても、今の職場(サイラス)の方がホワイト企業です」
チェルシーは淡々と、しかし断固として言い放った。
「したがって、転職の意思はありません。私の市場価値を見誤らないでいただきたい」
フレデリックはポカンと口を開け、やがて大声で笑い出した。
「あははは! すごい! 僕の誘いを『条件が悪い』と切り捨てた女は初めてだ! 気に入った、ますます欲しい!」
「お断りします」
チェルシーはバッサリ斬り捨て、サイラスの方を向いた。
サイラスは、チェルシーの言葉(「今の職場がいい」発言)に機嫌を直し、ドヤ顔でチェルシーの腰を引き寄せた。
「聞いたでしょう、殿下。彼女は私のものだ。……心も、体も、能力もな」
サイラスは見せつけるように、チェルシーのこめかみに唇を寄せた。
「よく言った、チェルシー。ご褒美に、今夜は最高級のステーキと、極上のマッサージを用意しよう」
「……マッサージは肩限定でお願いします。全身だとくすぐったいので」
「却下する。指先まで丹念にほぐしてやる」
二人の間に流れる、誰も入り込めない濃厚な空気。
フレデリックは「やれやれ」と肩をすくめた。
「完敗だね。……まさかあの鉄仮面サイラスが、こんなに熱烈な愛妻家になっていたとは。これじゃあ付け入る隙がない」
「ご理解いただけて何よりです。……では、視察のスケジュール確認に入りますか? 時は金なりですので」
チェルシーは通常業務に戻ろうとした。
だが、その心臓は、なぜか早鐘を打っていた。
ドクン、ドクン。
(……おかしいわね)
チェルシーは胸に手を当てた。
(さっきのサイラス様の「私のものだ」という言葉……音声波形としては威圧的でしたが、なぜか聞いていると体温が上昇し、動悸が激しくなる。……朝のコーヒーが濃すぎたかしら? それともカフェイン中毒の初期症状?)
彼女はまだ気づかない。
それが「ときめき」という、非合理的な感情であることを。
「……チェルシー、顔が赤いぞ。熱か?」
サイラスが心配そうに額に手を当てる。
その冷たくて大きな手に触れられた瞬間、心拍数がさらに跳ね上がった。
「っ!? だ、大丈夫です! ただの不整脈か、自律神経の乱れです! 深呼吸すれば治ります!」
チェルシーは慌ててサイラスの手を振り払い、書類に顔を埋めた。
サイラスは不思議そうに首を傾げたが、フレデリックだけはニヤニヤと楽しそうにその様子を観察していた。
「(へぇ……『氷の悪女』も、自分の恋心には鈍感なわけか。これは面白い見世物になりそうだ)」
隣国の皇太子の来訪は、チェルシーの「鉄壁の理性」に、小さなひび割れを入れるきっかけとなったのだった。
宰相邸の執務室。
完全に体調を回復したサイラスが、窓の外を見下ろしながら低く唸った。
その視線の先、正門前には、やたらと派手な馬車が停まっている。
金箔で装飾され、屋根には孔雀の羽をあしらった、成金趣味……いや、豪華絢爛な馬車だ。
「閣下。眉間にシワが寄っています。表情筋の硬直は美容に悪影響ですし、部下が怯えて業務効率が低下します」
チェルシーが冷静に指摘するが、サイラスの不機嫌は収まらない。
「あれを見ろ、チェルシー。隣国ガレリアの第一皇子、フレデリック殿下の馬車だ」
「派手ですね。空気抵抗係数が高そうです」
「中身も派手だ。奴は『大陸一のプレイボーイ』として知られ、気に入った女性には既婚・未婚を問わず声をかける。……よりによって、今回の視察の案内役に私が指名されるとは」
サイラスは忌々しげに舌打ちした。
先日の「エリオット王子事件」が解決し、ようやく二人きりの平和な日常(執務)が戻ってきたと思ったら、これだ。
「公務ですので拒否権はありません。諦めて対応しましょう。私も補佐官として同席します」
「……いや、君は隠れていろ。奴の目に触れさせたくない」
「なぜです? 私の語学スキルは外交交渉に有用ですが」
「君が有能すぎるからだ。奴は『美しいもの』と『有能なもの』に目がない。君はその両方だ。……奪われるリスクは極力排除したい」
サイラスがチェルシーの肩を抱き寄せ、髪にキスを落とす。
最近、彼のスキンシップ(デレ)の頻度と強度が上がっている気がする。
「……過剰なリスク回避(ヘッジ)です、閣下。私は貴方の契約妻ですので、他国への流出はありません」
「契約だけでは不安だ。……鎖で繋いでおきたいくらいだ」
「それは監禁罪ですので却下します。さあ、行きますよ」
チェルシーはサイラスの腕を引いて、応接室へと向かった。
***
応接室の扉が開くと、そこには甘い香水の香りが漂っていた。
ソファに優雅に座っているのは、長い銀髪を揺らす美青年。
隣国ガレリアの皇太子、フレデリックだ。
彼は入室してきた二人を見ると、立ち上がって大げさに手を広げた。
「やあ、サイラス! 久しぶりだね、相変わらず陰気……いや、クールな顔をしているな!」
「……ご無沙汰しております、フレデリック殿下。遠路はるばるご苦労様です」
サイラスが鉄仮面の笑顔で応対する。
だが、フレデリックの視線はすぐにその隣、チェルシーへと移動した。
「おや? そちらの麗しい女性は? 噂に聞く『氷の悪女』、チェルシー嬢かな?」
「……お初にお目にかかります。サイラス・ヴァーミリオンの妻、チェルシーです」
チェルシーが完璧なカーテシーを披露すると、フレデリックは目を輝かせて駆け寄った。
そして、チェルシーの手を取り、跪いて手の甲にキスをする。
「なんてことだ! 噂以上の美しさだ! 氷のように冷たく、それでいてダイヤモンドのように硬質で輝いている……! 僕の好みにドンピシャだ!」
「……恐縮です。ですが殿下、挨拶のキスは三秒以内が国際儀礼(プロトコル)の標準ですが、現在五秒経過しています」
チェルシーが時間を計測して指摘するが、フレデリックは手を離さない。
むしろ、さらに強く握りしめた。
「面白い! その事務的な態度、ゾクゾクするね! ねえチェルシー、こんな仕事ばかりの男(サイラス)とは別れて、僕の国に来ないかい? 君になら『第一側室』の座を用意するよ?」
爆弾発言。
他国の宰相夫人を、堂々とナンパ(引き抜き)したのだ。
チェルシーが口を開く前に、部屋の温度が氷点下まで下がった。
「……殿下」
地獄の底から響くような声。
サイラスが、フレデリックとチェルシーの間に割って入った。
「冗談でも笑えませんな。彼女は私の妻だ。……その汚い手を離していただけますか?」
「おっと、怖い怖い。でもサイラス、君は彼女を『道具』として扱っているという噂だけど? なら、より高く評価する僕に譲るのが商売の理屈だろう?」
フレデリックは挑発的に笑う。
サイラスのこめかみに青筋が浮かんだ。
一触即発。
外交問題に発展しかねない空気を、チェルシーの冷徹な声が切り裂いた。
「……非効率です」
「え?」
フレデリックが振り返る。
チェルシーは冷めた目で彼を見下ろしていた。
「第一側室? 魅力のないオファーですね。側室は法的権利が弱く、王位継承権争いに巻き込まれるリスクが高い。さらに『プレイボーイ』を自称する殿下の下では、愛人同士の醜い争い(キャットファイト)に時間を奪われるのが目に見えています」
「うっ……」
「対して、現在の私の地位は『宰相の正妻』かつ『全権委任されたCOO』です。サイラス様は私に全財産管理権と、快適な住環境、そして独占的な愛(という名の契約履行)を提供してくれています。……どう考えても、今の職場(サイラス)の方がホワイト企業です」
チェルシーは淡々と、しかし断固として言い放った。
「したがって、転職の意思はありません。私の市場価値を見誤らないでいただきたい」
フレデリックはポカンと口を開け、やがて大声で笑い出した。
「あははは! すごい! 僕の誘いを『条件が悪い』と切り捨てた女は初めてだ! 気に入った、ますます欲しい!」
「お断りします」
チェルシーはバッサリ斬り捨て、サイラスの方を向いた。
サイラスは、チェルシーの言葉(「今の職場がいい」発言)に機嫌を直し、ドヤ顔でチェルシーの腰を引き寄せた。
「聞いたでしょう、殿下。彼女は私のものだ。……心も、体も、能力もな」
サイラスは見せつけるように、チェルシーのこめかみに唇を寄せた。
「よく言った、チェルシー。ご褒美に、今夜は最高級のステーキと、極上のマッサージを用意しよう」
「……マッサージは肩限定でお願いします。全身だとくすぐったいので」
「却下する。指先まで丹念にほぐしてやる」
二人の間に流れる、誰も入り込めない濃厚な空気。
フレデリックは「やれやれ」と肩をすくめた。
「完敗だね。……まさかあの鉄仮面サイラスが、こんなに熱烈な愛妻家になっていたとは。これじゃあ付け入る隙がない」
「ご理解いただけて何よりです。……では、視察のスケジュール確認に入りますか? 時は金なりですので」
チェルシーは通常業務に戻ろうとした。
だが、その心臓は、なぜか早鐘を打っていた。
ドクン、ドクン。
(……おかしいわね)
チェルシーは胸に手を当てた。
(さっきのサイラス様の「私のものだ」という言葉……音声波形としては威圧的でしたが、なぜか聞いていると体温が上昇し、動悸が激しくなる。……朝のコーヒーが濃すぎたかしら? それともカフェイン中毒の初期症状?)
彼女はまだ気づかない。
それが「ときめき」という、非合理的な感情であることを。
「……チェルシー、顔が赤いぞ。熱か?」
サイラスが心配そうに額に手を当てる。
その冷たくて大きな手に触れられた瞬間、心拍数がさらに跳ね上がった。
「っ!? だ、大丈夫です! ただの不整脈か、自律神経の乱れです! 深呼吸すれば治ります!」
チェルシーは慌ててサイラスの手を振り払い、書類に顔を埋めた。
サイラスは不思議そうに首を傾げたが、フレデリックだけはニヤニヤと楽しそうにその様子を観察していた。
「(へぇ……『氷の悪女』も、自分の恋心には鈍感なわけか。これは面白い見世物になりそうだ)」
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