婚約破棄?悪役令嬢のノルマも達成ということですね?

恋の箱庭

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「……はぁ。もう、どうすればいいんですの。私の『悪』としての矜持が、あの王子のせいで洗濯されたばかりのシーツのように真っ白に漂白されていく……」


私は、ふかふかのソファに身を沈め、天井を仰ぎ見て溜息をつきました。


目の前のテーブルには、王子からの「愛の返信」が置かれたままです。
それを視界に入れるだけで、胃のあたりがムカムカと……いえ、これは悪役としての拒絶反応に違いありませんわ。


「失礼するぞ。随分と景気の悪いツラをしているな、メアリア」


ノックもなしに、聞き慣れた不敵な声が響きました。
扉のそばには、前回の訪問時と同じく、騎士団の制服を崩して着こなしたカシアンが立っていました。


「……カシアン。あなた、ここが監獄だという自覚はありますの? 仮にも騎士団長が、そんなに頻繁に罪人の元へ顔を出して、職務怠慢を疑われませんこと?」


「監獄? ああ、外の廊下のことか。鏡みたいにピカピカに磨かれていて、滑って転びそうになったぞ。看守長が『メアリア様の魂の輝きです!』とか熱く語っていたが、お前の仕業か?」


カシアンは呆れたように肩をすくめ、勝手に私の向かい側の椅子に座りました。
そして、持参していたらしい小瓶と、包み紙をテーブルに置きました。


「これは……なんですの?」


「王都で評判の強い酒と、極上の乾物だ。お前のことだ、どうせまた『悪役は不健康であるべき』とか言って食事を抜いているか、あるいは王子の甘い差し入れに胃を焼かれているだろうと思ってな」


カシアンは手際よく小瓶の栓を抜き、用意されていたグラスに琥珀色の液体を注ぎました。
芳醇な、しかしツンと鼻を突くような強い酒の香りが漂います。


「ふん。……気が利くこと。確かに、今の私にはこのくらい毒のありそうな酒が必要ですわ」


私は差し出されたグラスを受け取り、一口煽りました。
喉を焼くような熱さが心地よく、少しだけ気分が晴れるのを感じます。


「で? 何があった。また王子が変な方向に暴走したのか?」


「変な方向なんて生易しいものではありませんわ! 私の辛辣な添削を『厳しい愛の指導』だなんて……。カシアン、殿下の頭の中は一体どうなっていますの? あの方は、筋肉で思考されているのですか?」


「ハハハ! それは言い得て妙だな。……まあ、殿下も殿下だが、お前のやり方も極端すぎるんだよ。悪役になりたいなら、もっとこう、静かに、陰湿にやればいいものを」


カシアンは乾物を齧りながら、私の顔を面白そうに眺めました。


「陰湿に? とんでもありませんわ! 悪役令嬢たるもの、常に華やかで、堂々と、誰が見ても『ああ、なんて性格が悪いのかしら!』と思わせる美学が必要なのです! 陰でコソコソするのは、小悪党のやることですわ!」


私は酒の勢いも手伝って、身を乗り出して熱弁を振るいました。


「……そうか。お前のその、無駄に真っ直ぐなところが、殿下の勘違いを加速させてるって自覚はないんだな」


「真っ直ぐ? 私が? 笑わせないでちょうだい。私は今、こうして酒を飲み、騎士団長を監獄に引き込んで密会を楽しんでいるのですわよ。これこそ、堕落した悪女の姿ではありませんか!」


私は不敵に微笑み、グラスを掲げてみせました。


「密会、か。……だったら、もう少しそれらしい顔をしたらどうだ?」


カシアンが、不意に声を低くしました。
彼は椅子から立ち上がると、テーブルを回り込んで私の背後に立ちました。
耳元に、彼の熱い吐息がかかります。


「……何、ですの」


「悪女なら、誘惑の一つもしてみろ。俺をそそのかして、この塔の門を開けさせるとか、王宮への反逆を誓わせるとかな。お前のその『悪役の矜持』とやらが、ただの強がりじゃないならな」


カシアンの手が、私の肩を優しく、しかし逃がさないように掴みました。
前回と同じです。
この距離になると、私の心臓が、まるで逃げ場を失った小鳥のように激しく暴れ始めます。


「……誘惑なんて、簡単ですわ。……でも、あなたのような男をそそのかすには、この酒よりももっと強い毒が必要ですもの。今はまだ、その準備ができていないだけですわ」


私は精一杯の虚勢を張り、震えそうになる声を押し殺して答えました。


「……相変わらず、口だけは達者だな」


カシアンはクスクスと喉を鳴らして笑うと、私の肩から手を離し、元の席に戻りました。


「まあいい。お前のその『悪役修行』がどこまで続くか、高みの見物といかせてもらう。……だがな、メアリア。あまりにも殿下が暴走しすぎて、お前が本当に危なくなったら……」


カシアンは酒を一気に飲み干し、真剣な眼差しで私を見つめました。


「その時は、俺がお前をここから奪ってやるよ。悪役令嬢の逃亡を手助けする騎士、っていうのも、悪くない配役だろ?」


「……そんな配役、どの物語にも出てきませんわよ」


私は赤くなった顔を隠すように、酒を煽りました。


「いいですわ、カシアン。あなたが私を笑うなら、私は世界一の悪女になって、あなたを驚かせて差し上げますわ。……だから、それまでせいぜい、私の『散り際』を特等席で見ていなさい!」


「ああ。楽しみにしてるぜ、メアリア」


カシアンは満足げに笑い、空になった瓶を置いて立ち上がりました。


彼が去った後の部屋で、私は残った酒を飲み干しました。
カシアンの言葉が、そして彼の熱い指の感触が、酒の熱さと混ざり合って、いつまでも消えませんでした。


「……カシアンのバカ。……誘惑なんて、もうされているのは私の方ではありませんか……」


私は扇子で顔を仰ぎながら、消え入りそうな声で呟きました。
私の悪役令嬢としての覚悟が、また少しだけ、揺らいでしまったような夜でした。
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