婚約破棄?望むところですわ!やっと、おやつが食べられますわ!

恋の箱庭

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王都の喧騒が、いつもとは違う熱を帯びていました。


広場に突如として現れた豪華な天幕。そこには『激辛王・ハンス、ここに参上! 公爵令嬢チューナ、我が愛……否、我が恨みの火に焼かれるがいい!』という、なんとも仰々しい垂れ幕が掲げられていたのです。


「……お嬢様。あの方、一体誰なんですの? あんなに真っ赤なマントを羽織って、唐辛子の束を首から下げて……。不審者として通報した方がよろしいのでは?」


アンナが、天幕の前に仁王立ちする男を指さして呆れ顔で言いました。


「あらアンナ。……恨みはどうでもいいけれど、あの首飾りの唐辛子、見たことのない品種ですわ! 乾燥の仕方が絶妙で、とても良い香りが漂ってきていますわよ!」


私は、恨みの言葉など一文字も耳に入れず、男が身にまとっている「食材」に釘付けでした。


「……ふん。やっと来たか、冷酷な女、チューナ・フォン・グラッセ!」


マントを翻して現れたのは、かつて隣国の没落貴族だったハンス氏。彼は数年前の夜会で私に話しかけてきたそうですが……。


「お久しぶりですわね。……ええっと、確か……。……あ! あの時、ローストビーフの行列で私の前に並んで、最後の厚切り肉をさらっていった、不届き者のハンス様ですわね!?」


「違う! ……いや、肉は食ったがそこではない! 私は貴様に愛の告白をしたのだぞ! なのに貴様、私の顔をじっと見つめた後に『……肉のソースがついていますわよ』とだけ言い残して去っていったではないか!」


「……まあ。……それは、親切心ですわよ?」


「そのせいで私は、周囲に笑われ、恋に破れ、修行の旅に出る羽目になったのだ! ……だが、今の私は違う。魔境で手に入れた究極のスパイスを操る『激辛王』だ!」


ハンスは、背後に用意されていた巨大な土鍋に、真っ赤な液体を注ぎ入れました。


「さあ、勝負だチューナ! この『灼熱の処刑スープ』を完飲できた方の勝ちだ! もし私が勝てば、貴様は私の専属料理人として一生、私のために激辛料理を作ってもらう!」


「……面白そうですわね。……ですがハンス様、もし私が勝てば、その首にかかっている唐辛子、全部いただきますわよ?」


「……望むところだ!」


広場には、いつの間にやら野次馬が集まっていました。

そこには、またしても「チューナの負ける姿」を期待してやってきたジュリアン殿下とメアリー様の姿もあります。


「ハッハッハ! 自業自得だチューナ! 過去の不誠実が、激辛となって返ってきたのだ! ……ハンス、やれ! その女の舌を焼き尽くせ!」


「そうですわ! そんなに激辛ばかり食べていたら、お顔が真っ赤になって淑女失格ですわよ!」


野次を飛ばす二人を無視し、私はハンスが差し出したスープを受け取りました。


(……クンクン。……これは、ただの激辛ではありませんわ。……発酵した大豆のコク、そして……わずかに香る、シナモンと八角! ……これ、完全に薬膳の領域ですわ!)


「いただきますわ!」


私は、迷うことなくスープを一口。……いえ、豪快に飲み干しました。


「…………っっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!」


全身の毛穴が瞬時に開き、視界がチカチカと火花を散らします。


「……熱い! ……熱いですわ! ……ですが、なんて芳醇な……! ハンス様、あなた、このスープに隠し味として『乾燥させた果実の皮』を入れましたわね!?」


「……なっ、なぜそれを! 一〇〇種類以上のスパイスを調合した、私の秘伝中の秘伝を!」


「……辛さの後に来る、この爽やかな苦味。……これが全体を引き締め、次のひと口を誘うブースターになっていますわ! ……美味しい! ハンス様、あなた……才能の塊ですわ!」


私は、額に汗を浮かべながら、二杯目、三杯目とお代わりを要求しました。


「……は? ……おい、待て! それは嫌がらせのスープだぞ! ……魂を焼く地獄の味のはずだ!」


「いいえ、これは『活力を与える黄金のスープ』ですわ! ……ハンス様、そんなに驚いていないで、あなたも食べなさいな。……ほら、お口を開けて!」


私は、呆然とするハンスの口に、無理やりスープを流し込みました。


「……っぐ! ……熱っ! ……からっ! ……でも、……美味い。……え、私の作ったスープ、こんなに美味しかったのか……?」


ハンスは、自分の作った料理を初めて「味わって」食べ、その場で涙を流しました。


「……私は、貴様に復讐することばかり考えて、……一番大切な『味』を忘れていたようだ。……チューナ、君はやはり、素晴らしい美食家だ……」


ハンスは、負けを認めるように首から唐辛子の束を外し、私に手渡しました。


「……私の負けだ。……このスパイス、君に託そう。……そして、私はもう一度、一から料理を修行し直すことにする。……いつか、君を本当に驚かせる『美味しい激辛』を作るために!」


「ええ、待っていますわ! ……次は、麺も用意してくださると嬉しいですわね!」


ハンスは清々しい顔で天幕を畳み、王都を去っていきました。


一部始終を見ていたゼノス様は、手にした護衛用の魔力杖をしまい、深くため息をつきました。


「……チューナ様。……貴女は、恨みを持ってやってきた暗殺者候補さえも、胃袋を通じて『健全な料理人』に変えてしまうのですね」


「あら、ゼノス様。……美味しいものの前では、過去の恨みなんて消石灰のようなものですわよ」


「……例えがよく分かりませんが、……貴女が無事ならそれで良いです」


ゼノス様は、汗をかいた私の額を、冷たい魔力で冷やしたハンカチで優しく拭ってくれました。


その夜。ゼノスの手帳には、もはや戦記の最終章のような言葉が記されていました。


『報告:チューナ・フォン・グラッセ。彼女の『食』の愛は、ついに過去の怨念さえも浄化した。……激辛王ハンス。……彼は私にとって、別の意味で脅威(恋敵)になり得たが、彼女にとっては単なる『動くスパイス供給源』でしかなかったようだ。……追伸、彼女の汗ばんだうなじが、あまりにも魅力的で……。……今夜は、私の方が『激辛』な気分で眠れそうにない』
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