逢初橋まで~鎌倉らんぶりんぐ・エピソードⅠ~

戸浦 隆

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一、急がば回れば大渋滞

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 車の中はワイパーの音だけが絶え間なく続いていた。
 熱海から相模湾沿いを走るビーチラインは、雨にたたられた休日の行楽帰りの車が数珠(じゅず)繋ぎの渋滞を生み出している。嫌気がさした葛西亮二は、迂回して国道135号線に入った。だが、こちらも数珠送りに任せるしかない進みようだ。
 亮二は溜息を吐(つ)いた。
「まるで僕たちみたいだな」
 助手席に坐っている桐生瑞希が、窓を伝う雨の滴に顔を向けたまま訊いた。
「何が?」
 声が尖(とんが)っている。突き放したような、冷めた調子(トーン)だ。
「知ってるかい? 昼からひと言も喋らないで、初めて言った言葉がそれだって」
「言いたいことは山ほどあるわよ。言い出したら止まらなくなるから、言わないだけじゃない。それとも何? 私に言いたいだけ言わせたいの?」
「いや。遠慮しておく」
 亮二は肩をすぼめた。
「何よ。全部、亮ちゃんの所為(せい)じゃない」
「解った。悪かったよ」
「何でも謝れば済むと思って。亮ちゃんのそんなとこ、私大っ嫌い。済むことと済まないことがあるんだから」
「解ってるよ」
「解ってないから怒ってるの!」
 瑞希の剣幕は収まりそうにない。亮二は謝るしか手が無かった。
「だから、悪かったって」
「これだから、もおう」
 瑞希は膨らませた頬を亮二から背け、助手席の窓の外に顔を向けたままだ。
 亮二はハンドルに顎(あご)を乗せ、ワイパーの動きの間隙(かんげき)に落ちる雨垂れ越しに前の車に眼をやった。退屈だったのだろう、前の車の後部座席でふざけ合っていた子供たちが亮二に手を振る。亮二は片手の投げキッスでそれに応えた。
 横目で亮二の様子を見ていた瑞希は、しばらく続く無言に苛立ちをぶつけるように言った。
「で、何?」
「何って、何が」
「さっき言ってたでしょ、僕たちと同じだって」
「ああ、あれか。車の渋滞のことだよ」
「渋滞が、どう同じなのよ」
「いや。すいすいスムーズに進まないだろ」
 瑞希の上半身が運転席の亮二に向き直った。
「すいすいスムーズに進まないのは、一体誰の所為なのよ!」
 瑞希の声が1オクターブ上がっている。亮二は今度は首をすくめた。朝からさんざん言い合いをして、うんざりしていたのだ。これ以上瑞希の機嫌を損ねて、さらにうんざりを重ねたくはない。亮二は、すくめた首と同時に口もすぼめた。
 亮二は今年二十四歳になる。大学は出たものの、コンビニの夜間従業員や郵便局の臨時職員などをして何とか暮らしている。歴史学科という、就職にはまるで無縁の学問に浸っていたのだ。社会科の教師か、どこかの歴史資料館や民俗館の学芸員に潜り込めれば幸いだったのだろうが、このご時世ご多分に漏れず就職難の犠牲者の仲間入りとなった。大学時代に所属していた「歴史研究会」というサークルの大先輩羽林信吾が勤める雑誌社の依頼で、時折旅に出る。旅先での見所と歴史を紹介する原稿を書き、生活費の足しにしている。今回もその旅からの帰りで、途中熱海で瑞希と待ち合わせの一日デートをしたのだった。
 そういう綱渡り的な暮らしをしてはいるのだが、本人はいたって呑気(のんき)で、就職しようなどとはさらさら考えてはいない。定職に就いていないからか、それとも持って生まれた性格なのか、真面目なのだが責任感が薄い。何でも軽く流してお茶を濁してしまいたがるところがある。
 瑞希は、亮二のそういう煮え切らない態度を時々歯痒く思う。亮二とは大学の時に、仲良くして貰っているマンションの隣室の大学院生千巻陶子の紹介で知り合うことになった。千巻陶子は「歴史研究会」の元部長で、二年後輩の亮二を何かと気に掛けている。瑞希は亮二が同じ大学で、歳も一つしか違わないという気安さから言葉を交わすようになった。が、瑞希の方はピンシャンしている。最初から瑞希の方が積極的で、デートの日取りや待ち合わせの場所、デートコースなど瑞希が主導権を握ってさっさと決める。と言うより、亮二はそういうことに頓着しなかった。結局、瑞希が亮二を引っ張ることになる。大学を出ると、瑞希は総合商社に入社した。厳しい職場環境に揉まれてさらに逞しくなった、とは周囲の誰もが認めるところだ。


「しっかし、参ったよなあ」
 沈黙に耐えかね、亮二はおどけた口調で口を開いた。
「この渋滞、どこまで続いてるんだろ。ヤバいよ、マジで」
「ヤバいのはバイトに間に合わないから? それとも、私の不機嫌と顔突き合わせてないといけないから?」
「そうトンがるなよ。勘弁してくれないかなあ、いい加減」
「いい加減? そう言いたいのはこっちの方よ」
「ごもっともです」
「亮ちゃんが手なんか出すからじゃない、ホントにもおう!」
「手は出してません」
「へええ。じゃ、何出したの? お金は出せないわよね、フリーターの身じゃ。口だけ?」
「出さないって」
「私、知ってるんだから」
 亮二はドキリとした。女が「知っている」と言う時ほど怖いものは無い。知られてマズいことは、男なら一つや二つ、どこかのポケットに仕舞い込んであるものなのだ。
「何を………」
「本人から聞いたの!」
「本人から?」
「毎日顔出すんだって? お使いもしてあげるんですって? 何よ、飼い犬みたいに」
 亮二は猟犬に追い詰められた狐の気分だった。しかも鋭い牙に急所をガブリと食い付かれている。
「だけど、あれは翔子が………」
「翔子なのね、やっぱり」
「やっぱり、って………。何だ、カマ掛けたのか」
「やましいところがあるからカマに掛かるんじゃない」
「やましい気持ちは無いんだけどなあ」
「ウソ! 下心見え見え。あわよくばって顔に書いてる。翔子のいつもの手よ。ちょっと話したいから寄ってとか、忙しいから買物して来てとか言うの。そうやって何人もの男を引っ掛けて喜んでるだけなんだから。私と亮ちゃんが付き合ってるの知ってて手を出すのよ。翔子も翔子だけど、亮ちゃんも亮ちゃんだわ。私たち、からかわれてるの解んないの? 腹立つぅ!」
「だから、悪かったって言ってるだろ」
「綺麗な女だとすぐ鼻の下なんか伸ばして。みっともないったらないわ。彼女のご機嫌取りするなんて、そんな亮ちゃんだって思わなかった。最っ低っ!」
「済まなかった。ごめん」
「もう嫌っ! 私、ここで降りる!」
 いきなり瑞希は助手席のドアを開けた。いくら渋滞でのろのろ運転しているとはいえ、車は動いているのだ。亮二は思わずブレーキを踏んだ。後ろから激しいクラクションが鳴る。
「何するんだよ」
「歩いて帰る!」 
「待てよ。歩いて帰るったって、東京までここからどれくらいあると思ってる」
「いいの!」
 瑞希は亮二を睨み付けると、雨の中に飛び出した。
 叩き付けるように、ドアが閉められた。
 後続の車から、またクラクションが浴びせられる。

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