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七、なほこひしかり
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車にもどると、亮二はバッグを引き寄せた。そうして中から手帳を取り出した。
「どうしたの?」
亮二は無言のまま、手帳を瑞希に手渡した。
瑞希は、はっと気が付いた。政子の歌を奈津保が書いた筈だ。
どのページだったろう………。
念入りにページをめくる瑞希が、怪訝(けげん)な顔を上げる。
「亮ちゃん………」
亮二は真っ直ぐ前を向いたまま言った。
「無いだろ、どこにも」
「確かに書いて貰って、私、横で見てたのに。意味の解らない字があったから訊いたのに」
「そういうことだったんだよ」
「奈津保さんって………」
「政子だよ。逢いたかったんだ、頼朝に。そうして、伝えたかったんだ」
「自分の熱い想いを?」
「ああ。その想いを僕たちにも」
「私たちにも?」
「たまたまだろうけど。瑞希を気に入ったんじゃないかな」
「まさか」
「あるんだよ。千巻先輩から聞いたんだけど………」
「陶子さんから?」
「ああ。先輩が高校生の時だ。古典の授業で『源氏物語』の『六条御息所』の生き霊の段になった。兵頭先生というんだけど、その授業の尾ヒレの脱線話に体験談を語ったんだそうだ」
兵頭先生は大学時代、学校に嫌気が差して辞めようとしたらしい。ちょうど安保闘争が大学にも広がって休講ばかりだし、ノン・ポリだから学生運動にものめり込めない。それで、職のありそうな大阪に出て働こうとした。下宿の部屋を引き払い、束ねた荷物と手紙を親元に送った。当ても無く乗り回った大阪の電車の窓から安アパートの広告看板を見掛けて降りた所が、堺市の知らない町。行き当たりばったりで、とにかくその夜を過ごす場所を確保しようとアパート、といっても長屋のような長い廊下の片側に並んだ部屋の一つに潜り込んだ。
職探しのための新聞購入と夕食と銭湯に入るために出掛けようと廊下に出た。二つ三つ隣の部屋の前に女の人が立っている。隣人が留守で、その帰りを待っているのだろうと思ったが、何だか曰(いわ)くありげにも見える。その時、ハッとした。中年の和服姿のその女の人は肩掛けのショールで口元を覆(おお)っているが、母親そっくりだったのだ。そんな筈は無いと思ったが、着物の柄もショールも見覚えがある。背格好、髪型まで似ている。声を掛けようかと思ったが、本人がここにいる訳は無いし、声を掛けづらい重い気が漂っている。どきどきしながら側を通り過ぎる時、ちらりと顔を見た。女の人は黙って立ったまま、思い詰めたように眼の前のドアに視線を向けたままだ。ますます母親に違いないという思いが強くなる。兵頭先生は、頭を振って外に出た。
「それって、思い込み過ぎじゃないの? 無断で大学を辞めて家出したみたいなものでしょ。後ろめたかったから、母親に見えたのよ」
「そう思うよね、普通。戻って来た時は、もう女の人の姿は無かったし。でも、気になって仕方が無かったんだって」
兵頭先生は買って来た何種類かの新聞の求人欄からいくつか会社をピックアップし、蒲団代わりに新聞紙を体に巻き付けて寝ることにした。寒さも堪えるが女の人のことが頭から離れず、なかなか寝付けなかった。
次の日に就職活動を始め、ある不動産会社に就職が決まった。数人の新入社員は部長宅に招待され、歓待して貰った。翌日から研修を兼ね、二人一組で物件を売るための戸別訪問をした。そうやって一週間過ぎたが、どうにも母親に似た女の人のことが気懸かりで落ち着かない。昔から感受性の鋭い母親だったから、自分のことを心配するあまり魂が姿になって眼の前に現れたのではないか、と本気で思うようになった。
「それで、どうしたの?」
「兵頭先生、上司に断って帰郷したんだって。帰るなり、母親はしがみ付いて泣き出した。後で聞いてみると、母親はずっと家に居たそうだよ。よく神棚や仏前に坐って拝んではいたけれど、一歩も家からは出なかったって」
「そうなの。母親は心配で堪らなかったのね、きっと」
「千巻先輩は、その話を信じてたよ。人の強い想いは魂となって、時も場所も越えて届くんだ。だから、ますます歴史の中に埋もれていった人たちのことを思うようになった、って」
「じゃあ私たち、奈津保さんに会えてよかったのね」
「ああ。よかったんだ。手帳には何も残ってないけど、ちゃあんと心には残ってるだろ。奈津保さんのことも、政子の歌も」
「うん」
「それでいいんだ。それで」
亮二は車を出した。逢初橋の赤い欄干の色が後方に去ってゆく。
瑞希は遠ざかる赤い色を見ながら、政子の歌を口に出して詠んでみた。奈津保でもいい。政子でもいい。愛する人を真摯(しんし)に想う女の心が、自分のすぐ側にあるような気がした。
契りなば飾磨の褐の色よりも
なほこひしかりあひそめの橋
── 完 ──
「どうしたの?」
亮二は無言のまま、手帳を瑞希に手渡した。
瑞希は、はっと気が付いた。政子の歌を奈津保が書いた筈だ。
どのページだったろう………。
念入りにページをめくる瑞希が、怪訝(けげん)な顔を上げる。
「亮ちゃん………」
亮二は真っ直ぐ前を向いたまま言った。
「無いだろ、どこにも」
「確かに書いて貰って、私、横で見てたのに。意味の解らない字があったから訊いたのに」
「そういうことだったんだよ」
「奈津保さんって………」
「政子だよ。逢いたかったんだ、頼朝に。そうして、伝えたかったんだ」
「自分の熱い想いを?」
「ああ。その想いを僕たちにも」
「私たちにも?」
「たまたまだろうけど。瑞希を気に入ったんじゃないかな」
「まさか」
「あるんだよ。千巻先輩から聞いたんだけど………」
「陶子さんから?」
「ああ。先輩が高校生の時だ。古典の授業で『源氏物語』の『六条御息所』の生き霊の段になった。兵頭先生というんだけど、その授業の尾ヒレの脱線話に体験談を語ったんだそうだ」
兵頭先生は大学時代、学校に嫌気が差して辞めようとしたらしい。ちょうど安保闘争が大学にも広がって休講ばかりだし、ノン・ポリだから学生運動にものめり込めない。それで、職のありそうな大阪に出て働こうとした。下宿の部屋を引き払い、束ねた荷物と手紙を親元に送った。当ても無く乗り回った大阪の電車の窓から安アパートの広告看板を見掛けて降りた所が、堺市の知らない町。行き当たりばったりで、とにかくその夜を過ごす場所を確保しようとアパート、といっても長屋のような長い廊下の片側に並んだ部屋の一つに潜り込んだ。
職探しのための新聞購入と夕食と銭湯に入るために出掛けようと廊下に出た。二つ三つ隣の部屋の前に女の人が立っている。隣人が留守で、その帰りを待っているのだろうと思ったが、何だか曰(いわ)くありげにも見える。その時、ハッとした。中年の和服姿のその女の人は肩掛けのショールで口元を覆(おお)っているが、母親そっくりだったのだ。そんな筈は無いと思ったが、着物の柄もショールも見覚えがある。背格好、髪型まで似ている。声を掛けようかと思ったが、本人がここにいる訳は無いし、声を掛けづらい重い気が漂っている。どきどきしながら側を通り過ぎる時、ちらりと顔を見た。女の人は黙って立ったまま、思い詰めたように眼の前のドアに視線を向けたままだ。ますます母親に違いないという思いが強くなる。兵頭先生は、頭を振って外に出た。
「それって、思い込み過ぎじゃないの? 無断で大学を辞めて家出したみたいなものでしょ。後ろめたかったから、母親に見えたのよ」
「そう思うよね、普通。戻って来た時は、もう女の人の姿は無かったし。でも、気になって仕方が無かったんだって」
兵頭先生は買って来た何種類かの新聞の求人欄からいくつか会社をピックアップし、蒲団代わりに新聞紙を体に巻き付けて寝ることにした。寒さも堪えるが女の人のことが頭から離れず、なかなか寝付けなかった。
次の日に就職活動を始め、ある不動産会社に就職が決まった。数人の新入社員は部長宅に招待され、歓待して貰った。翌日から研修を兼ね、二人一組で物件を売るための戸別訪問をした。そうやって一週間過ぎたが、どうにも母親に似た女の人のことが気懸かりで落ち着かない。昔から感受性の鋭い母親だったから、自分のことを心配するあまり魂が姿になって眼の前に現れたのではないか、と本気で思うようになった。
「それで、どうしたの?」
「兵頭先生、上司に断って帰郷したんだって。帰るなり、母親はしがみ付いて泣き出した。後で聞いてみると、母親はずっと家に居たそうだよ。よく神棚や仏前に坐って拝んではいたけれど、一歩も家からは出なかったって」
「そうなの。母親は心配で堪らなかったのね、きっと」
「千巻先輩は、その話を信じてたよ。人の強い想いは魂となって、時も場所も越えて届くんだ。だから、ますます歴史の中に埋もれていった人たちのことを思うようになった、って」
「じゃあ私たち、奈津保さんに会えてよかったのね」
「ああ。よかったんだ。手帳には何も残ってないけど、ちゃあんと心には残ってるだろ。奈津保さんのことも、政子の歌も」
「うん」
「それでいいんだ。それで」
亮二は車を出した。逢初橋の赤い欄干の色が後方に去ってゆく。
瑞希は遠ざかる赤い色を見ながら、政子の歌を口に出して詠んでみた。奈津保でもいい。政子でもいい。愛する人を真摯(しんし)に想う女の心が、自分のすぐ側にあるような気がした。
契りなば飾磨の褐の色よりも
なほこひしかりあひそめの橋
── 完 ──
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