上 下
4 / 14

四、犬王

しおりを挟む
 秋の過ぎるのは早い。日に日に変わる風の音に急かされ駈け足で去ってゆく。特に山深い草香山(くさかやま)には、今年の秋は落ち着く腰を持たずに立ち上がる気配があった。
 河内から大和に抜ける直越(ただこえ)の道から脇に入り、獣道(けものみち)のような間道を登る男がいた。旅慣れていると見え、足取りは速い。大柄な身を器用にこなし、枝木をよけ倒木や根株を飛び越える。
 やがて小さな庵を見つけると、笠を取って歩をゆるめた。
「乙鶴殿はおいでか」
 庭に散った枯葉を掃いている少女に、男は声を掛けた。
「あっ、犬王様!」
 少女の顔に明るい笑みが弾ける。
「元気そうだな、かがり」
 かがりと呼ばれた少女は、竹箒(たけぼうき)を投げ出し駆け寄った。犬王の腰に抱きつき、その顔を見上げて言った。
「そう見える?」
「ああ。かがりはいつも元気だ」
「元気そうにしているだけです」
 かがりは口を尖らせた。
 犬王は、少女の目線の高さになるように腰を落とした。
「ほう。どこか悪いのか」
「はい。悪いです」
「どこだ」
「機嫌よ。犬王様、ちっとも来ないんだもの」
 うつむき加減に言うかがりの頬を、犬王は人差し指で突つく。
「そうか。済まぬ、済まぬ。だが、来たではないか」
「遅過ぎる。三月も放っておいて。嫌いになるところだったんだから」
 かがりは頬を膨らませた。
「おやおや。今度は怒り出したぞ」
 子ども扱いする犬王に、少し食って掛かるようにかがりが言った。
「乙鶴様やかがりを寂しがらせて、犬王様は平気?」
「平気な筈は無い」
「会いたいと思わなかった?」
「会いたかったとも」
「会いたかったのなら、なぜ来ないの?」
「会いたくとも来れぬ用があったのだ。なかなか忙しくてな」
「忙しい忙しいと言う人に限って、本当は忙しくないのよ」
「そうかな?」
「そう。力が無いから忙しそうにしているだけ」
「なるほど。儂は力が無いか」
「力のある人はたくさんの仕事を平気でこなして、時間もゆとりも作るもの。忙しいなんて思ってない」
「ハハハ。かがりに掛かっては、この犬王も形無しだな」
「乙鶴様がね………」
「うむ」
「いつもそう言ってこぼしているの」
「何だ。乙鶴殿のご意見か」
「犬王様?」
「ん?」
「男の人は女の人を寂しがらせてはいけないのではありませんか」
「これは参った。かがりに一本取られたな」
 犬王にチラリと媚(こ)びるような瞳を向けて、かがりが甘えるような声を出した。
「犬王様は乙鶴様とかがりと、どちらに会いたかった?」
「どちらにもだ」
「ずるい。どちらか言って」
 土間に足音がして、二十四、五の色白の女が戸口に立った。
「かがり。犬王様を困らせてはなりません」
「乙鶴様」
 身は細く小柄だが、ふくよかな肉付きであることが着物を通して表に伝わっている。歩み寄る姿には崩れが無く、体の芯となる一本の線が頭からつま先まで真っ直ぐに引かれていた。
 乙鶴が軽く頭を下げ、犬王に会釈した。
 犬王も立ち上がり、礼を返す。
「遠路のお越し、さぞお疲れでしょう」
「いや。無沙汰をしておった。心に掛かりながら思うに任せぬ身でな」
「それはわたくしも同じことです」
「きょうは積もる話もあり、参じた」
「それは是非に。わたくしも犬王様にお伝えしなければならないことがございます」
 犬王と乙鶴の顔を交互に見上げていたかがりが、焦(じ)れて言った。
「二人ともいつまで堅苦しい挨拶をしているの。さあさあ早く中に入って。いつも馴染むのに時間が掛かるんだから」
 犬王は歩き出しながら、苦笑した。
「久し振りなのだ。時間が隔たれば、それだけ距離も遠くなる」
「犬王様がそうやって構えてしまうから、乙鶴様も跳び込めないのよ」
 乙鶴は慌てた。本心をずばりと言われたのだ。顔を赤らめながら、取り繕うようにかがりを叱った。
「かがり。犬王様に失礼ですよ」
「乙鶴様だって、ずうっと待ってたんだから」
「もう止しなさい、かがり」
「私だったら、顔見ただけで走り出して抱きつくよ。さっきみたいに」
 犬王が、かがりの手を取った。
「そうだな。かがりの言う通りだ。儂はどうも人間が固過ぎる。さあ、かがり。行こうか」
「そうよ。犬王様は固過ぎる。お酒でも飲んで柔らかくなるといい。ね、乙鶴様」
 かがりがもう一方の手を乙鶴に差し伸べた。その手を取り、乙鶴も歩調を合わせた。
「お酒は置いてあったかしら。何を見つくろえば………」
「そういう心配はかがりに任せて。乙鶴様は犬王様と積もる話とやらをすればいい」
 犬王が、くっくっと笑った。
「かがりは、まるで乙鶴殿の母者か姉様のようだな」
「はい。本当に世話が焼けるんだから、大人って」
 犬王と乙鶴の手を引き、嬉しそうにかがりは家の中に入った。家といってもほんの小さな庵だ。土間を上がれば囲炉裏を切った三畳ほどの板の間、奥に少し広めの部屋があるだけだった。
 かがりは土間の竃(かまど)の脇で支度に掛かった。
 犬王と乙鶴は囲炉裏に火を熾(おこ)しながら、少し声を落として言葉を交わした。
「九州はどうだった」
「はい。懐良親王様を奉じていた菊池武朝(たけとも)様が肥後(現在の熊本県)で大敗を喫(き)しました」
「そうか。九州探題の力は相当なものだな」
「探題の今川貞世様もそうですが、決着をつけたのは大内義弘様なのです」
「大内? 周防・長門(すおう・ながと:共に現在の山口県)の守護が、か」
「大内様は中国のみならず九州にまで勢力を伸ばしています。朝鮮とも交易を図っているとか」
「幕府にとっては頼もしくもあるが、力を持ち過ぎると厄介な存在になる」
「これで懐良親王様率いる九州の南朝勢は、立ち直ることが出来なくなりました」
「そうだろうな」
「都の方は?」
「活気づいているぞ。落ち着くには、まだまだだが」
「先頃大火があったと聞きましたが」
「うむ。二月に北小路室町から火が出て、御霊(ごりょう)社や崇光院様の仙洞御所が焼け落ちた。仙洞御所とそれに隣接する菊亭公直(きみなお)卿の屋敷地を譲り受けた義満公が、新第(しんてい)を建築している。完成すれば、幕府を新第に移すつもりらしい」
「義満様の権勢はますます大きくなるばかりですね」
「果てが無い。いずれは朝廷の中にまで入り込もうとするのではないかな。儂ら芸能の民には考え付くことすら出来ない野望だ」
「いいではありませんか、犬王様。芸の道は人の道、心の道ですもの。その道を究めていくことがわたくしたちの望み。階位や出世などとは縁はありません」
「確かにな。だが、その階位や出世を望む者の手足とならねばならない。それが口惜しいだけだ」
 囲炉裏の燃え木が爆(は)ぜた。炭に火が移り、チリチリと音を出し始める。
 かがりが盆に酒器と小皿を載せて来て、二人の間に置いた。
「犬王様。山家(やまが)のことで何も無いの」
 かがりの出した小皿には、焼いた小芋に味噌が添えてある。
「いやいや。これは何よりのご馳走だ。かがりも一緒に坐れ」
「私はもう一つ、菜を和えてから。ほら、乙鶴様。気を利かして犬王様にお酒を注いで上げなきゃ」
 そう言って、かがりはさっさと土間に降りた。
 乙鶴は急いで酒器を取った。犬王の盃に酒を注ぐという行為が、何となく気恥ずかしい。が、嬉しくもあった。くすぐったいような思いが心を躍らせる。
 乙鶴の手元のしなやかな動きが、盃に酒を満たした。
 犬王は、美味しそうに干した盃を乙鶴に差し出した。
「乙鶴殿も」
「いえ、わたくしは………」
「飲めばいい。かがりの言うように、少し酔った方が形がくずれてお互い楽になる」
「そうですね。では、少し」
 乙鶴は注がれた酒を口に含み、こくりと喉を鳴らして飲んだ。
「厄介なものですね、生真面目な性格というのも。かがりが羨ましい」
「かがりは、まだ子どもだ。だから大人に出来ないことが出来る」
「あのまま大人になればいいのに」
「そうもいくまい。大人になればなったで、しがらむものが増える。儂らのようにな」
 空けた盃を犬王に返し、乙鶴は酒を注いだ。
「ところで、犬王様。観阿弥様は?」
「精力的に動いている。藤若が義満公のすぐ側に仕えているのだ。儂ら以上に気を張っているのだろう。鎌倉から戻って来たばかりだというのに、今度は美濃へ出掛けるそうだ」
「鎌倉へお出でだったのですか」
「うむ。公方(くぼう)様の動きが慌ただしかったのでな。あれでは気の休まる時が無い」
 反細川派の土岐頼康・佐々木高秀に対し、義満は追討令を諸国に発した。この年康暦(こうりゃく)元年(一三七九年)二月のことである。
 ほとんどの大名はこの命に従ったが、大和に結集していた斯波義将・土岐義行らは召喚に応じず頼之排斥を義満に迫った。放置すれば争乱になりかねない情勢だった。幕府に内部分裂が起これば、南朝に盛り返しのきっかけを与えることになる。事態打開のため、義満は従弟である第二代鎌倉公方足利氏満に援軍を求めた。義満の威勢は巨大ではあったが、まだ完全ではない。不安定な風をはらみながら荒波の上を走っていたに過ぎなかった。
 鎌倉府の長として関東八州及び伊豆・甲斐の十ヵ国を治めていた氏満は、この時二十一歳。若い氏満も野心を胸の内に秘めていた。義満に代わり自らが将軍職に就こうというのだ。そんな氏満にとって、義満からの依頼は願ってもない好機だった。
 氏満は小躍りして喜んだ。二派に分かれた幕府重臣の、どちらかを抱き込めばよいのである。細川派と手を組めば、反対派を一掃し義満に貸しを作ることになる。それどころか、力量不足を晒した義満を追い落とすことさえ出来るのだ。また、反細川派と行動を共にすれば、一挙に義満とその側近たちの手から幕府の権威を奪い手中に収めることも可能となる。どちらに転んでも悪いことにはならない。血筋からいっても、自分が将軍となることに何ら支障は無い筈だ。
 氏満のもくろみは、しかし踏み出そうとした足元で挫折した。腹心の筈の関東管領上杉憲春(のりはる)の猛反対に遭ったのだ。関東管領は鎌倉公方を補佐する執事である。だが、ただの執事ではない。将軍の命を受け関東一円を統括する実権を握っている。鎌倉公方はその上に胡坐(あぐら)をかいて坐っているに過ぎず、関東管領を無視しては何事も出来なかった。
 天下をこれ以上混乱させる行動は慎むべきである、と憲春は諫(いさ)めた。氏満は譲らない。千載一遇の機会を逃すことなど考えられなかった。押し問答の末、自邸に戻った憲春は諫書(かんしょ)を認(したた)め、仏間で割腹した。自らの死によって若い鎌倉公方の勇もうとする足を止めたのである。
「では、事態は避けられたのですね」
「避けられはしたが、幕府の内紛をそのまま置いておくことは出来ない。義満公は仕方なく細川殿に帰国を命じられた。この閏(うるう)四月だ。細川殿は『満室の蒼蠅(そうよう)掃(はら)えども尽くしがたし』と言い残して、京の屋敷に火を掛け阿波の国(現在の徳島県)に退かれた」
「さぞご無念でしたでしょう」
「幕府が一枚岩にならない限り、義満公も動きが取れぬ。だが細川殿の失脚は、かえって義満公には好都合だったのかも知れないな」
「義満様の補佐役として治世にご尽力なされていた御方を失ったというのにですか?」
「義詮公が亡くなられる時、一子義満を頼むと細川殿に遺言された。細川殿は義満公の保護者みたいなものだ。時には小うるさいことも言い、無茶をしようとすれば体を張ってでも止めなければならない。若い義満公にとっては頭を押さえ付けられることも度々だったのではないかな。その重石(おもし)が取れたのだ。思う存分したいように出来る」
「そうですね。いつの時代でも若い人は持て余す力に任せて走りたがるものですもの。で、後任の管領はどなたが」
「斯波義将殿だ。細川殿を追いやり、やっと溜飲を下げたというところか」
「でも、そうなると………」
「後ろ盾を無くした楠木正儀殿の居場所が無くなる」
「またひと波乱ありますね」
「南朝も動き出す」
 かがりが酒の代わりと和え物を持って、二人の傍らに坐った。
「物騒な話ばかり。積もる話って他にもあるでしょ、犬王様」
「そうか。かがりには退屈だったな」
「退屈ですとも。こんな話ばかりだと、乙鶴様だって嫌になります。さびしがらせた分、もっと楽しい話をして。そうでないと、もうこの家には入れませんからね」
「それは困る。かがりは怖いな」
「はい。もっと怖くして上げましょうか」
「いやいや、勘弁願おう。これ以上怖くなったら、夜もおちおち眠られん」
「では、かがりはもっともっと怖くなって上げる。乙鶴様、怖がりの犬王様を寝かし付けて下さい。一人では眠れないのですって」
 乙鶴は顔を真っ赤に染め、耳が熱くなってしまった。
「まあ、この子は………」
 かがりは澄ましている。
「犬王様。このお酒を召し上がる間に、うんと怖がって」
「ハハハ。分かった。かがりにうんと怖がらせて貰おう」
 乙鶴の注いだ酒を飲みながら、犬王は久し振りに穏やかな気分になった。生臭い争いごとや世情の慌ただしさを忘れ、ささやかな温もりに浸っていた。このつかの間の幸せを失いたくは無い。観阿弥と同様、猿楽に賭ける思いは強いが、身近な者を犠牲にしたくは無かった。特に乙鶴には危険の伴う仕事をさせている。早いうちに何か手立てを考えなければ………。そう思いながら、犬王は傍らの乙鶴を見やった。
 うつむいていた乙鶴が顔を上げ、眼と眼が合う。はにかんで再び視線を落とす乙鶴を、犬王は愛しいと思った。
 囲炉裏の火が落ち掛け、かがりが炭を取りに立った。
 火箸で残り火を返す乙鶴の手に、犬王は自分の手を添えた。乙鶴はちょっと犬王の顔を見上げ、微笑んでいる。二つの手の重なる火箸が、字を書くように囲炉裏の灰の上を辿(たど)った。
しおりを挟む
1 / 3

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ラブコメは見ているだけがちょうどいい

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

円満な婚約解消が目標です!~没落予定の悪役令嬢は平穏を望む~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,491pt お気に入り:498

ナノカの魔法使い

児童書・童話 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

二律背反のこころ

現代文学 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:3

隣の席の一条くん。

児童書・童話 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...