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八、増阿弥

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 青年は冷めた眼をしていた。向かい合っていると、焦点はこちらの眼に合わせながらも通り過ぎ、後ろのずっと遠くを眺めている。底の知れない深い井戸を覗き込んでいるような気分だった。
 元清は自分とは異質のこの芸能者に、不思議な感じを抱いた。
「増阿弥。その方の芸を、儂は一度見たことがある」
 義満は、くつろいだ調子でそう言った。このところ機嫌がいい。有力守護大名の山名「六分の一衆」を封じ込めることに成功した自信が、義満を鷹揚(おうよう)な気分にさせているのだ。
「私がまだ幼い頃のことでございます」
「いつだったかな。確か獅子を舞ったと記憶するが」
「奈良法雲院の勧進田楽の折に」
 ああ、そうか、と元清は思い出した。まだ十二歳だった。観阿弥は、田楽新座の喜阿弥に教えを乞うていた時期がある。元清も父に付いて出入りしていたが、その新座に喜阿弥の孫がいた。話を交わしたことは無い。だが同じ芸能の子であり、同じ年頃の子だ。子ども同士、お互いに何となく意識するところはあった。喜阿弥の勧進田楽が催されるというので、父に連れられ出掛けた法雲院で観衆に紛れて見物した。その時、その少年も舞台に立ったのだった。義満と出会う数ヶ月前のことである。
「そうだったな。あの獅子の舞いはなかなかに面白かった」
「覚えておられましたか」
「うむ。喜阿弥の卓抜した芸も眼に焼き付いている。後を継いだと聞いたが」
「はい。将軍足利家様には従来より田楽を引き立てて下さり、有り難く思っております。今後とも何とぞご贔屓(ひいき)賜りますよう」
 増阿弥は義満に頭を下げながら、元清をチラリと見た。
 元清も見返したが、増阿弥の眼はすでに遠くを見る眼に戻っていた。
 義満は二人に眼を配りながら、からかうように増阿弥にこう言った。
「義将はどうだった、増阿弥」
「どう、と仰せられますと」
「閨の中のことだ」
 増阿弥は、一瞬耳を疑った。昼日中、まさか将軍から夜伽(よとぎ)のことを尋ねられるなど思いも寄らなかったからだ。答えようにも言葉が出て来なかった。
「ははあ。答えが無いところを見ると、よほど良かったか、口に出したくないほど悪かったか」
 義満はニヤニヤ笑いながら、興味深げに増阿弥の顔を眺めている。
 増阿弥の脳裏に義将の顔が浮かんだ。体を這う指の感触が甦る。天井の節を見詰め無感覚であろうとする勤め。自らを骸(むくろ)の体と打ち棄てる、思い出したくもない夜………。
 眉をひそめている増阿弥を見て、義満が言った。
「無粋な義将のことだ。どうやら後の方らしい。儂らは愉しかったがな。のう、元清」
 元清は顔を赤らめた。
「義満様、そのようなことを………」
「何だ。いいではないか」
「昔の、済んだことです。しかも、人前であからさまに話すようなことではありません」
「済んだことだから話せるのだ。昔のよい思い出話ではないか」
 増阿弥は、義満と元清の深い結び付きを目の当たりにした。自分には屈辱でしかなかったことを、二人は愉しみと捉えている。元清が顔を赤らめたことが、それを物語っていた。
 義満は、元清にとも増阿弥にともつかず話し掛けた。
「人間の結び付きというのは心と心、体と体、と割り切れるものではない。心と体は絡み合っているものだ。相手の心と体も絡み合っている以上、理屈ではないものが生まれる。それが情を交わすということだろう。情に流されてはならないが、情を蔑(ないがし)ろにすれば人と人の結び付きは成り立たない。男であれ女であれだ。人は自分に見合った人間を選ばなければ、不幸としか言いようのない道を歩くことになる」
 増阿弥は、自分と義将との結び付きを考えた。繋がり支え合うようなものは何一つ見当たらない。だが義満と元清の間に流れているものには、何かしら信頼を越えた絆のようなものが感じられる。自分の持ち得なかったものを持つ二人の関係は、新しい発見だった。だが、羨(うらや)ましくは無かった。自分は独りで立って行けばいい、と思う。同時に、独りで立とうとする自分の限界が見えるような気もした。
 一方、元清はこれまで自分と関わって来た義満や二条良基、尊勝院住持、犬王を想った。みな今ある自分を支えて来てくれた人たちばかりだ。様々の知識や教養を身に着けさせてくれた。誇りや気概を持たせてくれた。自分は恵まれているのだ。だからこそ与えられた恵みを育て、大輪の花を咲かせることがその人たちへ返す礼にもなる。そう考えていた。
「これからの田楽と猿楽を担う若い大夫が揃ったのだ。どうだ、それぞれ得意の芸を見せ合うというのは」
 義満は二人を見比べ、面白い趣向を思い付いたと喜んだ。
「御意のままに」
 増阿弥は無表情のまま答えた。
「喜んで」
 元清は快く応じた。
 元清は犬王の得意とする「天女の舞」を舞った。直(じか)に教えられたわけではない。また、直に教える犬王でもなかった。元清は犬王の舞を懸命に見、懸命に自分のものにしようと鍛錬に鍛錬を重ねて修得したのだ。天女が舞い降りて来る。浜辺で遊ぶその様を、元清は華麗に舞った。眼に見えないものが眼の前に現れ映る。犬王の至芸に届くものではなかったが、今の自分に出来る精一杯の芸を披露した。
 増阿弥は虚を突かれたように眼を見張った。いる筈の無い天女がしなやかに、優美に舞い戯れている。自分には無い幽玄の世界を垣間見る心地がした。体中に熱いものがじわじわと広がって来る。
 気を取り直し、増阿弥は「扇の舞」を演じた。
 見ているだけで音曲が耳に流れて来る。静かだが田楽特有の拍子が底辺に波打っている。体の動きは最小限に抑えられているが、扇の動きが心の機微を伝えるのだ。今までの田楽には無い、増阿弥自身の創り出した波動が胸に迫って来た。
 増阿弥の舞いに、元清も眼を開かれたような気がした。増阿弥はすでに独自の世界を築きつつある。物真似ではとても及びつかない。伝統の上に己の生き様を重ね、重ねた上に工夫を凝らし新しい道を切り拓(ひら)いている。切磋琢磨しているのは自分だけではないのだ。一歩も二歩も先んじて歩いている者が眼の前にいる。ぐずぐずしている間は無い。寸暇を惜しみ猿楽能に打ち込まなければ………。元清の胸の中で、熱くたぎるものがふつふつと音を上げ始めた。
 二人の競演が終わると、堪能した義満はねぎらいの言葉を掛けた。
 だが、元清は気もそぞろだった。急(せ)くように義満に辞意を述べると、家路へと足を向けた。頭の中で増阿弥が舞っている。扇が翻(ひるがえ)り、音拍子が鼓動に合わせ打ち続けていた。
 話があると言って、義満は下がろうとする増阿弥を引き留めた。
 訝(いぶか)しみながら、増阿弥は義満の前に坐り直した。
「大内義弘を知っているか」
 義満は増阿弥の反応を確かめるように訊いた。この男は表情が少ない。何に興味を示すか、それを探るのも愉しみだった。
「お名前だけは。私には政には関心がございませんので」
「何だ。味も素っ気も無いな。芸の道だけでは幅が狭くなるぞ。政であれ坊主の説法であれ色恋であれ、何事にも耳を置き、眼を留め、口で味わってこそ初めて自分の滋養になる。時には酔狂も必要だ。それがいずれ芸に活かされ、芸に幅と厚みを与えることになる」
「はい………」
 増阿弥は、答えはしたものの納得したふうではない。
「儂は酔狂が過ぎる。それも考えものだがな、ハハハ」
 苦い経験を思い出し、義満はそう付け加えた。
 義満は、後円融上皇の寵愛する二人の女御と密通したことがある。一人は逆上した上皇によって刀の背で打たれて負傷し、もう一人は後宮から追放された。義満が素知らぬ顔をして事情伺いの使者を差し向けると、怖じた上皇は持仏堂に走り込み自殺を図るという大騒動を演じた。幸い事無きを得たが、痴情のもつれで上皇を死に追いやる張本人となるところだった。
「まあ、よい。儂が大内の名を出したのは、その方にやって貰いたいことがあるからだ」
「何でございましょう」
「大内には南朝との和睦を命じている」
「はい」
「大内と吉野に行って貰いたい」
「吉野へ?」
「南朝方の交渉役は誰だと思う?」
「………」
 義満はひと呼吸置き、思わせ振りに言った。
「楠木正儀だ」
 増阿弥の反応は無い。
「知らないのか、楠木を」
「楠公様なら」
「その楠公、楠木正成の次男だ」
「そうですか」
 増阿弥から抑揚の無い言葉が返って来た。
 義満は呆れるよりむしろ可笑しくさえあった。
「正儀は、元清の大叔父に当たる」
 増阿弥の眉が、わずかに動いた。
(ほおう。元清の名が出ると、さすがに気になると見える。面白くなりそうだ。さて、どう話を持ってゆくかな)
 義満は増阿弥の心を量りながら、言葉を続けた。
「正儀は和睦に積極的らしい。条件次第では講和が成るだろう」
「で、私の役目とは?」
「表向きの交渉ごとは、大内に任せればよい」
「はい」
「その方は正儀の動きを漏らさず押さえておくのだ」
「それならば、元清殿の方が適任なのではありませんか?」
「正儀と付き合いは無いらしいが、血の繋がりは情を呼び起こす。政に情を持ち込めば面倒なことになる」
 増阿弥には言わなかったが、元清を政には引き入れないという観阿弥との約束もあった。
「私に務まりますでしょうか」
「何、ある物の在処(ありか)を探り、それから眼を離さずにいるだけだ」
「ある物?」
「講和の条件はいくつか考えているのだがな。その中で最も重要なのが三種の神器だ」
 増阿弥の眼に揺らぎ立つものが見えた。それは固く芯を持っていた。
(なるほど。これが好みの餌だったか)
 義満の心は、子鼠を手で弄(もてあそ)ぶ猫のようにはしゃいだ。
「知っているだろう。三種の神器は正統な皇位継承の証(あかし)だ。神器が北朝に渡って来なければ、和睦の意味が無い」
「殿もそのようにお考えでした」
「ふむ。義将も眼を付けるべき所には眼を付けているのだな。他に何か言っていたか」
「大したことは………」
「義将に義理立てすることは無い。義将は越後に引き籠もり、その方の役目も終わっている筈だ」
「私は政のことはどうでもよいのです。殿より聞いた話もあるのでしょうが、忘れてしまいました」
「欲が無いな」
「興味が無いだけです」
「三種の神器か………」
 義満はもったいぶって、その名を口にした。
 増阿弥の口元は何か言いたげに見える。誘いの餌を、さらに近づけた。
「見てみたくはないか、増阿弥」
 義満は増阿弥の唇の動きを注視した。
「出来ますことなら………」
 おやっ、と思わせるほど意外に素直な返答だった。自分を抑えることに徹しているように見えるが、実はそうではない。己の欲望には忠実なのだ。ただその欲望が他者と重なる部分が少ないだけで、目指すものや欲するものには視線を外さず真っ直ぐに突き進む。増阿弥の姿勢を、義満は好ましいものとして胸に落とした。
「では、話は早いな」
「………」
 増阿弥の無言は、義満の意図を迎える意思を表している。そう受け取った義満は、ポンと餌を増阿弥の眼の前に投げた。
「機を見て、神器を盗み出せ」
「盗む?」
「正儀という男、ひと筋縄ではいかない相手だ。神器を盾に、どうごねるとも限らん。神器がこちらの手に移っていさえすれば、否も応も無い」
「神器を………」
「大内には、このことは伏せておけ。あやつは得体が知れない。弱みは握られたくないからな。その方には儂の息の掛かった手の者を付けてやる」
 増阿弥の耳には、もう義満の言葉は届いていなかった。天井の節目を探るように、その眼はまだ見えない神器を追っていた。
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