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九、合一

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 明徳三年(一三九二年)十月二十八日ーーー。
 吉野山は紅葉も終わり掛かり、冬を告げる風が残り葉を落としている。その落ち葉を踏みながら、もくもくと山路を下る一行があった。直衣姿の公家十七名、武装した侍二十六名が供をする後亀山天皇の行列である。いくら窮地に追い込まれている南朝とはいえ、あまりにも侘(わび)しい行幸だった。
 先頭を歩く楠木正儀は、万感の思いが込み上げていた。ようやく北朝との講和を結ぶに至ったのだ。長い道のりだった。
 幕府と戦い、細川頼之を頼って幕府の内側から和平工作を行い、南朝に復帰してからは強硬派の説得を続けて来た。吉野の情勢が変わったのは、征西将軍として九州南朝軍の指揮を執っていた懐良親王が九州探題今川貞世に敗れて亡くなってからである。行宮(あんぐう)を転々としながらも主戦論を崩さなかった長慶天皇は、訃報を聞いて失意の底に沈み戦う気力を失った。講和を主張していた弟の煕成(ひろなり)親王が譲位を受け後亀山天皇となって、南朝は一気に和睦に傾くことになったのである。
 この報は、義満にとっても好都合だった。
 義満は目下のところ、守護大名の台頭を抑えることに精力を注いでいる。力が無いに等しい南朝の懐柔は後回しにされていた。それが労せずして向こうの方から転げ込んで来たのだ。南北朝の合一が実現すれば、守護大名の牽制(けんせい)に専念出来る。正統な朝廷を北朝に移す絶好の機会を逃す手は無い。義満は大内義弘と公家の吉田兼煕(かねひろ)を使者に立て、交渉を行わせた。
 義満の出した条件は、次の三つである。

一、「譲国」の儀式をもって、後亀山天皇は北朝の後小松天皇に三種の神器を授ける事。
一、今後、皇位継承は大覚寺及び持明院両統の迭立(てつりつ)とする事。
一、諸国の国衙領(こくが)領は大覚寺統、長講堂領は持明院統の支配とする事。

 第一条の「譲国」とは天皇が位を譲ることである。この儀式を行えば、後醍醐天皇から後亀山天皇まで続く南朝の皇統は正統なものとして認められる。皇位は後小松天皇に譲ることになるが、後亀山天皇は上皇となることが出来る。南朝の面目は保たれることになるのだ。
 第二条の「迭立」は、皇位継承が南朝の大覚寺統と北朝の持明院統から交互に行われることをいう。大覚寺は平安初期、嵯峨天皇の離宮を改称し皇族が住職に就くようになった門跡で、鎌倉時代末期に皇位継承をめぐり争いが起こった。この時、持明院統と大覚寺統に分裂し、以後も対立が続いていた。後醍醐天皇以降は大覚寺統の南朝を正統として来たが、北朝の持明院統との交互の皇位継承であれば後小松天皇の後は大覚寺統から天皇が即位することになる。南朝側にとっては好条件と言えた。
 第三条の「国衙領」は国司の統治下にある領地、「長講堂領」は後白河法皇の六条殿長講堂に付せられた荘園百余ヶ所のことで、すでに各々両統の支配下にある。それを追認したに過ぎない。
 交渉に当たった正儀の報告に、後亀山天皇始め南朝の公家衆や諸侯の多くがこの条件を呑むことに合意した。合意せざるを得なかった、というのが本音のところだった。
 正儀は、すぐ後ろを歩く若い武者を振り返った。
「次郎殿」
「は。何か」
「光資(みつすけ)殿の具合はどうだな」
「養生に努めてはおりますが、起き臥しもままなりません」
「難渋しておるの」
「ですが、父はこの度の北朝との合一を何より喜んでおります」
「我らと同行したかったであろうに」
 葉室光資は正儀と同年輩である。正儀と志を同じくし、南朝のために和議の使者として北朝との交渉に奔走したこともある。だがこの数年、病床を離れることが出来ずにいた。
 病床にある光資に代わって供することになった次郎光重は、まだ二十五歳の凛々しい若者だ。後亀山天皇を警護し、京まで送り届ける大役の一端を担うことに胸を高鳴らせていた。
「念願が叶うのだ。この身は動けずとも、お前が立派にお役目を果たせば同じことだ、と申しておりました」
「そうか………。光資殿も頼もしい子息を持たれたものだ」
「若輩(じゃくはい)者ゆえお役に立つかどうか分かりませんが、懸命に務めるつもりです」
「そなたならば申し分ない。若い者たちの中でも、腕は図抜けていると聞いたぞ」
「まだまだ井の中の蛙。世の中にはいくらでも腕立ちはいる。慢心するな、と。それが父の口癖です」
「光資殿も儂も、幕府の軍勢と刃(やいば)交えた。強いぞ、やつらは。それを知った上での苦言だ。若い者は往々にして自分の力を過信する。他人に見せ付けたがる者もいる。付け焼き刃は、かえって怪我をする。自戒として胸に留め置くがよい」
「はい。しかと」
「歳がいくとな、ついつい若い者に説教したがる。悪い癖だ。年寄りも自戒せねばの。ハハハ」
 次郎が、はたと足を止めた。
「どうした」
 正儀も立ち止まった。
「お静かに………」
 次郎が辺りに気を配る。
 先頭の二人が動かないので列の間隔が詰まり、一行は足踏み状態になった。列の後部から声が掛かった。
「何事だ!」
「道を違(たが)えでもしたか!」
 次郎は五感を研ぎ澄ます。何も聞こえない。何の気配も感じない。だが次郎の感覚に何かが引っ掛かっている。
 正儀が、再び訊いた。
「どうした。誰か潜(ひそ)んででもいるのか?」
 列に不安が生じ、騒つきが起こった。
「待ち伏せか?」
 緊張が走り、騒つきが凍り掛かる。
 いけない、と次郎は思った。動揺を与えてはならない。とっさに後方の列に向かって、大声で叫んだ。
「大事ありません。猪の子が前を駆け抜け、驚いただけです。どうかご安心を」
 ほっと吐息が列の間に漏れた。
 正儀が声を落とし、訝(いぶか)しげに次郎に囁いた。
「大丈夫なのか」
「はい。私の勘違いだったようです」
「ならばよいが………」
 列が動き始める。だが次郎は、さらにも増して槍の穂先を研ぐように気を尖らせた。確かに、誰か居る。こちらの動きをじっと観察するように見ている眼がある。その思いは、山を下り大和路に入ってからも拭えなかった。

 同年閏(うるう)十月二日ーーー。
 後亀山天皇一行は京都に入った。出迎えた幕史に導かれ、嵯峨の大覚寺に逗留する。
(なぜ大覚寺なのだ。なぜ直ちに内裏に迎え入れない………)
 後亀山天皇の胸中に一抹の不安、一片の憤りが生まれた。
 翌日、幕府からは何の音沙汰も無い。後亀山天皇の不安と憤りは黒雲が広がるように胸を覆った。
 申(さる)の刻(午後四時頃)を待って、痺れを切らした楠木正儀が室町第に赴いた。応対に出た畠山基国が丁重に正儀を迎える。基国は山城・河内の守護を歴任し、明徳の乱では山名氏清を攻めて功を挙げた。幕府の要人として義満の信任も厚い。
「これは楠木殿。わざわざ足を運ばれるとは痛み入る」
「我らを大覚寺に留め置き、内裏に迎え入れぬとはどういうことだ」
 怒りをぶつけるように、正儀は詰め寄った。
 基国は動じない。
「譲国の儀式の準備が整うまでお待ち願いたい」
「いつまで待てと申されるか」
「さて。いつまでと言われましてもな。何しろ初めてのこと。我ら幕府も朝廷の弁官に任せるしかない。ご存知であろうが、役所仕事などというものは埒(らち)が明かぬ。当方も沙汰待ちなのだ。今しばし猶予を」
 要領を得ない基国の受け答えを鵜呑みにしたまま、引き下がるわけにはいかない。正儀は基国を睨み付けながら言った。
「義満公にお目通り叶うよう、お取り計り願いたい」
「公は儀式の準備がはかどらぬゆえ、指図に奔走されておられる」
「では、管領細川頼之殿に」
「細川殿は先般、亡くなられた。代わってこの畠山基国が管領の代理として話を承っておる」
「細川殿が亡くなられたと?」
 寝耳に水だった。細川頼之は仇敵北朝の中にあって、正儀が唯一頼れる人物だったのだ。今回の講和交渉でも、その姿は見えなかった。明徳の乱後、公職を退いたとは聞いていたが、まさか亡くなったとは思ってもいなかったのである。
「左様の次第だ。今しばらくお待ち願いたいとしか申し上げることが出来ぬ。後亀山天皇様には、よしなにお伝え下されるよう」
 正儀は歯噛みしながら退く他なかった。必要以上にねじ込んで義満の機嫌を損ない、講和そのものが壊れてしまっては何にもならない。数日の辛抱だ、と自身に言い聞かせた。
 翌四日、午後になって畠山基国が数名の供を連れ大覚寺を訪れた。合議の準備が整ったからではない。後亀山天皇の無聊(ぶりょう)を慰めるため、田楽を見せようというのである。
 田楽は本来、田植えなどの農耕儀礼に笛・太鼓などを鳴らして歌い舞い、豊穣を祈願するものだった。やがて専門の田楽法師が生まれ、猿楽同様、歌舞劇である能も演じるようになった。
 木造入母屋(いりもや)造り檜皮葺(ひわだぶき)の宸殿に後亀山天皇及び南朝の面々が坐る。平安以前の古式に則(のっと)り左近の梅、右近の橘(たちばな)が植えられた前庭に、やがて田楽師たちが現れた。季節がら梅には花も葉も無く寂しい限りだったが、橘には小さな橙色(だいだいいろ)の実のいくつかが緑の葉の間に顔を覗かせている。
 最初は田楽躍(おど)りが披露された。笛を吹き、腰鼓(ようこ)を叩き、銅拍子(銅製の打楽器)や簓(ささら)を打ち鳴らす。華やかな音に合わせ演者が踊る。いかにも大衆向きの演芸に、帝はいささか閉口した。
 続いての出し物は高足(こうそく)と呼ばれる曲芸だった。高足とは一種の竹馬で、長さ七尺(約二メートル)の木に一尺(約三十センチ)の横木がくくり付けられてある。この横木に両足を乗せ、跳んだり刀剣を投げたりの曲芸をする。見栄えはするが、動きが派手で趣(おもむき)などは無い。帝の渋面の皺が、さらに増した。
(土足で国を踏み歩く足利が、いかにも好みそうな芸じゃ。慰めと言うが、これは朕を蔑ろにし嘲笑するがためのものではないか)
 興ざめた帝は、今にも席を蹴って立ち上がりたい気持ちを何とか堪えていた。
 次に白い砂洲の上に、一人の青年が現れ立った。老翁の尉の出で立ちである。帝に一礼すると静かに立ち上がり、謡い舞い始めた。
 すると、これまでの空気が一変した。その物腰、動作は張り詰めた緊張を強いるだけの力があった。その一挙手一投足が見る者すべての眼を吸い寄せた。痩身から発せられる冴々えとした涼気が、辺り一面に沁み込んでゆく。
 帝は思わず興趣をそそられ、青年を凝視した。
 演じ手が若いにもかかわらず、翁の舞はしっとりとした落ち着きがある。古色の中に滋味が漂い、風格すら滲み出ていた。
 舞い終わった青年を呼び、帝は直々に声を掛けた。間近に見る青年の整った顔立ちは引き締まり、清艶だった。
「名は何と言う」
「増阿弥と申します」
「今、謡い舞ったのは?」
「はい。『炭焼きの能』と言い、祖父より受け継いだ芸でございます」
「祖父とは?」
「今は亡き奈良田楽新座の喜阿弥と申します」
「奈良か。朕とは縁深い地じゃ。その地にこのような芸を為す者がいたとは、朕は喜びに思う。今ひと舞い、舞うてくれぬか」
「承知致しました」
 一座の者から尺八を受け取り、増阿弥は坐ったまま、おもむろに吹き始めた。
 泣くような、また吼(ほ)えるような音色が耳朶(じだ)を捉えた。波立たぬ水の面(おもて)に、ひょうひょうと風が響き渡るような音だ。聞く者はみな、知らず知らずのうちに心の奥に静謐(せいひつ)な世界を創り上げてゆく。
 尺八を吹きながら、増阿弥が立ち上がった。ゆっくりとした足の運びが弧を描く。増阿弥の冷え冷えとした尺八の音色に、もう一つの音が加わった。座頭(ざがしら)らしい、猪首のがっしりした体躯の男の吹く力強い尺八の音である。一つの音が後を追い、重なり、二つの音が一つになり、増阿弥の音色を引き継いだ。
 増阿弥は自分の尺八を手に、謡いながら舞い始める。
 前庭は水を打ったように静まり返っていた。尺八の音と増阿弥の舞だけが辺りを支配している。そこに立ち会う者は、墨で描かれた一服の絵を見る思いがしていた。山水樹石が枯れた筆致で心のうちに描かれ、枯淡の世界が眼の前に広がっていた。

 同月五日ーーー。
 夕刻から降り始めた雨が、夜半を過ぎても止まなかった。
 陣屋に寝ていた葉室次郎は微かな気配に眼を開いた。髪の毛先ほどの気配だ。雨の音に紛れ掻き消されてはいるが、次郎の鋭敏な感覚は逃さなかった。
 次郎は起き上がると太刀を左手に携え、そっと陣屋を出た。音を殺し、回廊を巡る。辺りに気を配りながら進んだ。吉野山で感じた、あの気配だ。姿は見えないが、確かに誰かいる。太刀を握る手に、思わず力が入った。
 雨が葉を打ち、石に跳ねる。急勾配の屋根から落ちる雨滴が砂利を濡らす。音や足元に気を取られると、気配が消え掛かる。次郎は慎重に歩を進めた。
 宸殿の奥の、中庭に面した正寝殿の入口にまでやって来た。中が気になった。だが、入るのは憚(はばか)られる。畏れ多くも天皇の御座所なのだ。逡巡した。が、その逡巡が次郎に遅れを取らせた。
 足首に何かが絡み付く。踏ん張って堪えようとした。が、回廊の濡れた板張りに足が滑り、体が傾いた。そのまま引き倒され、庭先に転がり落ちる。転がる弾みを利用して一回転し、膝を立てて受けの体勢をとった。その時、頭上から太刀が振り下ろされた。次郎は辛うじて鞘(さや)ごと太刀を受け止めた。だが勢い余った刃が鞘を滑り、次郎の左眼を斬り下げた。刃先が肩口を削いで流れる。
「うっ!」
 呻きながらも、次郎は抜き打ちざまに右手で太刀を横に薙(な)いだ。太刀が空を切る。
 降り注ぐ雨の中に、左の額から眼、頬と血が伝い滴(したた)り落ちた。必死で開けた右眼を凝らす。
 黒い影が三つ、身構えている。
 いかに腕に覚えがあるといっても、相手は三人。しかも白刃を交えた経験が次郎には無い。手傷も負ってしまった。一挙に掛かられては防ぎ切れない。ジリジリと後退(あとずさ)りし、渡り廊下の支柱を背にした。だが、相手は攻め込む気が無いのか、次郎を遠巻きにして警戒しているばかりだ。
 正寝殿の脇の間の扉が細く開かれ、中から二つの影が出て来た。長身痩躯の影は小脇に細長い箱を、もう一つのいかつい影は両腕で四角い箱を抱え持っている。刀は帯びていない。二つの影は外の様子を窺(うかが)うと脱兎のごとく駆け、前庭に飛び降りた。
 次郎は後を追おうと、一歩足を踏み出した。遠巻きにしていた三人が交互に太刀を振り、行く手を阻(はば)む。次郎は刀を受けるのが精一杯で、後退するより無かった。箱を抱えた二人の姿は、もう見えない。
「出合え! 曲者だ!」
 次郎は大声で叫んだ。次郎の声にひるむ様子もなく、三人は斬り掛かっては後に退(ひ)く。次郎を釘付けにし、時間を稼いでいるのだ。
 次郎は右眼で三人を睨みながら、再び叫んだ。
「出合え!」
 声を聞きつけ、宿坊から何人かが躍り出た。
 三人が踵(きびす)を返した。回廊を跳び越え、砂洲を走り去る。
 追おうとしたが、足に力が入らなかった。手勢の者が次郎の側に駆け寄った。
「向こうだ!」
 次郎が指差す唐門の方に五、六人が走り、後を追った。
 傷口に雨が沁み込み、次郎は初めて痛みを覚えた。握っていた鞘が左手からするりと抜け、地に落ちた。
 寺院の西に広がる庭湖は降り注ぐ雨の音も人の騒ぎも呑み込み、満々と水を湛(たた)え、ただ黙し横たわっている。

 夜が明けても、雨は降りしきっていた。
 薄暗い部屋に燭台の灯りが二つ、炎を揺らしている。義満の前に三つの箱が置かれていた。左から鏡の入った轆轤筥(ろくろばこ)、剣を納めた直方体の桐の御刀箱、黒漆に金、青金(金と銀の合金)、銀の研出蒔絵(とぎだしまきえ)で鳥や蝶を描いた宝珠手筥。それらの箱を挟み、濡れた小袖袴を新しいものに替えた増阿弥が神妙な顔で坐っていた。
 義満が言った。
「いいのだぞ、見ても」
 増阿弥の喉仏がこくりと動いた。音が喉から骨を伝い、耳に届いたように思った。
「はい」
 増阿弥はにじり寄ると、細長い箱に手を伸ばした。房のついた紫の組緒(くみお)を解き、蓋を開ける。中には太刀を佩(は)くための唐組平緒の帯と、繧繝錦(うんげんにしき)の太刀袋が入っていた。平緒は幅十センチ余り、長さが三メートルほどで、萌黄(もえぎ)や浅葱(あさぎ)、蘇芳(すおう・黒みを帯びた赤色)など十種類の色糸で組み上げられている。太刀袋は日輪を彩る縹色(はなだいろ・藍色の一種)、緋色、緑、紫、茶、黄色の文様が施され、眩しく眼を射た。
 増阿弥は太刀袋を押し戴き一礼すると、剣を取り出した。剣は直刀で、柄(つか)には鴇(とき)の羽が纏(まと)ってある。柄頭(つかがしら)から鍔(つば)にかけての大輪金(輪を作っている金の装飾具)には左右それぞれ五つずつ鈴が取りつけられ、三尺(約九十センチ)の刀身を納める鞘には水晶、瑠璃、琥珀、瑪瑙(めのう)などの宝玉が散りばめられている。
 義満も初めて眼にする宝刀に気を吸い込まれていた。
 増阿弥が震える手で、慎重に鞘を払う。燭台の灯りが刀身に映えた。鍔元に竜頭、中ほどから先に雲と七星の象嵌(ぞうがん)が金色に輝いている。言葉はすでに失われ、二人は溜息すら洩らさなかった。じっと見詰める四つの眼は瞬きもせず、魅入られたように宝刀に注がれていた。
 同じ頃ーーー。
 大覚寺の宿坊では楠木正儀が腕組みをし、眉根に皺を寄せていた。三種の神器を盗まれたのだ。賊は幕府の手の者であることは明らかだった。だが証拠は無い。どう善後策を立てるか。時間が経つばかりで、妙案は浮かばなかった。
 巳(み)の刻(午前十時頃)、畠山基国が幕府の使者として大覚寺を訪れた。
 正儀は覚悟を決めなければならなかった。
「さて、楠木殿。準備が整い申した。速やかに合議に入られるよう後亀山天皇様に奏上願いたい」
 基国の態度は鷹揚だった。手の内の駒は全て握っているのだぞ、という意図がありありと見える。
 正儀は奥歯を噛み締め、断腸の思いで吐き出すように基国に告げた。
「実は、申し上げねばならぬことがある」
「ほう。何事であろうかな」
「神器を紛失致した」
 まさか盗まれたとは言えない。言えば南朝の恥になる。紛失したというだけでも、すでに面目は失われているのだ。
「何と!」
 基国は驚きの声を上げた。
「今しばらく猶予を頂きたい」
「先日は早く早くと急き立てながら、今日は猶予をと申される」
「是非に。神器はいかにしても見つけ出すゆえ」
 基国は、正儀をじろりと見据えた。
「楠木殿。何か勘違いをなされておるのではないのか」
「勘違い?」
「左様。神器を紛失したなどと、途方も無いことを申される。もしそれが真実(まこと)ならば、南朝の方々はみな腹を切らなければならなくなる」
 正儀は恥辱に体が震えた。だが基国の次の言葉は、恥辱以上に正儀を打ちのめした。
「神器は勅使により、今朝がた大覚寺から宮中に届けられた」
「何! 神器が届けられたと!」
「神器はすでに内侍所(ないしどころ)へ移されておる」
「内侍所へ………」
 内侍所は賢所(かしこどころ)とも言う。神殿、皇霊殿、春興殿の宮中三殿のうち、天照大神の御神体として八咫の鏡を模した神鏡を祀る春興殿の中にある。その内侍所に神器が入ったということは、皇位が後小松天皇に引き継がれたことを意味する。「譲国」の儀式が執り行われてもいないのに、である。南朝の系譜が全く無視されたのだ。正儀の顔は血の気が引き、蒼白になった。
「よく考えられるがよろしかろう。神器紛失などというのは前代未聞のこと。あってはならないことだ。神器が譲渡されたことが、貴殿に知らされていなかっただけではないのか」
「いや。そんな筈は………」
「いや。その筈だ。楠木殿のご返答如何(いかん)では、大変な事態になりますぞ」
 正儀は即答することが出来なかった。幕府の謀(はかりごと)と知りながら、返す言葉が無かった。神器譲渡はすでになされている、と基国は言った。神器が北朝の手に渡った以上、それは認めざるを得ない事実だ。認めた上で、南朝の皇統の正当性を主張するしかない。失態ではあるが、まだ道は残されている。だが神器紛失を表沙汰にすれば、失態どころでは済まない。南朝の命取りとなりかねないのだ。紛失が「勘違い」であれば、自分一人がその責を負えばよい。基国は正儀に水を差し向けている。その誘い水を飲むしか無いように思われた。南北朝合一が成り六十年に及ぶ争乱に終止符を打つことが出来るのであれば、この老体一つ何惜しむことがある。
 苦渋を腹に呑み込み、ようやく正儀は顔を上げた。
「いかにも、この楠木正儀の勘違いであった。己の眼の届かぬところ、重々にお詫び申し上げる」
「やはり、そうであったか。それで事は上手く納まる。なに、楠木殿。ご心配には及ばぬ。後のことはお任せあるように」
 だが、幕府に任せてよいことは何一つ無かった。
 正寝殿で講和が結ばれたが、「譲国」の儀式はついに執り行われなかった。
 神器をすでに掌中にしている北朝側は、かつて安徳天皇が持ち出した神器を壇ノ浦の合戦後に源義経が奪還した故事を引き、納まるべき所に納まったのだと主張した。南朝の天皇の系譜は存在しない。よって後亀山天皇が上皇になることもあり得ない、という態度を崩さなかった。
 後亀山天皇は激怒した。
 正儀も強硬に抗議した。これは合一ではなく、北朝の南朝吸収に他ならない。北朝南朝の系譜は後醍醐帝より始まっているのだ。後亀山天皇に上皇尊号を奉ることが無ければ、後醍醐帝の存在をも否定することになる。南朝の系譜を認めないならば、北朝の系譜も無い。国を真っ二つに割って流した多くの血を見なかったことにするつもりか。ならばこの皺腹かっさばいて、その血の一滴でも見せてくれる、と正儀は必死の形相で食い下がった。
 結局、北朝側は即位していない「不登極帝(ふとうきょくのてい)」である後亀山天皇に与える「礼敬」として上皇の尊号を贈ることを渋々と認めた。皇位は後小松天皇に譲位され、それ以降は大覚寺統から天皇が立つことも無かった。講和の合意条件は全く無視されたのである。
 楠木正儀は責を取って割腹し、人知れず葬られた。葉室次郎は傷の癒えるのも待たず、いずこともなく姿を消した。
 すべては義満の描いた図面通りに、太く濃い線が引かれていったのだった。
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