イカルスの憂鬱

戸浦 隆

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四、長崎

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--九月十二日(陰暦八月十五日)
「ヨーロッパの諺(ことわざ)では、それを『老婆仕事』と言うのですよ、ミスター・桂」
「老婆仕事?」
「ええ。『老婆の理屈』とも」
「どういう意味です?」
「公(おおやけ)の意見だとして天下に唱えながら実行せず、そのまま放置しておく。それをそう言うのです。ヨーロッパでは、男に対する侮蔑(ぶべつ)の言葉です。今の日本は、まさにそうではありませんか」
 アーネストは、長州藩の桂小五郎と伊藤俊輔の顔を交互に見た。常に穏やかで丁寧を身にまとっている桂は反応を示さない。桂より八歳若い伊藤も素知らぬ顔だ。ナイフとフォークを器用に操りながら、残っていたローストビーフにグレービー・ソースをたっぷり付けて口に運んでいる。
 午前四時半頃、長崎に着いたアーネストはイギリス領事フラワーズの家に厄介になることにし、桂と伊藤を夕食に招いた。食事の後、話は今年の春から夏に掛けて行われた四候会談に移っていた。フラワーズは気を利かしてか、終始聞き役としてホストを務めている。
 四候会談とは、薩摩の島津久光・土佐の山内容堂・福井の松平春嶽・宇和島の伊達宗城の四人を京都に集めた将軍慶喜が、長州問題と兵庫開港について話し合ったことをいう。長州問題を片付けることが先決だと言う四候の意見を押し切って、慶喜は兵庫開港を優先し決定したのである。アーネストは公論である四候の意見が覆(くつがえ)されたことを、西洋の古くからの諺に例えたのだった。
「外国の一通弁官である君のご指摘は、まことに耳が痛い。神州男児として大いに恥じ入るしかない思うとります」
 桂は、アーネストが薩長同盟や大政奉還については知らないと読んでいた。だが、話はそれにも通じる。倒幕や大政奉還を公言して実行出来なければ、日本国内ばかりか諸外国にも恥をさらけ出す。慎重に、しかも脱兎(だっと)のごとく事を成し遂げなければならない。このイギリスの若者はかなりの日本通で、しかも頭が良さそうだ。そう判断した桂は、悟られないよう言葉を選ぶ必要があった。
「兵庫開港は私たちイギリスを始め、各国の要求です。ですから、大君の決断にはサー・パークスも大変喜んでいます」
「それに異論を唱えるつもりは毛頭ありませんけ」
「ですが、長州問題は急を告げています。倒幕は避けて通れないでしょう。今という時期を逃してはならない。長州は薩摩とともに即刻兵を挙げるべきだ、と私は考えています。違いますか、ミスター・桂」
「僕らは誠意を尽くしとります」
「それは何に対してですか。長州藩主に? 幕府に? 天皇に?」
「全てに、です」
「ミスター・桂。私にはあなたの言葉は詭弁(きべん)に聞こえます」
「いや、詭弁じゃあない。尊王思想は長州の柱です。それは吉田松陰先生の教えの通り、僕らが守らんといけんことです。幕府に諸藩を統轄する力は無い。それは先の戦いで僕ら長州に敗れたことで証明されとる。幕府も諸藩も、天皇の下でこそ活かされる。だから、誠心誠意と言うたんです」
 桂の言うことに嘘は無い、とアーネストは思う。だが何かを避けているような気がする。奥歯にものが挟まったような、すっきりしないもどかしさが残るのだ。それが何かは解らない。井上と同様、長州の人間は自分を遠くに見ているみたいだった。逆に言えば、自分は遠くにそびえる壁か崖のようなものを見ている………そんな気がする。
「日本人のことは日本人がよおう知っとりますけ」
 伊藤が手の動きを休めることなく言い放った。
「それぁ、君らの手を借りんことには長州も薩摩も動きが取れんかった。僕らは君らには感謝しとります。これからも何かと援助して貰わんといけん。けんど、実際に動くんは僕ら日本人ですけ。なあ、木戸さん」
 行儀よく振る舞う桂は別として、伊藤といい井上といい、長州の人間はよく食べる。活力があるという証拠だ。
 それにしても、なぜ名前を変えたのだろう。桂小五郎が今は木戸準一郎だという。日本では出世魚といって成長する度に名前を変える魚がいると聞くが、人間も出世する度に名前を変えるらしい。桂は出世したから名を変えたのだろうか。それとも、正体を隠すために変名を使っているのだろうか。桂は「逃げの桂」という異名を持つ。尊王攘夷の志士が襲われた京都池田屋騒動の時も、薩摩・会津・桑名の兵と戦って敗れた蛤御門(はまぐりごもん)の戦いの時も、桂は難を逃れている。危険を察知する能力とバランス感覚に長(た)けているのだろう。そういえば夕顔丸で会った才谷梅太郎も命を狙われていると言っていたから、彼も変名を使っているのかも知れない。才谷も桂も危険に身を晒(さら)してはいるが、対応の仕方が違うように思う。才谷は危険をくぐり抜けながら果敢に挑んでいるが、桂は鋭い嗅覚で安全な道を選んでいる気がする。何だか桂は、私からも逃げているような印象を受ける。アーネストは何となく感じる疎外感を拭い切れないまま、そんなことを思っていた。
「伊藤君。僕らは今、ミスター・サトウに言われたことを真摯に受け止めよう。『老婆仕事』にならんよう粉骨砕身せにゃあ世界の笑いもんになるけんなあ」
「それはそうじゃ」
「ミスター・サトウ。僕らは今言うた通り誠意を持って事に臨むつもりでおる。幕府を倒そうなどとは考えたことは、一度もないですけ」
 最後の言葉を、桂は力を込めて言った。
 アーネストは、「そうですか」としか答えようがなかった。
 ソースを拭き取るように吸わせたヨークシャー・プディングを、伊藤はぺろりと平らげた。しかし話の方は、綺麗に平らげることなく消化不良に終わってしまった。
 長崎にいる間に何度か会う機会もあるだろう。彼らが徐々に心を開いていくれるのを待つしかないな。そう自分を納得させたアーネストは、食欲旺盛な長州人を見ながら、物足りなさを紅茶とともに喉に流し込んだ。


--九月十六日(陰暦八月十九日)
 長崎運上所(税関)での訊問に入る前に、アーネストは土佐藩大監察佐佐木三四郎と面会した。
「幕府の平山図書頭が言うには」と、アーネストは切り出した。
 佐佐木は温厚な表情を崩さなかったが、眼だけは鷹のように鋭くアーネストに向けている。
「海援隊は犯人が身内にいるから、藩主の命令に背き犯人の追及を拒んでいる。そうして、あなたもそれに同調している、と」
「何言いゆうがですか!」
 佐佐木は思わず大声を上げた。
「そんなことある筈ないですろう!」
「私もそうだと思います。ですが、念のため伺っているのです」
「幕府は今回の件で、土佐を諸藩やイギリスから分断しようとしゆうがです」
「我々イギリス側は、この件を幕府主導で解決して欲しいと思っています。幕府の意図がどうであれですが」
「幕府の狙いは見えちょります。私は藩命を受けてここに来ちゅうがです。幕府のいいようにはさせん。幕府には犯人追及の権限も力も無いがですき。犯人は土佐人やない。私はそう信じちょります。万が一犯人が海援隊の中におるがやったら、ざんじ差し出しますき」
「もしあなた方に犯人探索の方策があるのでしたら、聞かせて貰えませんか?」
「私らぁはこの長崎に着いた晩、夜を徹して協議したがです」
 佐佐木は岡内俊太郎と投宿した池田屋で、訊問に備えるための会合を持った。集まったのは松井周助・岩崎弥太郎・才谷梅太郎で、明け方の鶏の声を聞くまで相談した。だが、犯人の見当もつかない。話は空転するばかりだった。
「仕舞いに、『手をこまねいて何ちゃあせんがはいかん』と、才谷が言うたがです」
 夕顔丸で「狸の油」をくれた男の風貌を、アーネストは頭に思い描いた。あの男なら何か妙案を思いついただろう。
「ミスター・才谷は、どうすると?」
「懸賞金を出そう、言うがです」
「懸賞金?」
「犯人を見つけ出した者に」
「金額は?」
「千両」
 アーネストは仰(の)け反りそうになった。千両といえば、小さくとも家が建つ。法外な額だった。
「翌日早速このことを長崎の町に広め、長崎中の目明かしを雇うて探索に当たらせちゅうがです」
「ミスター・佐佐木。あなた方の努力はよく解りました。今後とも、ご協力をお願いしたい」
 佐佐木は口をへの字に曲げ、足を踏み鳴らして退出した。「まっこと幕府の能無しらぁは何言いよらや」と毒づきながら。
 アーネストは佐佐木を見送った後、こう思った。長崎奉行といい平山といい、幕府の人間の何といい加減なことか。それに引き換え、土佐の人間は必死だ。掛けられた容疑を晴らしたいという思いもあるのだろうが、熱いものがひしひしと伝わって来る。すでに内部から腐り掛かっている幕府は早晩、土佐や薩摩・長州ら諸藩に取って代わられる運命にある、と。

 訊問が始まった。出席者は次の者たちだった。
長崎奉行  能勢大隅守頼之
      徳永石見守昌新
幕府大目付 戸川伊豆守安愛
   目付 設楽岩次郎
英国領事  フラワーズ
  通訳官 アーネスト・サトウ
土佐藩
  大監察 佐佐木三四郎
海援隊隊長 才谷梅太郎
   隊士 菅野覚兵衛
      中島作太郎
証人
長崎地役人 石崎麒一郎
   医師 三沢揆一郎

 まず、長崎奉行能勢大隅守が二人の証人に訊問した。
「その方二名は、事件の当日に土佐藩船『若紫』こと『南海丸』を訪ねたというが、それは真実(まこと)か」
「間違いありまっせん」
 二人は、ともども答えた。
「訪れたのはいつだ」
「四ツ時分に船が出ましたけん、その前ですたい」
 四ツとは午後十時頃だ。石崎麒一郎の証言は、土佐での訊問の際の南海丸艦長野崎伝太の証言と一致する。
「その後の南海丸の行き先は知っておるか?」
 石崎は頷いた。
「石炭を積むために、唐津に寄ってから兵庫向かうと。聞いただけですばってん、艦長の言いよらしたとですけん確かじゃ思います」
 三沢揆一郎も、石崎の証言をなぞるように同様の返答をした。
 これでサー・パークスの主張は完全に否定されたなと、アーネストは心に刻んだ。
 パークスの言い分はこうだった。陰暦七月七日午前三時頃、犯人を乗せた横笛丸が長崎を出航。続いて一、二時間後に南海丸も出航し、海上で犯人が横笛丸から南海丸に乗り移る。南海丸は土佐に向かい、横笛丸は昼頃港に戻って来た。しかし証言通りだと、横笛丸が帰港した時刻にはまだ南海丸は長崎港に停泊中だったことになる。
 次に海援隊隊士菅野覚兵衛が証人として訊問された。
 菅野は土佐安芸郡芸西村和食(わじき)の庄屋千屋(ちや)家の三男で、寅之助といった。土佐勤皇党に所属していたが、後に勝海舟の弟子となり、神戸の海軍操練所で航海術を学ぶ。坂本龍馬の結成した亀山社中の中心的な存在で、第二次長州征伐の際には社中のユニオン号艦長として参戦している。
 訊問者は海援隊隊長才谷梅太郎である。
「菅野に訊くけんど、しっかり答えるがぜ。えいかよ」
「はい」
「事件当日、横笛に乗っちょったがは誰ぜ」
「私とここにいる中島作太郎、それに佐々木栄、田中浩蔵、小田児太郎の五名と水夫らぁです」
 菅野は色の浅黒い、痩せた若い男だ。堅い筋肉が体をぎゅっと搾(しぼ)っている。声は腹の底を冷やすように低い。
「前日から翌七日にかけて、おまんの知っちゅうことをみいんな話しとうせ」
「はい。六日の昼頃、佐々木栄が水夫らぁに命令したがです」
「佐々木はどう言うたがぜ」
「はい。今夜半に船を運転するき、夕暮れからは上陸したらいかんと。佐々木はその後で、私の止宿所に来たがです。私と小田児太郎、中島作太郎にも乗船して運転して貰いたいき、言うて」
「それで、おまんらぁは?」
「佐々木と二人で寄合町の花月楼で飲み食いしよりました。夜八時過ぎやっつろうか、別席に来た松本健吉と三沢揆一郎に呼ばれて合流したがです」
「花月におったがは何時までぜ」
「十二時です。召し使いが知らせに来たき、よおう覚えちょります」
「その時刻やったら表は開いちゃあせんろう」
「はい。それで私と佐々木は花月楼の裏口から出たがです。石灰町を通って、小田と中島に会いに西田屋太兵衛の所へ行きました。田中浩蔵もおったき、みんなぁで西田屋に来ちょった舟で大波戸から横笛丸に向こうたがです」
「横笛は何時に出航したがな」
「午前二時に出航し、昼頃帰港しました」
「解った。ご苦労」
 坐り掛けた菅野に、幕府目付設楽岩次郎が声を掛けた。
「聞きたいことがあるが、よろしかろうか」
 才谷が訝しげに眼をしかめ、設楽を見た。
「何ですろう」
「横笛丸はなぜ夜中に出航しなければならなかったのか、それをお尋ねしたい」
「菅野、答えちゃりや。船のことは何ちゃあ知らんろうき」
 笑みをこぼした才谷に促され、菅野は下ろし掛けた腰を伸ばした。
「風ながです」
「風?」
 設楽は、きょとんとした眼を菅野に向けた。
「夜は二時頃から風が港から港口の方へ吹くがです。昼は反対に港口から吹き込む。向かい風ですろう。出航するがに能が悪い。ほんじゃきに夜中に出航して訓練するがです」
「なるほど」と、設楽は得心し頷いた。
 今度はアーネストが質問に立ち、話を事件の中心に引き戻した。
「ミスター・菅野。あなたが事件を知ったのはいつですか?」
「七日に訓練から帰って来た時知ったがです」
 ひとえ瞼(まぶた)の眼が、挑むようにアーネストを射た。まるで抜き身の刀で突き刺すような眼だ。アーネストは、菅野の眼を見て話したくない気分を抑えるのに苦労した。
「殺人現場は寄合町です。すぐ近くでしょう。そこを通ったのではありませんか?」
「いんや。今も言うたけんど、花月楼を出る時は裏口を使うたき。寄合町は通らざった」
 アーネストは、その点については納得した。
 続いて、田中浩蔵と中島作太郎に事実確認のための訊問が行われた。二人の証言は菅野の供述を裏付けるもので、新しい事実や疑わしい点は出て来なかった。
 最後に、アーネストが立ち上がった。
「我々イギリス側は、土佐人を是非とも犯人にしたいわけではありません。土佐人に罪が無いということになれば、他に犯人を探索したく思います」
 訊問の結果に対しアーネストがそう答弁して、この日の訊問を締めくくった。
 ところが翌日、長崎奉行所から届けられた調書から、意外なことが判明した。結審してもよいと思っていたアーネストは、再び訊問を開かなければならない必要に迫られたのである。


--九月十八日(陰暦八月二十一日)
「渡辺、おんしゃあ行たがか!」
 佐佐木三四郎は、厳しい口調で問い質(ただ)した。
 渡辺剛八は毅然(きぜん)とした態度で答えた。
「行っておらんさけ!」
「間違いないがかえ、まっこと!」
「間違いないですっちゃ!」
 渡辺は佐々木栄と同じ越後出身で、機関士として海援隊に無くてはならない存在だった。奔走して留守がちな隊長の代わりに、その重責を菅野覚兵衛とともに担(にな)っている。その渡辺剛八が事件当夜、佐々木栄・菅野と一緒に花月楼へ行っていた、という調書が出て来たのである。調書はアーネストが長崎に来る前に奉行所が作成したもので、供述したのは佐々木栄だった。
 届けられた調書の中に菅野覚兵衛の答弁と異なる箇所を見つけたアーネストは夜にもかかわらず平山図書頭を訪れた。相違点を指摘された平山は、翌日佐佐木三四郎を奉行所に呼び出し、佐々木栄を長崎に呼び戻すよう要請した。佐佐木は「横笛丸は商用で薩摩に出向いている。よく吟味した上で明朝返答する」と言い置いて、この話を持ち帰ったのだ。
 佐佐木は、今度は菅野に顔を向けた。
「おまんも、こないだ言うた通りながか!」
「はい。一緒に行たがは佐々木栄とだけで、渡辺は行ちょらんですき」
「けんど栄の調書には、おまんと渡辺と三人で行ったと書いちゅう言いゆうぜよ」
「濡れ衣ちや、まっこと。ワシを疑うちゅうがかえ、あれらぁは」
 菅野は憤懣やるかたないといった風に、顔を真っ赤にして続けた。
「それぁ佐々木栄の思い違いですろう。あの時、栄は来合わせちょった誰かに挨拶しよりました。その男を渡辺と勘違いしたがや思います。酒も入っちょりましたき」
 二人の言い分に、佐佐木はひと安心した。だが、問題が片付いたわけではない。
「才谷、どいたらえい思う」
 才谷梅太郎は、二人の隊員の顔をじっと見詰めた。
「おまんら、今言うたことに間違いはないがかえ」
 二人は声を揃えて、「はい」と頷いた。
「嘘と間違いは誰にでもある。『嘘も方便』いうて、生き易(やす)くもする。けんど、おまんらぁは海で生きゆう人間じゃき。海には嘘も間違いも通用せん。もし嘘と間違いが海の上であったら、死ぬだけぜよ」
 菅野と渡辺の真剣な眼差しが才谷に返される。
 才谷は力強く頷いた。それから、おもむろに佐佐木三四郎に眼を転じた。
「佐佐木先生。ワシぁこの二人を、信じちょります」
「うむ」
「ワシら船乗りは、海の上で命懸けの仕事をしゆうがです。『板子一枚、下地獄』言いますろう。仲間を信じざったら、生きて陸(おか)は踏めませんき」
「ワシも二人が嘘を言いゆうとは思えん」
「ですろう。ほんじゃき、土佐藩も海援隊も胸張って連中に対処したらえいがです」
「どうするぜよ」
「問題になっちゅうがは、栄ですき。あれをすぐにでも呼び戻さないかん」
「幕府はワシとおまんが薩摩に行け、と」
 才谷は眉間に皺を作り、「何ちゃあじゃない」と言葉を吐いた。
「ワシらぁは動くわけにはいきませんろう。嫌疑が掛かっちゅうに、大将格が動いたらいかん。何ぞあったら責任取れんですき」
「幕府の長崎丸を回す言いゆうが」
「それぁ、なおさらです。ワシぁ幕府に睨まれちゅう。船の中で襲われたら立ち往生じゃ。逃げ場が無いですき」
「それもそうじゃのぉ。多忙につき、言うて断るか」
「それに、今は一日でも惜しいがです。象二郎が京に行ちょります。ワシもぐずぐずしちょられん。早うこの件を片付けて京に行かな」
 佐佐木は才谷の焦りをよく呑み込んでいた。大政奉還が成るか成らないか、それは土佐藩の命題でもあるのだ。
「よし。明日すっぐに申し出る。藩からは岡内を薩摩にやる。海援隊からも一人出しとうせ」
「石田英吉いう若い衆(し)がおります」
「どんな人間ぜ」
「まあだ青いけんど、しっかりしちゅう」
「おまんが推すがやったら間違いないろう」
「けんど」
「どいた。何ぞ問題でもあるがか」
「石田は衣服を持っちゃあせんがです。急なことですき、何ちゃあ用意も出来んろう。気の毒やき、構ざったら先生の召し物を使わせて貰ういうわけにはいきませんろうか」
 才谷はさすがに海援隊を率いるだけのことはある、と佐佐木は思った。菅野にしろ渡辺にしろ、一見近づくのが怖いような印象を人に与える。だが、才谷には子どものように従順だ。隊員のことを身内のように思い、気に掛ける。そんな才谷だからこそ、身を預けるのだろう。
 佐佐木は、この事件に巻き込まれた海援隊にひと肌もふた肌も脱ぐ気になった。
「大事な役目をして貰うがじゃ。藩から二十両出させるき」
 翌日、佐佐木は奉行所に届け出ると同時に、岡内俊太郎と石田英吉に出発の準備を急がせた。


--九月三十日(陰暦九月三日)
 午前九時、長崎丸で連れ戻された佐々木栄の訊問が運上所で行われた。
 佐々木栄は菅野覚兵衛と二人で花月楼に行ったのが事実であり、先の長崎奉行所への供述は思い違いであったと答弁した。長崎奉行も幕府目付も、佐々木栄の言い分をすんなり認めた。
 しかし、アーネストは納得出来なかった。
「あなた方は調書というものを、一体どう思っているのですか!」
 アーネストはいつになく興奮している自分を抑えかねた。事件の解明が進まない上に、供述の変転である。さらに、翻(ひるがえ)ったその供述を鵜呑みにした幕府と長崎奉行の対処の仕方がアーネストを苛立たせた。
 アーネストの苛立ちを加速させたことが、もう一つある。各藩に事件当日長崎にいた藩士たちの動向を探るよう求めていたのだが、寄せられた回答の結果が思わしくなかったのだ。九州三十藩、その他十八藩からの回答のうち、当日長崎に五名以上滞在者がいた藩は二十ほどある。だが、それから先の調べが暗礁に乗り上げていた。
 アーネストは運上所に集まった一同を睨み付けた。表情の読み取りにくい日本人の顔がいくつも並んでいる。領事フラワーズはこの件に関してはアーネストに一任しているといった風で、普段以上に物静かだ。アーネストは、何だか孤島に独り取り残された漂流民のような気分に襲われた。
「調書が信用ならないものなら、調書の意味がないでしょう。変わる度の供述に重きを置くなら、都合のいい供述が後から後から出て来ることになる。それがこの国の慣わしですか。冗談ではない。何をもって、我々は真実と向き合えばいいのか!」
 アーネストの言葉だけが、宙をさ迷っている。長崎奉行も目付たちも、横笛丸乗組員や海援隊隊士、さらには才谷梅太郎すらが、アーネストに無言と冷ややかな視線を送っている。みんな、うんざりしていたのだ。イギリスという強国の強引なやり方と、長引く調査の果ての見えない出口に。
「我が国では裁判は神聖なものである。神に誓った上で供述を行う。誓いに背けば偽証罪に問われ、さらなる罪を負う。言葉は真実であり、真実をもって裁決が下されるのです」
 一同の無反応な視線はアーネストから外され、別の何かに向けられている。アーネストは無力感と戦いながら、審議に決着をつけなければならないと己を鼓舞した。
「ミスター・佐々木は以前述べたことは誤りで、今回の供述が正しいとした。再度確認したい。あなたが花月楼へ一緒に行ったのは誰ですか」
 元越前藩士で横笛丸艦長を務めている佐々木栄は、ほとんど機械的に答えた。
「菅野覚兵衛」
「渡辺剛八は同行しなかったのですか」
「渡辺はおらん」
「では以前の調書に出て来た渡辺は、一体どこの誰なのですか」
「知らん。さっきも言うた。花月楼で出会うた誰かじゃろ」
「その出会った人物は海援隊の者ですか」
 佐々木は、不機嫌を通り越した顔をアーネストに向けた。
「違うっちゃ! それもさっき言うた!」
 佐々木の言葉は荒く、怒気さえ含んでいた。
 煮詰まった空気がその場にいる全ての人間に重くのしかかり、息苦しさが伝染病のように蔓延(まんえん)していた。
 突然、大きな笑い声が運上所に響いた。
「もう、えいろう」
 才谷だ。
「時間の無駄ちや」
 アーネストは、頭の中で血管が音を立てて切れたように思った。
「何ですか! 訊問中に!」
「おんなじことを何べん訊いたち、答えは変わらんき。無意味なことは止めんかえ」
「君に訊いているのではない! 黙りたまえ!」
 才谷の顔から笑みが消えた。
「ほうかよ。何ちゃあ解っとらん異人さんじゃのぉ」
 しかめた眼を向けていた才谷は、今度は恐ろしいほどの形相でアーネストを睨んだ。
「えい加減にしいや!」
 アーネストは胸にチクリとする痛みを覚えた。が、その痛みを自らかき消し、眼を佐々木に戻した。
「訊問を続けたい。ミスター・佐々木、その夜のあなたの服装は?」
「白の筒袖股引(ももひき)に黒羽織」
「ミスター・菅野もですか?」
「隊服じゃ。当たり前っちゃ」
「花月楼を出た時間は?」
 佐々木は溜息をついた。同じことを繰り返し訊かれ、同じことを繰り返し答える。才谷の言う通り、気分が悪くなるほど無意味な労力だ。しかし、答えないわけにはいかない。佐々木はつっけんどんに言葉を投げ出した。
「十二時、少し過ぎ」
「よろしい。訊問を終わります」
 アーネストは自分の脇がぐっしょり汗で濡れているのを、この時知った。
「長崎奉行のご意見は?」
 能勢大隅守はもう一人の奉行徳永石見守と眼を合わせた。
「これまでと同様でよろしかろう」
 徳永が言うと、頷いた能勢がアーネストに答える。
「横笛丸、南海丸のいずれの乗組員とも罪を負わせる理由が無い。よって、この二隻(せき)の船に関する限り、土佐の人間の嫌疑は晴れたものと考える」
 アーネストの予想した通りの答えが返って来た。
「ではイギリス側の結論を出すまで、しばらくお待ち願います」
 アーネストはフラワーズと向き合い、論点を明確にすることを念頭に話し合った。言葉を交わすうち、熱病のような興奮は次第に鎮まって来たようだった。
 立ち上がったアーネストは、パークスに与えられた任務の終わりが近いことを思いながら、普段の口調で言葉を滑り出させた。
「我々は、次のように考える。確実な証拠に基づくものではないが、状況証拠から依然として横笛丸艦長佐々木栄と海援隊隊士菅野覚兵衛の二名に強い嫌疑を掛けている。イギリスの刑事裁判なら充分有罪であろう。その理由となる根拠を述べる。

 一、殺人は、真夜中の午後十二時を過ぎた頃、白い服装の男たちによって行われたこと。
 二、佐々木と菅野二名はこの時刻、現場付近におり同様の白い服装を着用していたこと。
 三、この両名以外、同時刻同服装をしていた者は『丸山』に見当たらないこと。

 以上この三点をもって、佐々木栄及び菅野覚兵衛の逮捕を要求する。後日、文書を長崎奉行に送付するつもりである」
 これで散会となったが、アーネストの心にはやり切れなさばかりが残った。
 アーネストがフラワーズとともに引き揚げようとした時、砂利を踏むブーツの音が近づいて来た。
「ミスター・サトウ」
「何です、ミスター・才谷」
「これで終わりかえ?」
「多分。文書は奉行に出しますが、恐らく確証が無いからとの理由で逮捕は行われないでしょう」
「逮捕されんがは当たり前じゃ。あれらぁは、やっちゃあせんがやき」
「しかし………」
「やり過ぎぜよ、おまんらぁ」
 才谷は、例のしかめた眼でアーネストを見詰めた。
「明らかな証拠も無いに、風説だけでこればぁやるいうがは。けんど、もうえいろうがよ」
 才谷は空を仰ぎ、大きく両手を広げて思いっきり背伸びした。
「日本はイギリスと違うき。それぁ先進国から見たら遅れちゅうぜよ、日本は。けんどのぉ、日本には日本人がおる。日本人には日本人のやり方があるき」
「これまでのやり方を改めなければ、日本は世界に取り残されたままです。そのためには………」
「法律、じゃお」
 アーネストは頷いた。
「法律は大事じゃ。これを整えるががこれからの一番の仕事じゃち、ワシも思ちゅう」
「そうすべきです」
「けんどのぉ、法律よりもっと大切なものがあるがぜ」
「何です、それは」
「信じることぜよ。たとえ法に逆ろうちょっても、これぁ最後の最後まで持っちょらなぁいかん。法は変わるろう? 時代時代で、為政者次第で。人を信じるいうがは、時代が変わったち為政者が変わったち変わらんき。のぉ」
 アーネストには返す言葉が無かった。その通りだ、と思うからだ。
「ワシぁの、昔、人にこじゃんとヅカれたことがあった」
「ヅカれた?」
「いじめられるいうか、責められるいうか。ワシぁその人を裏切ったわけでもないし、憎うていじめたわけでもない。自分のしたことは自分でよう解っちゅう。けんど向こうは裏切られた、いじめられた思うたがやお。立場が違うと、受け取り方も違うきに。そん時、思うた。尖(とんが)ったらいかん。こっちが尖ったら、向こうも尖る。向こうが尖ったら、こっちも尖る。ほいたら喧嘩になるろうがよ」
 才谷は今度の談判のことを比ゆ的に言っているのだろうか、とアーネストは思った。解決を目差しながら、イギリスと幕府と土佐は互いにいがみ合う結果しか得られなかったのだ。
「人はおんなじようには生きられん。生きる道はみぃんな違うき。けんど信じる心があったら、どこかで繋がる。繋がっちょったら、まあるい輪が出来るろう。いつか、のぉ」
「まあるい輪、ですか………」
 アーネストは何となく解ったような気はしたが、確かな手応えを得たわけではなかった。
「あなたが『ヅカれた』という、その人は今何をしているのです?」
「何ちゃあ」
「何もしていない?」
「おらんなったき。この世には」
「死んだ、のですか?」
「ああ」
「では、その『まあるい輪』は出来なかったのではありませんか?」
「この世でも、あの世でも繋がるがぜ。『まあるい輪』は」
 誰との、どんな出来事を言っているのだろう。しかしそれは恐らく誰であり、どんな出来事であってもいいのかも知れない。いや才谷は個人の話をしながら、もっと大きなことを示唆(しさ)している。ひょっとしたら、これからのこの国の、そうして世界の在り方を言おうとしているのではないのか。
 アーネストは、大切なものを掌に載せられたような気がした。あの時の「狸の油」のように。
「ワシぁ急いでやらないかんことがあるき。もう手をわずらわしなや」
 そう言うと、才谷はさっさとアーネストの前から遠ざかって行った。
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