イカルスの憂鬱

戸浦 隆

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三、下関

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--九月十日(陰暦八月十三日)
 午前零時半、土佐藩船「夕顔」は須崎港を出航した。
 長さ三十六間(けん・約六十五メートル)、幅四間三尺(約八メートル)、百五十馬力、百四十トンの夕顔丸は蒸気船としては小さい部類に入る。九月六日にパークスが軍艦バジリスク号で横浜に向かってから後、アーネストは従者野口とともに、この夕顔丸に移っていた。
 狭く不衛生な船室の中で、アーネストは苦痛に悩まされていた。数日来続く瘭疽の痛みだけではない。痛みによる睡眠不足、ひどい暑さ、粗末な食事、それに無愛想な乗組員たち。彼らにしてみれば、嫌疑を掛けた側の人間の世話をしなければならないのだ。無愛想にもなるだろう。不愉快をまき散らすヒグマが立ち去った代わりにやって来たのが、これら苦痛の種たちだった。アーネストは日記を書く気にもなれず、不機嫌に室内を歩き回っていた。
 夕顔丸は足摺岬を回り、豊後(ぶんご)水道を北上している。外の海風に当たれば少しは気も紛れるかと、アーネストは甲板に出た。
 午後を少し回った日差しはきつい。だが船室の蒸し風呂のような暑さに比べれば、風があるだけまだましだ。アーネストはわずかな涼を求めて日陰を探した。三本のマストは帆を張ってあるが、近辺に乗組員がいて落ち着かない。船首と船尾の大砲の側にはわずかでも陰があるだろうと、乗組員の作業の邪魔にならず人目に付きにくい船尾へ足を向けた。航跡が泡立ちを残し、後方へ白い道を描いている。
 大砲の脇に小さな陰を見つけた。腰を下ろす。両膝の上に両肘をつき、右手で頬を支える。もう片方の手の瘭疽の指を日差しにかざした。太陽の光と熱で化膿した部分を焼き切りたい気分だ。自分の体のほんの小さな一部分にしか過ぎない指が、自己主張して己の存在を最大限に訴えている。つむじを曲げたパークス以上に厄介だった。
 しばらくそうしていたが、前より痛みが増しヒリヒリして来た。
「いまいましいヤツめ」
 そう毒づきながら胸元に戻そうとした手の上に、影が差した。
「どいたぜよ」
 男が立っている。いつの間に近寄って来たのだろう。痛みに気を取られて気付かなかった。
 アーネストは眼を上げた。
 涼しげな眼がアーネストを覗き込んでいる。
 アーネストは引き戻そうとした指を、その眼の前に掲げた。
「これですよ」
 屈(かが)み込み、男は眼を細めた。近眼なのだろう。
「あはあ。難儀じゃろう、これぁ」
「ええ。お陰で気分は最悪です」
「ちくと待ちより」
 男は立ち上がると、カツカツと甲板に高く足音を響かせながら立ち去った。細身だが、日本人としては背が高い。きちんと髷を結っておらず、伸びた髪を無造作に後ろに束ねているだけだ。着ているものは上物だが、ずいぶんくたびれて見える。それに履物(はきもの)が草履(ぞうり)でも草鞋(わらじ)でもない。革の長靴(ブーツ)を履いている。変なヤツだ。男の後ろ姿を見ながら、アーネストはそう思った。
 やがて男が戻って来て、握り拳をアーネストの前に突き出した。
「ほい」
 アーネストの眼の前で、ぱっと男の拳が開く。黒っぽい小さな陶器が乗っている。
「何です? これは」
 男はニヤニヤ笑いながら、蓋(ふた)にしていた油紙の紐(ひも)を解く。中には薄茶色の軟膏のようなものが入っていた。
「万能薬よや。塗ってみ。ほれ」
 手渡された陶器の中に、アーネストは恐る恐る右手の人差し指を入れる。薬をすくい患部に塗った。ぬめりが指の皮膚を覆(おお)い、多少楽になったような気がする。
「塗ってもえい、飲んでもえい。擦り傷、切り傷、火傷(やけど)に虫刺され、腹痛、熱冷まし、何じゃちよおう効く。ほら、貸いてみいや、おまんの手」
 アーネストが差し出した手の患部に、男は新しい油紙を置きサラシの端布(はぎれ)を当てた。その上をさらに長めのサラシで器用に巻く。
「うん。これでえい」
 アーネストは礼を言って陶器を返そうとした。が、男は「持っちょり」と器をアーネストの手に委(ゆだ)ねたままにさせた。
「残りは少ないけんど、使いや。ワシぁ今のところ間に合うちゅうき」
「そうですか。では、遠慮なく使わせて貰います」
「ワシも怪我をしたことがあっての。ソレで治したがじゃ」
「この薬の原料は何なのですか?」
「何じゃ思う?」
「想像がつきません」
「ヨーロッパの近代医学でも作っちゃあせん優れもんぜよ」
 男は悪戯(いたずら)っ子のようにクスッと笑った。
「昔から伝わる秘薬みたいなものですか?」
「『狸の油』いう、ねぁ」
「タヌキの!」
 男は驚くアーネストの顔を見て、今度は高らかに声を上げて笑った。
「狸でも親はいかん。豆狸の方が上等ながぜ」
 アーネストは、そんな民間療法のような薬に本当に効き目があるのかどうか疑わしく思った。
 訝(いぶか)しげな様子のアーネストを、男はクスクス笑いながら見ている。
「ま、騙(だま)された思うて塗ってみとうせ。四、五日もしたら治るろう」
 男は立ち上がった。
 アーネストも腰を上げる。
 二人は右舷に行き、風に吹かれた。土佐の西端の入り組んで切り立った海岸線が、ゆっくりと眼の前を流れてゆく。
「土佐藩の方ですか?」
 アーネストが訊いた。
「藩士に見えるかえ?」
 男の姿をもう一度頭の先から足の先まで見たアーネストは、首を横に振った。
「ワシぁ、脱藩したがぜよ。今は許して貰ちゅうけんど」
「脱藩? エスケープですか」
「エスケープ?」
 男はまた高く笑い声を上げた。
「違うちや。土佐はしょうこんまい。ほんじゃき、もっと広いところへ行たがよ」
「国を捨てたのですか」
「国は捨てちゃあせん。土佐は日本いう国の、こんまい村の一つに過ぎんき。ワシぁ村を出て、日本国のために働きゆう」
「どんな仕事をしているのですか?」
「今の日本国は、どもならん。一度きれいにして、新しゅう作り直さなぁいかんがよ」
「新しい日本を………」
 この男も薩摩や長州の人間と同様、幕府を倒そうと動いているのか。しかし後ろ盾の無い脱藩浪人に、一体何が出来るというのだろう。ただの「ほら吹き」ではないのか。それにしては肝が据わっているようにも見える。懐にポンと入って来たかと思えば煙(けむ)に巻く、しかもあながち噓を言っている風でもない。アーネストは、何やら掴みどころのない不思議な魅力をこの男に感じていた。
「今の幕府は形だけで、中身は無いろうがよ。国を動かすがは、国民やき。幕府も藩もいらん。国民の代表が国を動かいたらえい」
 アーネストは、西郷吉之助が口にしたことを思い出した。国民会議を設立するという話だ。それは土佐で山内容堂や後藤象二郎からも聞いた言葉だった。
 男は細めた眼を遠くへ向け、海の風に声を乗せた。
「上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事………」
「それは?」
「ワシが以前、船の中で考えたことぜよ」
 奇(く)しくも西郷や容堂、後藤と同じことを口にしたこの男に、アーネストは眼を見張る思いで問わざるを得なかった。
「あなたは………」
 問い掛けた言葉を、男は遮(さえぎ)った。
「ワシぁの、こじゃんと腹を立てちゅう。おまんらぁに」
「え?」
「ワシらぁの眼の前には大事がぶら下がっちゅう。時間が無いがぜ、まっこと。けんど、おまんらぁがごにょごにょ言い出しつうろうがよ。しょう堪(こと)うたちや。けんど、人が死んぢゅう。それを放って知らん顔するわけにはいかんき」
 もどかしさが男の言葉に滲み出ている。
 男はアーネストの方へ上半身をひねり、じっとアーネストの眼を覗き込んだ。
「ごり押しはいかん。早う収まるよう努力してくれんかえ。それを言いとうて、おまんに声を掛けたがよ」
「あなたは………」
「ワシぁ、海援隊いう『ばぶれもん』を率いちゅう」
 アーネストはイカルス号事件の容疑者の上司だという男に、なぜだか慌ててぺこりと頭を下げた。
「知らないこととはいえ、失礼しました」
「挨拶はえい。ワシぁこの船にずっと乗っちょったき、おまんのことはよおう知っちゅう。パークスの通辞をしゆうがやお。長崎ではパークスの代わりをするらしいが」
 アーネストがバジリスク号から夕顔丸に移って数日を経ている。その間、この男には一度も会わなかった。だが、この男はアーネストに関する情報をしっかり掴んでいたのだ。油断のならない人物だ、とアーネストの胸に少し警戒心が起こった。
「おまんに頼んじょく」
「何を、ですか?」
 アーネストは身構えた。
「パークス流はやめとうせ。恫喝して事を無理矢理収めたち表面だけやき。何ちゃあじゃない。しこりは残さんがえい。そうせな、後になって………」
 男は両手を腹の前から上へ向け、ぱあっと開いた。
「どおん!」
 アーネストは、男の言わんとすることは理解出来た。
「パー、ぜよ。巻き込まれたワシらぁも、おまんらイギリスも。すっきりするがは早い方がえいろう?」
「それは私も望んでいることです。出来るだけ早い決着を心掛けるつもりです」
「そうしとうせ」
 男は手を挙げて立ち去ろうとした。そうして、何かを思い出したように振り返り、アーネストに細めた眼を向けた。
「ワシぁこの船に匿(かくも)うて貰いゆう」
「はあ」
「快う思わん連中がおってのぉ、命を狙われゆうがじゃ。ワシのことは誰っちゃあに言わんづつおっとうせ」
「土佐藩が守ってくれるのではないのですか?」
「脱藩は許して貰うたけんど、藩士じゃないきに。自分の身ぃは自分で守らなぁいかんがよ」
「解りました。口外はしません」
「頼むぜよ」
 男はカツカツと靴音を立て、歩き去ろうとする。
 アーネストは、その背に声を掛けた。
「あなたの名前は?」
「才谷梅太郎、いう」
「薬をいただき感謝します、ミスター・才谷」
 才谷と名乗った男は、うんうんと頷いた。
「買収じゃないぜよ」
「え?」
「その薬。裁判を有利にするために、おまんにやったがやないき。気にせんづつ使いや」
 にこっと笑みを向けた男に、アーネストはもう一度頭を下げた。


--九月十一日(陰暦八月十四日)
 豊後(現大分県)の国東(くにさき)半島のすぐ側に浮かぶ姫島の北方で夜明けを待った夕顔丸は五ツ時(午前八時)頃、長門(ながと・現山口県)の下関に投錨(とうびょう)した。
 アーネストは野口に手伝って貰い、上陸の準備を済ませた。
 下船しようとした眼の先に、才谷梅太郎が佐佐木三四郎たち土佐藩士と連れ立って歩いてゆく。その他の乗組員も、それぞれ組を作って船を下りた。アーネストと野口が陸に上がった最後の組だった。
 山陽道の起点終点であり九州渡航の要地でもある下関は北前船航路の基地として「西の浪華(なにわ)」と呼ばれるほど栄えた。町は対岸の門司と同様、小高い山と海峡に挟まれ細長く横に広がっている。山の中腹にまで家々が軒を連ねているから、坂の多い町でもある。
 潮の流れが速く狭い海峡は、船にとっては難所の一つだ。事故も多いし、戦の舞台にもなった。最近では三年前に馬関(下関)戦争があった。イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四ヶ国連合艦隊と長州藩との砲撃戦だ。そうして、一年前には第二次長州征伐にも巻き込まれた。
 そうした逼迫(ひっぱく)した状況に追い込まれながらも、町の人々の表情は明るい。お天道様がある限り、人は生きていかなければならないのだ。元気で明るくなければ生きてはいけない。窮地に追い込まれた長州が薩長同盟で息を吹き返し、第二次長州征伐の事実上の勝利で未来に道を開いたことが、人々に明るさを取り戻させているのかも知れない。
 アーネストは、町の人々の温和な顔を見るのが好きだった。どの国でも、どの町でも、活気に溢れた暮らしをしている人々がいる。そういう人々に触れることで、自分も元気になるような気がする。
「下関はなかなか賑(にぎ)おうとる町でしょうが」
 昼食に出た魚や煮物などのご馳走は、久し振りにアーネストの胃を満足させてくれた。だが久し振りの井上聞多(もんた)は妙によそよそしく、アーネストを満足させるにはほど遠かった。
「ここの料理屋は河豚(ふぐ)が旨いですけん。けんど残念なことに今は夏場じゃけ、冬まで待たんといけん」
「河豚か。それは一度味わいたいものです」
「毒がありますけ。当たったら大ごとじゃけんどな」
「なるほど。旨いもの綺麗なものには毒がある、ですか」
「この店の隣にあるんが赤間神宮いう神社でな」
「はあ」
「昔、そう七百年ほど前に『壇ノ浦の戦い』いうんがあって、安徳天皇いう幼い帝が海に沈んで亡(な)いなった。その御霊(みたま)を祀っとるんですわ」
 アーネストは、そんな話を聞きに来たのではないという思いが強かった。しかし、口には出さなかった。
「このずうっと東の新町いう色街から、上臈(じょうろう)たちがうち揃うて赤間神宮にお参りをする祭りがあるんじゃが、そらもう豪華な行列じゃけ。町中の人間いう人間がみぃんな押し寄せて見物するんじゃ、その『花魁(おいらん)道中』を」
「それは面白そうですね」
 アーネストは、ちっとも面白くなさそうに言った。
「はい。食うなら『河豚』、見るなら『花魁道中』。下関の名物じゃけ」
 アーネストは箸を置いた。
「ミスター・井上」
 井上はアーネストと眼を合わさず、上品に煮た「烏賊(いか)と里芋」に箸を伸ばしている。
「私は大坂で西郷吉之助に会いました。ここに来る前には土佐で山内容堂、後藤象二郎にも会っています。そうして、事態が急速に動いているという感触を得ているのです」
 アーネストの言葉を、井上は里芋を頬張りながら聞いている。
「ところが、どうです。長州の玄関口といわれる下関に来てみれば、何とものんびりしている。あなたは長州藩の真ん中にいる人間だ。長州が今何をすべきか。それは充分知っている筈です」
「真ん中にはおるけんど、上に立っとるわけじゃないですけ」
 先ほどの下関の町のことを話す時とはうって変わり、井上は急に声のトーン(調子)が落ちて言葉少なになった。歯切れが悪いのは、芋を口に頬張っているからだけではなさそうだ。
「権限は無くとも、行く先は見えているでしょう」
「どんなもんか」
「薩摩も土佐も先を見て動いています。討幕派の急先鋒の長州がこんなことでいいのですか。諸藩が一致団結して戦わなければ幕府は倒れない。幕府にはフランスが付いています。我々イギリスはあなた方のために貸す力を惜しみはしない。いくらでも援助するつもりです。第二次長州征伐幕府軍を蹴散らした長州が今こそ先頭に立たなければ、倒幕も、その後の新しい日本も成立しない。ミスター・井上、そうは思いませんか」
「長州は長州ですけ」
 井上は、頬を膨らませている里芋をもぐもぐと噛んだ。
 以前はアーネストと時事について熱く語った井上が、口に何かを入れておかなければならないかのように、さらに芋を口に放り込んだ。アーネストは、生返事を繰り返す井上に妙な違和感を覚えた。
 井上聞多は最初、過激な攘夷論者だった。高杉晋作や久坂玄瑞(くさか・げんずい)らとともに横浜のイギリス公使館焼き討ちに参加した。しかし強大な西洋の力に眼を見張り、伊藤俊輔(後の博文)らとイギリスに渡る。留学中に起こったのが馬関戦争だった。急ぎ帰国した井上は伊藤とともに和平交渉に奔走した。今まさに幕府が傾き掛けているこの時期に、長州を引っ張っている一員である井上が明確な意思を持たない筈はないのだ。
「ミスター・桂は、今どうしています?」
「木戸さんな? ここにはおらんですけ」
「どちらに?」
「長崎です。伊藤と」
「長崎ですか。それは好都合だ」
「向こうで会うんですか?」
「是非、そうしたい」
 井上は、ちょっと考える風だった。が、何も言い出さず、また一つ里芋を口に放り込んだ。
 アーネストは腑に落ちない気持ちを消化出来ないでいた。しかし、これ以上話しても何も出て来ないだろうと、井上との再会を切り上げることにした。


 その頃、佐佐木三四郎ら土佐藩士たちは才谷梅太郎の案内で稲荷町の大坂屋で休憩した後、才谷の妻の住む家に移っていた。
「お鞆(とも)、土佐藩の大監察佐佐木先生をお連れしたき」
 才谷が声を掛けると、奥から細面(ほそおもて)の、ちょっと小粋(こいき)な妻女が出て来て笑顔で迎えた。
「よおうお越しやす」
「邪魔をさせて貰うきに」
 佐佐木を先頭に、一行は座敷に案内された。
「お勤めご苦労はんどすなぁ」
 そう挨拶を済ますと、お鞆は茶を淹(い)れにつと立った。色香を後に残すような女だった。
「どいた、岡内」
 佐佐木が、ゴツンと岡内俊太郎の肩口を拳で突いた。
「あ。いや」
「噂通りの美人やき、呆(ほう)けちょったろう」
 岡内は間が悪そうに、頭を搔(か)いた。
「無理もないちや。才谷、あんな別嬪(べっぴん)よおう見つけたのぉ」
 佐佐木は真顔で、感心したような顔を才谷に向けた。
「そうですろうか。まあ、面白いおなごには違いないですき」
「いやいや、滅多におらんぜよ」
 しばらく雑談するうち、お鞆が人数分の茶を運んで来た。
「ワシぁちくと書かないかんもんがありますき」
 才谷は佐佐木に断り、座を後にした。
「ご妻女、この度は心配掛けるのぉ」
 佐佐木の言葉に、お鞆は首を横に振る。
「心配はしてまへんのどす」
「しちょらん?」
「へえ。内の人は知り合うた時から危ない橋を渡ってはります。心配も日常茶飯事ですよって。慣れたんどすやろ」
 肝が据わっているのか、心配しても無駄だと諦めているのか、佐佐木には判断の仕様がなかった。取りあえず身内である妻女には事の顛末(てんまつ)は知らせるべきだと思い、経緯(いきさつ)を手短に語った。
 聞き終わると、お鞆は自分の飲んだ湯呑みを手で弄(もてあそ)びながら佐佐木に言った。
「気の毒おすなぁ」
「殺された水夫たちは悪いことをしよったわけやない。ただ飲んで酔うちょっただけやきのぉ」
「違うのどす」
「水夫たちやない? ほいたら、嫌疑を掛けられたワシらぁがかえ?」
「そうやおへん」
「じゃあ、誰ぜよ」
「殺しなはったお方はんどす」
「下手人が気の毒?」
「へえ。殺されはったお方はんらは、飲んで酔うて正体があらしまへん。天にもいてる気持ちでよう寝てはって、自分が死んだいうことも知らんかったんどすやろ。天からそのままホンマの天に昇りなはった」
「それはそうじゃの」
「殺しなはったお方はんも酔うて楽しかったんや思います。でも路(みち)でだらしのう寝てる異人はんらを見て、かぁっと頭に血ぃが昇んなはった。気ぃ付いたら、とんでもないことになってますやろ。天からいっぺんに地べたに落っこちた気分にならはって、真っ赤な顔が真っ青になったん違います?」
「地獄を見た、いうことかよ」
「そのお方はん………」
「下手人かえ?」
 お鞆は遠くを見るような眼で、手の中の湯呑みを見詰めた。
「もうこの世には、いてはらしまへんえ」
 驚いた。佐佐木にそんな発想は無かった。嫌疑を掛けられたことに腹を立て、今後の処置に頭を回すばかりだった。ところがこの妻女は、犯人が気の毒だと言う。善とか悪とかではない。どうしようもない人間の業(ごう)を笑って受け止めているような気がする。確かに面白いおなごだった。
 才谷はお鞆に佐佐木たちの相手をさせている間に、長州藩士三吉慎蔵へ次のような手紙を認(したた)めた。
「一昨夜土佐を出帆し、今日馬関に来た。さて、京の時勢のことは聞き及びのことと思うが、一通り申し上げておく。
 幕府と一戦交えることを決心した薩摩の西郷吉之助らは、土佐の後藤象二郎の今一度の上京を待っているところだ。先頃、自分と後藤象二郎が上京して西郷・小松(帯刀)と約束ごとをしたからだ。後藤象二郎は今月十七日に京に出、自分はこれより長崎に向かい蒸気船を求めるつもりでいる。もし幕府と戦うことになれば、御本藩長州と本藩長府、薩摩、土佐の軍艦を集め一組とし、海上での戦いに持ち込まなければとても幕府に太刀打ち出来ない。打ち合わせたいこともある。何にしても長崎からの帰りになることと思う」
 すでに薩摩の西郷吉之助らは武力倒幕を決意している。一方、才谷と後藤は大政奉還をさせようと図っていた。しかし万一それが出来ない場合は、薩長土の連合軍で幕府と戦うつもりでいたのだ。大政奉還か、武力倒幕か。今まさに、ぎりぎりの駆け引きが行われていたのである。
 事態が差し迫っているこの時期に降って湧いたのが、「イカルス号事件」だった。
 討幕派は次第に苛立ち、一刻も早く前に進もうと焦りを募らせている。だがアーネストは自分が討幕派の人間たちに煙たがられていることを、この時まだ知らずにいた。
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