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十九、修善寺
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JR三島駅から伊豆箱根鉄道に乗り換えた。街中を走るローカル線は三島広小路・三島田町を過ぎると、人家のまばらなのんびりとした風景を窓外に見せる。三島二日町・大場(だいば)と小刻みに各駅に止まり、伊豆仁田を出た。
「この辺りから頼朝や北条時政所縁(ゆかり)の土地になる」
亮二が、四人掛けのシートの前に坐る瑞希の後ろへ後ろへと流れてゆく景色を見送りながら言った。
「そう。鎌倉と比べると、ずいぶん鄙(ひな)びてる感じね」
瑞希は、亮二の右肩の方から次々に現れる景色を眼に受けながら答えた。
「さっきの駅、仁田っていう」
「うん」
「仁田忠常の出たところ。墓も残ってる」
「どんな人なの?」
「頼朝が富士で巻狩りをやったことがある。その巻狩りで頼家が初めて鹿を射止めた七日後、曽我兄弟の仇討ちがあったんだ。工藤祐経(すけつね)を討ち果たし本懐は遂げたんだけど、兄の十郎は斬り殺され弟は捕らえられた」
「工藤祐経って、静御前が鶴岡八幡宮の頼朝の前で舞を舞った時に………」
「よく覚えてたね。そうだよ。畠山重忠が銅拍子、鼓を打ったのが工藤祐経」
「で、仁田忠常は?」
「曽我兄弟の兄を討ち取った相手。それから………」
唇から少し出した舌に当てた中指を、亮二は眉にこすり付けた。
「『吾妻鏡』に拠(よ)るとね」
「はいはい。話十分の一で聞くわ」
「将軍頼家が病に倒れる前、狩りに出掛けた。阿野全成を常陸国に配流して安心したんだろうな。その狩場の伊豆の伊東と駿河の富士野で洞窟を発見した。伊東の洞窟は和田義盛の甥の和田胤長(たねなが)に、富士の方は仁田忠常に命じて探険させてる。胤長は数十里の行程を八時間で行き帰りした。八時間は早過ぎるよ。暗い洞窟の中を、しかも途中で大蛇に出くわし斬り殺したりしてるんだから」
「ふうん。で、忠常の方は?」
「大河に行く手を阻(はば)まれて、『対岸の奇特』を見た郎党四人が死んだ。驚いた忠常は頼家から授かった宝刀を河に投げ入れ、命からがら逃げ帰った」
「何、その『対岸の奇特』って」
「解らない。古老が『その人穴(じんけつ)は浅間大菩薩の御在所で、これを見た者は昔から一人もいない』と言った、と書いてある」
「浅間大菩薩の祟(たた)り?」
「って、言いたいんだろな。胤長は後に実朝の側近になるんだけど、和田の乱の引き金役にされて北条義時に討たれた。忠常は出身が伊豆だったから、北条方に近い。比企の乱では比企能員を殺してる。で、病状が回復した頼家に北条時政を討てと命じられるんだけど、奇妙なことに将軍御所に居た北条政子を兄弟で襲撃して討ち取られたことになってる。昏睡状態で危篤とさえ思える頼家が時政を討つように命じたのも、忠常が頼家の母である政子を襲ったというのもおかしい」
「北条が絡むとわけが解らなくなることが多いね。そうだ、蛇は確か北条の家紋だったわよね」
「鱗(うろこ)だよ、大蛇の」
「そうそう『三つウロコ』。胤長が大蛇を斬ったということは、北条に歯向かったということでしょ。大蛇にしても浅間大菩薩にしても、『祟り』イコール『北条に討たれて当然』という図式なんじゃないの」
「なかなかいいところを突くなあ」
「だって、『吾妻鏡』は北条氏を正当化するためのものなんでしょ」
「まあね」
「洞窟の話といい討たれた二人の話といい、ほんとにコレだわ」
瑞希が亮二を真似て、舌の先につけた指で形のいい三日月眉毛を撫でた。
「そうなんだよな。『吾妻鏡』は虚と実が織り交ぜられているから、なかなか手強い………」
そう言いながら、亮二はふと何かを思いついたように黙った。
電車が原木(ばらき)を過ぎ、次の韮山(にらやま)に差し掛かる。
車内のアナウンスを聞いて、亮二は閉ざしていた口を開いた。
「韮山か。蛭(ひる)ヶ小島だ」
「頼朝が最初に流されて来たとこね」
「へええ。知ってたんだ」
「ちょっとは見直した?」
「『豆タンク』から仕入れた情報なんだろ」
「えへへ」
亮二は瑞希の鼻の頭を人差し指でチョンと突いた。
「まだまだ入口、奥は深い。これからだよ」
「頼朝といえば、ほら、鼻のムズムズどうなったの?」
雪ノ下の頼朝の墓で亮二はくしゃみをした。あれから数日経っている。瑞希は亮二が何か掴んだのではないかと気になっていたのだ。
「調べてみたよ。頼朝の流人時代に近侍していたのは安達盛長、河越重頼、伊東祐清。三人とも比企ノ尼の娘婿だ」
「丹後ノ局は?」
「安達盛長の妻。長女だったから頼家出産の時にはいろいろ手伝いをしてる。他の娘は頼家の乳母だ」
亮二はショルダー・バッグから手帳を取り出した。使い古された手帳はページの角が縒(よ)れたり擦り切れたりしている。
亮二は手帳の後ろの方を開き、「ここ」と指差し瑞希に手帳を渡した。
受け取った瑞希は、新しいの買ってあげなきゃと思いながら開かれたページに眼を落とした。
比企ノ尼の系図が書かれてある。
比企尼
│ 安達盛長
│ ├景盛
│ ├時長
│ ├源範頼の妻
│ ┌ 丹後局
│ │ 河越重頼
│ │ ├源義経の妻
├─├ 頼家の乳母
│ │ 伊東祐清
│ │ │
│ └ 頼家の乳母
比企遠宗
「安達姓はおそらく足立郡から取った名前だ。足立郡も河越郡も比企と同じ武蔵国にある。比企ノ尼は地元の武士を娘婿にしたと考えた方が自然だ」
「伊東は?」
「頼朝が何歳の時か解らないけど、蛭ヶ小島から伊東祐親の所領に移された。だから、祐親の息子を娘婿にして近侍させたんだろう」
「伊東祐清の妹八重姫といい仲になって子供が出来るのよね」
「うん。千鶴丸だね」
「殺されちゃうんでしょ、祐親に」
「自分も殺されそうになった頼朝は蛭ヶ小島のすぐ南、寺家の北条館に逃げ込む」
「そこで政子と出会うわけね」
「話がスムーズに進むね。さすがは『豆タンク』。教えがいい」
「ねえ、亮ちゃん。その『豆タンク』って呼ぶの、止めたげない? 陶子さん、嬉しくないと思う」
「えらく肩を持つんだね」
「陶子さん、亮ちゃんのことすごく心配してた。可愛い後輩という以上の感情を持ってるみたい。キムチ鍋の夜、陶子さんちで泊まったでしょ。その時、いろんな話して感じたの。何となくだけど」
「ふうん」
「だから、ね」
「結構きつい先輩なんだけど、僕には」
「気に入ってるからシゴくのよ」
「瑞希がそう言うんだったら間違いないかもな。解った。『豆タンク』はもうよすよ」
「案外素直じゃない、亮ちゃん」
「案外って。相当ひねくれモンみたいに聞こえるけど」
「マシになったわよ、私と付き合って」
「そりゃお陰さまで、毎度………」
「どうも」
二人はくすっと笑った。
電車は韮山を出て、次の伊豆長岡へ向かっている。左の小高い山には北条時政が奥州征伐を目指す頼朝のために建立した願成就院があり、時政の墓や近くには頼朝との仲を割かれた八重姫の碑があると亮二は言った。
「話を戻すけど、頼朝の女性関係は八重姫だけじゃない」
「大進局って女の人もいたわよね」
「まだいるんだ。頼朝は挙兵する前に『亀ノ前』という女性と関係があったのは知ってる?」
「それは聞いてない」
「挙兵して頼家が生まれる間に、亀ノ前を密かに家臣の館に召し出して縒りを戻してたんだ」
「妻が懐妊中は、よくある話ね」
「頼家が生まれて大蔵御所に帰っていた政子に、牧ノ方が耳打ちして大騒動になった」
「当たり前でしょ」
「大進局は亀ノ前の次の女性。でもね、もう一人いる」
「まだ他にも手を出してるの、頼朝は。呆れた」
「亀ノ前事件が発覚する前。政子が産所の比企ガ谷にいる時に」
「ちょっと待って。八重姫、次が亀ノ前、政子と結婚、また亀ノ前、大進局でしょ、順番は」
「そうだよ」
「え? じゃあ何。縒りを戻した亀ノ前と付き合っている時じゃない。ダブル浮気?」
瑞希の声の調子が一オクターブ上がった。
「頼朝の長兄義平の未亡人にラブレターを送ってるんだ」
「呆れたを通り越して、開いた口が塞がらないわ」
「頼朝は京育ちだから貴族の風習に馴染んでる。正室以外に側室がいるのは当たり前的な考えを持ってたんだよ」
「それにしても、よ。いくら死んだといっても兄貴の嫁でしょ」
「新田義重という人の娘で、政子に知られると困ると思った父親はすぐに別の男と再婚させてる」
「たまんないわね、こんな女好きの嫁になったら。亮ちゃん大丈夫よね、私オンリーでやってける?」
「こっちに振るなよ。今は頼朝の話なんだから」
「じゃ、その話は後で。食べる?」
瑞希はバッグからチョコレートを取り出した。頼朝のパワーには驚かされる。英雄色を好むとは言うが、さすがに参ったという感じで、瑞希はひと息入れたくなったのだ。疲れた時や気分転換したい時は甘いものに限る。亮二も甘いものは嫌いではない。一つ摘まんで口に放り込んだ。
伊豆長岡を出ると、狩野川沿いに電車は走る。東西の山稜が挟む平野を、伊豆箱根鉄道は山の懐へ入ってゆく。
「引っ掛かっているのは丹後ノ局でしょ。安達盛長の妻の」
しばらくして、瑞希は話を本題に戻した。
「そうなんだ。鎌倉幕府が成立すると、丹後ノ局は幕府の女官になってる。丹後内侍と呼ばれるのはもう少し後なんだけど。頼朝はよく安達館を訪れてるんだ。その系図の次のページに訪れた日を列挙してある」
瑞希は手帳をめくった。
寿永元年
正月三日 佐々木高綱・足利冠者・北条殿・畠山重忠・三浦義澄・和田義盛以下供奉
文治二年
六月十日 丹後内侍甘縄家、朝光・胤頼
建久五年
正月八日
十二月一日 盛長奉行の上野国寺社全て管領の事
建久六年
正月四日 三浦義澄以下供奉
十二月二十二日 安達館泊
「側近の館を訪れたにしては数が多い。『吾妻鏡』には全ての日のことが書いてあるわけじゃないから、ひょっとしたら毎年訪れたのかも知れない」
「正月と十二月に決まって安達館に顔を出してるのね」
「年の始まりと終わりの月にね。まるで安達館に行くのが儀式みたいだろ」
「なんか意味深。それに、六月の丹後内侍。これが『鼻ムズのお宝』なんでしょう? 何しに行ったんだろ」
「病気見舞いだよ、丹後内侍の」
「家臣の奥さんを見舞いに?」
「しかもお忍びだ。供は結城朝光と東胤頼だけ。おまけに雷雨をついて」
「すっご! 家臣の奥さんの病気がそんなに心配だったの!」
「頼朝は病悩治癒の祈祷をした。どんな祈祷をしたのか解らないけど、四日後にその効き目で丹後内侍の病気は治ったとある。頼朝は丹後内侍のことが相当気懸かりだったと見ていい」
「ということは………」
「安達盛長の息子と言うより、丹後内侍の息子安達景盛は………」
「頼朝の御落胤!」
瑞希は驚いた。亮二の鼻のムズムズがこんな結論を引っ張り出すとは思ってもいなかった。
亮二は、別段得意がるふうもなく頷いた。
「その可能性は高い。頼家は安達景盛を討とうとしたことがあるんだ。政子が未然に防いだんだけど、修善寺に幽閉された後も、頼家は景盛を誅殺するよう政子に手紙を送ってる。もし景盛が頼朝の子だったら、自分の兄だ。正統な源氏の二代目が自分であることをどうしても貫きたかったんじゃないかな」
「でも、景盛が頼朝の子であるという証拠は無いんでしょ」
「景盛の孫に泰盛という人物がいてね。この人は幕府の中で相当の実力者だったんだけど政変に敗れて死ぬんだ。『霜月騒動』っていう」
「それで?」
「きっかけは、泰盛の嫡男が『曽祖父景盛入道は右大将頼朝の子だから』と言って源氏姓を名乗ったこと。泰盛は源氏の直系が代々受け継いでいる名刀を尋ね当てて手に入れてる」
「その名刀はどうなったの?」
「霜月騒動の後、執権北条貞時が探し出して装束を施し、頼朝の建てた法華堂に寄進安置したらしい。泰盛がその刀を手にしたというのはね、自分が清和源氏の直系だと信じてたからだよ」
「ふうん。状況証拠はそろってるわけか」
瑞希はチョコレートを亮二に勧め、自分も一つ口にした。渋みの強い甘味が口の中でとろりと溶ける。
亮二は瞬く間に食べたと見えて、「もう一つ」と瑞希におねだりした。瑞希が箱ごと手渡すと、亮二は勝った相撲力士がするように感謝の手刀を切って受け取り、嬉しそうに「ありがと」と言う。何だか母親と子供が電車に乗って遠足に出掛けてるみたい、と瑞希は思った。
亮二がチョコレートを口に入れながら続けた。
「平清盛は知ってるよね」
亮二の言葉で、母親の気分がすうっとどこかに消えて行った。
「何、突然」
「まあ、聞けよ。白河上皇がね、寵愛する祇園女御が懐妊した時、男が生まれたら平忠盛に、女が生まれたら自分が育てると約束した。男が生まれたので忠盛の子としたんだ」
「それが清盛? 何の関係があるの?」
「その当時、上流社会ではこういうことがよくあったらしい。正妻でない人の子供を信頼出来る人物に授けて育てさせるようなね」
「景盛もそうだった、ということ?」
「頼朝は気に入った女性がいると、すぐ仲良くなりたがる。そこは僕とは違う」
「亮ちゃんのことはいいの。話を続けて」
「了解」
亮二は、またチョコレートを口に運んだ。
「頼朝は女性に眼が無い。だから、頼朝の世話をしていた比企尼の娘丹後といい仲になったことは考えられる」
「いついい仲になれんのよ。そんなにたくさん女の人と付き合ってるのに」
「流人時代。おそらく政子と出会う前。八重姫の前」
「どうして?」
「政子も甘縄神明社や安達館を訪れてるんだ。景盛が頼家に殺されそうになった時、自ら安達館にやって来て景盛に起請文を書かせ、体を張って頼家を諫(いさ)め事無きを得た。頼朝が浮気して出来た子じゃないのは明らかだろ。だから政子と一緒になる前の話」
瑞希は納得した。
「八重姫の前、というのは?」
亮二は続けた。
「八重姫の子は男の子だったから父親の伊東祐親に殺された。平家の耳に入れば大変なことになるからね。祐親は頼朝の命まで狙った。頼朝は祐清の助けで北条館に逃げ込む。そこで政子と出会うんだろ。だから、八重姫の後じゃない」
「じゃあ八重姫の前として、丹後ノ局との間に男の子が出来たんでしょ。どうして八重姫の子は殺されて、丹後ノ局の子は殺されなかったの?」
「比企ノ尼にしたって、平家に知られたら困るのは変わりない。だけど、伊東家は平家の庶子。平家と直結してる。安達は比企と同じ武蔵国、藤原氏の流れなんだ。だから比企ノ尼は丹後ノ局を安達盛長と結婚させ、生まれた子は安達家の跡取りとして育てることにした。頼朝を擁護(ようご)していた比企ノ尼は源氏再興を頼朝に託していた筈だから、頼朝の子を護ろうとするのは当然だろ」
「なあるほど。筋は通ってるわね。はい、私にもチョコ」
話す間も、亮二はチョコレートを口に放り込む。黙っているとすっかり食べられてしまいそうだった。しかし亮二は独り占めするつもりはないらしく、チョコレートの箱をすんなり瑞希に返した。
「ああら。ずいぶん軽くなっちゃって」
チョコレートを口に含むと、瑞希は窓の外に眼を移した。どんよりした光の中で、人家や山の緑が後方に流れてゆく。亮二と一緒の小さな旅。これも二人の始まりの大切なページの一つだ。そう思うと、チョコレートのほど良い甘さが口の中でほどけてゆくことさえ記憶に留めたいような気になった。
電車は田京を過ぎ、大仁(おおひと)から川に沿って東にカーブし牧乃郷を経る。牧乃郷からは再び北に線路が伸び、やがて電車は修善寺駅に着いた。
驚いた。これが実物だったら、その驚きは数十倍だっただろう。瑞希はパネルに貼られた写真を食い入るように見詰めた。
修善寺駅から出たバスは狩野川を渡り支流の桂川沿いをさかのぼる。終点の修善寺温泉の手前で、亮二と瑞希はバスを降りた。歴史郷土資料館というバス停のあることを車内の停留所掲示で知ったからだ。広い駐車場に修善寺総合会館が建っている。歴史資料館はその総合会館の地下一階にあった。地下といっても傾斜が急な敷地に建つ建物なので、案内表示の立つ会館脇の階段を下りると、中庭を抱えた一階に入口があるような感じだ。
館内には縄文時代の土器や古墳時代の白銅製神獣鏡、江戸期の地図や紙漉(す)きの独占権を認可する徳川家康の黒印状などが陳列ケースの中に納まっている。
亮二が突然、展示室の奥に足早に移動した。置き去りにされた瑞希は「何慌ててんだろう」と思ったが、ゆっくり展示物に眼を凝らしていた。
「瑞希!」
亮二が呼んだ。二人しか居ない館内に、亮二の声が響く。
瑞希は亮二の方を振り向いた。「早く!」
そう言うと、亮二はバッグから手帳を取り出した。
瑞希は慌てるふうでもなく、亮二に近づいた。
館内の隅に何枚かのボードが「くの字」型に立ててあり、取って付けたようなコーナーが作られてある。パネルが貼られたボードの前で、亮二は顔を上下して手帳に何かを書き写していた。
瑞希もパネルを見た。
「大日如来像」(修善寺本尊)
木造(桧の寄せ木造)、玉眼、漆箔
像高一〇〇・五センチメートル
製作者 実慶
承久四年(一二一〇年)制作
傷みがひどく昭和六十年(一九八五年)解体修理。
内部から墨書銘や納入品発見。
政子が頼家の七回忌に奈良の仏師実慶(運慶の父康慶の弟子)に作らせた。
次のパネルの写真を見て、瑞希ははっと息を呑んだ。納入品の中から発見された三束の髪の毛が写っていたのだ。「右」頭髪、「左」頭髪、「かもじ」(かつら)添え、と紹介してある。
二束それぞれ「右」「左」と墨書した付箋を添え紙に包み、この二包みを紙捻(こより)でしばり、さらに紙に包んで紙ひもで結ぶ。これを錦の袋に入れる。この袋は直方体の枕状にぬい合わせたもの。最後に錦の袋を真言陀羅尼と墨書した二紙で巻き、これを紙捻でしばったものであった。(頼家説、政子説、辻殿説など)
さらに解説が続く。
①髪が長い―女性
②白髪が混じっている―四十才以上
③仏像を作った年に辻殿が出家剃髪している
④政子は頼家が死んだ時、出家十年以上たっている
⑤「吾妻鏡」―「政子の髪の曼荼羅」が伊豆神社にあり血液型や成分が一致
「びっくりしたわ」
隣に立つ亮二が頷いた。
「こんなところで政子とご対面なんて思わなかったな」
「これ、ほんとに政子の髪?」
「多分。何かで読んだことがあったんだけど。忘れてた」
「二束の髪は両方とも政子のものなのかしら」
「確か血液型はB型とO型の二種類だった筈だ。だから、一つは辻殿のものだろうな」
「辻殿は正室よね」
「そう言われてる。源為朝の孫娘で、清和源氏の血筋を引くから正室に迎えられたんだよ。承久四年といえば政子は五十を少し越えてる。辻殿は頼家と同年代とすると三十前後か」
写真とはいえ政子の髪と出会って、瑞希は急に政子を身近に感じた。頼朝との熱愛、挙兵、鎌倉の都市造り、父や継母との確執、頼朝始め御家人たちや女たちと揉み合いながら幕府の基礎を固め、その間に子供たちを育てる。不幸な生き方しか出来なかった子供たちだが、政子にとっては可愛い子には違いない。妻として母として、また女性の代表としてリーダーシップを取り、その時代を生き切った。その凄まじい生き様は強烈だ。政子に対する興味が湧き立つ雲のように膨らんで来る。政子は研究され尽くしているから「歴研の卒論」には書かないと亮二は言ったが、政子抜きではこの時代の女性を語ることは出来ないだろう。
思わぬ収穫に気をよくした亮二は他の展示物には眼もくれず、見るべきものは見たとばかりにさっさと出口に急ぐ。瑞希は後を追い、二人は資料館の外に出た。
資料館からはゆるいカーブを曲がり、だらだらの坂が続く。修善寺温泉入口のバス停を基点に、桂川に沿って旅館や土産物屋の建ち並ぶ狭い道を抜けると、視界が開けた。右手に修善寺、左手に桂川。河原には温泉が湧き出ていて、観光客が列を作って「独鈷(とっこ)湯」という屋根付きの足湯に浸るのを待っている。
独鈷というのは密教仏具の一つで、「独鈷杵(しょ)」を指す。両端が鋭く尖った金属製の法具は中ほどがいくつかくびれ、手に掴みやすく細工が施されている。煩悩を破砕し菩提心を表すとされる金剛杵だ。大同二年(八〇七年)、弘法大師が諸国巡歴の途中に立ち寄ったこの地で、少年が病気の父親の手足を冷たい川の水で洗っているのを見かけた。心を痛めた大師は独鈷杵で岩を打ち、霊湯を湧き出せて温泉療法を授けたという伝説が残っている。
その弘法大師が開祖となる修善寺は真言宗の格式高い寺として四百数十年間栄えたが、鎌倉中期の元寇の役後に臨済宗、戦国時代に曹洞宗と変遷を経て今日に至っている。
二人は石段を登り、寺の境内に入った。お参りを済ませ、宝物殿に立ち寄る。北条政子や北条早雲の寄進した経典や公暁の血書、源範頼・頼家の陣鉦(じんがね・陣中で軍勢の進退の合図に鳴らす銅鑼)や馬具、青磁香炉や水瓶、独鈷杵などの仏具、木彫りの風神尊天、菩薩や観音画などが、川端龍子の手になる龍の天井絵の下に整然と陳列されている。
二人の眼を引いたのは木彫りの古面だった。被れば人の顔を覆って余りある大振りの面で、中心から少し左目の方にずれて顔面を二つに割っている。大きく刳(く)り抜かれた左右の眼、高い両頬とさらに高く盛り上がった鼻、横に広く開き上下の歯を食い縛ったような口。眉や額には深い皺が刻まれている。奇妙というよりは異様な面だ。
「この古面を見た岡本綺堂が『修善寺物語』を書いたんだそうだ」
「どんな話なの?」
亮二は、掻い摘まんであらましを瑞希に話した。
「頼家が修善寺に幽閉された次の年、鎌倉からの刺客に襲われた。湯舟に大量の漆(うるし)を流し込んだことを知らずに風呂に入った頼家は、全身かぶれて醜く変わり果てた姿で死んだんだ。面作りの夜叉王が、凄まじい死に様をした頼家の面を彫り鎌倉の政子に送る。親子の骨肉の争いによって、可愛い子がこのような姿となって死んだのだと皮肉を込めてね」
「むごい死に方………」
「物語だよ。でも、『愚管抄』にもひどい殺され方だったことが書かれてる。抵抗した頼家は首に紐を掛けられ、ふぐりを取られて刺し殺されたってね」
「ふぐり?」
「男の大切なとこ。陰嚢(いんのう)のことだよ」
「まっ!」
瑞希は驚いていいのか、困っていいのか解らない顔をした。
「『吾妻鏡』の方はあっさりしたもんだ。頼家殿死去せり、としか書いてないんだから。いずれにしても頼家が残虐に殺されたのは間違いないな」
瑞希は胸が潰れそうだった。政子は我が子が殺されることを知っていたのだろうか。知っていたのなら、防ぐ手立てを講じなかったのだろうか。後で知ったのなら、そうしてその死に様を聞いたのなら、じっとしているわけは無い。
「亮ちゃん」
宝物殿を出て修善寺の石段を下りながら、瑞希は訊いた。
「頼家を殺したのは………」
「三つ説がある。北条時政、北条義時、実朝と義時の共謀説。実朝は論外だ。頼家が殺された時は、まだ十三歳だものな」
「義時も消えるでしょ。牧ノ方事件で」
「うん。義時は政子と共同戦線を張ってると見ていい。実朝の命が危ないという阿波ノ局の急報で、政子が義時・三浦義村・結城朝光に命じて時政館から実朝を救い出してるからね。牧ノ方事件で時政を出家させ伊豆に配流したということは、政子と義時にとって時政が処罰の対象だったという証拠だ」
「犯人が時政だと解る前に、政子は頼家を守れなかったの?」
「ここは今でこそ観光地だけど、当時は昼なお暗い山中で獣が横行してた所だったんだよ。頼家は表向きは死んだことになってる。朝廷にそう通知していたからね。比企の乱、といっても比企ガ谷じゃなくて実際は小御所で合戦があったんだけど、その直後、頼家は奇跡的に回復する。政子は一幡丸も若狭局も比企一族をも失った頼家を出家させ、隠さざるを得なかった。だから修善寺を選んだんだ」
「時政は比企一族を滅ぼし頼家を暗殺、畠山事件に続いて実朝暗殺をも企てたのよ。流れを追えば真実が見えるって、亮ちゃん言ったじゃない。政子が時政の狙いに気が付かない筈ないのに」
「それは後になってから解ることだよ。まさか孫の頼家まで殺すとは思ってなかったんだろう。頼家を修善寺の山奥に匿(かくま)ったことで少しは油断があったかも知れないけど、政子が気付いた時はすでに遅かったんじゃないかな」
祖父や親が孫や子を殺す。子や孫が親や祖父母を殺す。今だってそんな事件を眼や耳にしない日は無い。むしろ殺戮(さつりく)は世界に広がってグローバル化している。政子の時代も今も変わりないではないか。何と殺伐(さつばつ)とした時代を私たちは生きなければならないのだろう。
瑞希はこんなことを想いながら、亮二と歩いていた。
亮二が右手の小道に入った。民家の間を抜ける細い道だ。小さな畑や洗濯物を干している家々の脇道をしばらく歩く。
「どこ行くの?」
「見なかったのかい? 範頼(のりより)の墓がある矢印」
「範頼の?」
「ああ。ほとんどの人はお参りしないけど。せっかく来たんだ。頼家だけじゃなく範頼にも挨拶して行かなきゃ失礼だろ。こっちだ」
亮二は右に折れる坂を上った。両脇の竹藪に狭められた細い道を、瑞希は亮二の後に続いて辿った。
解りにくい小さな祠(ほこら)だった。手前の左手に池が造られ、小さな石橋が架けてある。鶴岡八幡宮の源氏池と平家池のミニチュアみたいだった。近所の人が手入れをしているのだろうが、それでも寂しさがひた寄せる。
「範頼ってあまり表舞台には出てないんでしょ。記憶に薄いもの」
「本人が控え目な性格だったんだろうね。頼朝の異母弟で、平家滅亡に力を注いだ割には義経ほど有名じゃない。手柄はみんな義経に取られてしまった感じ。でも、腐るわけじゃないし頼朝に忠実に従ってる。梶原景時が弾劾状を鎌倉に送って義経の罪状を言い上げた時には、弟の義経を庇(かば)ってる。むしろ情の厚い人だったと思うよ」
「でも、ここに墓があるってことはここに流されて来たんでしょ?」
「ああ。富士の巻狩りが原因だ」
「富士の巻狩りが?」
「範頼は巻狩りに参加しなかった。曽我兄弟討ち入りがあった時、兄の十郎が討たれたのは話しただろ。弟の五郎は頼朝の寝所に進入したところを捕らえられた。この騒動が『頼朝が討たれた』という誤報となって鎌倉の政子の元に届けられたんだ」
「政子にしたら、まさに『青天の霹靂(へきれき)』ね」
「そう。政子は動転した。最愛の夫の死に嘆き悲しんだ。その時、範頼が政子に言った言葉が頼朝の疑心を買ったんだ」
「何て言ったの、範頼は」
「兄に万が一の事があっても源氏に私がいる限り安心して下さいって」
「ふうん。頼朝は範頼が自分に成り代わるつもりだ、と思ったのね」
「政子への慰めが頼朝の神経を刺激してしまった。慌てた範頼は、ふた心が無いことを起請文に認(したた)めて頼朝に献上したんだけど」
「謀反の気は無いって言ったんでしょ。問題あるの?」
「その起請文の末尾に、三河守源範頼と書いたんだ」
「それが?」
「源姓が気に入らなかったんだ」
「どうしてよ。弟なんでしょ」
「弟といっても母親は遠江(とおとうみ)国池田宿の遊女。義経の母親常盤(ときわ)御前も九条院の雑仕(ぞうし)、いわば宮中の雑役係。弟は二人とも身分の低い庶子なんだ。頼朝はエリート中のエリートだろ。心の中では弟たちを見下す気持ちがあったんだと思う。源氏一族と名乗るとは過ぎた考えだと、相当に怒ったらしい」
「相当に我がまま坊ちゃんだわ」
「ところがね。数日後、頼朝の寝所の下に潜んでいた男が捕まった。捕らえてみると範頼の家人(けにん)だったんだ」
「それが原因で範頼は修善寺に流されたの」
「範頼は謹慎が解けるのを待つつもりだったんだろうね。だけど範頼の郎党たちが反乱を起こしてしまった。梶原景時が頼朝に誅殺を進言し、一族を引き連れて修善寺の範頼を討ち果たしたんだそうだ………」
そう言って、亮二はふと黙った。
「ん? 待って」
「どうしたの?」
「ハッハッ」
「鼻ムズ?」
「クッショイ!」
「あ、お宝発見! 今度は何?」
「何だろ」
亮二は自分でも解らないらしく、首をひねった。
「お参りしよか」
「うん」
範頼の祠に手を合わせ、二人は今来た道を下った。
時折車の走る道路を渡ると、川のせせらぎが聞こえて来る。川沿いに続く竹林を抜ける遊歩道があった。石畳の小道を歩くと、早春の風に揺れる両側の竹林の葉擦れのそよぎがせせらぎの音と重なって、耳に心地よく響く。陽が落ちれば小道を照らす洒落た古風な街灯が立ち、所々に竹製のベンチも置かれている。小道の尽きる所にある小さな朱塗りの橋を渡り、二人は指月殿を目指した。北条政子が暗殺された頼家のために建立した経堂だ。
坂を上がり、さらに階段を登る。眼の前に指月殿が現れた。案内板には伊豆最古の木造建築とあった。建てられた当時は立派な経堂だったのだろうが、至るところが剥(は)げ朽(く)ち掛け、さすがに時の流れを実感させる。堂の中に安置されている釈迦如来像は座して全てを見尽くして来たように半眼を開き、重厚な趣(おもむき)を漂わせていた。
指月殿の脇に小さな階段があり、その上に頼家の墓があった。雨風をしのぐ屋根はあるものの、鎌倉幕府二代将軍のものとは思えないほどの楚々とした墓石だった。
亮二と瑞希は言葉も無く、お参りを済ませた。
帰りは民家の脇を抜ける、足を踏み外しそうなほど狭い石段を下りた。途中、竹の栞(しおり)を製作している小さな工房の入口で瑞希は足を止めた。猫が昼寝をしている。座布団の上に体を横たえ、首を反らし、腹を見せ、全くの無防備状態で眠り込んでいた。頭の脇に猫の紹介文が立て掛けてある。
瑞希が、ふふっと笑った。
亮二もその紹介文を読んでみた。
私はモモコという看板娘です。昼寝が得意です。店の案内をする招き猫が私の仕事です。でも、気が向いた時だけです。特に昼寝の邪魔をされると働きません。
亮二は声を抑えて噴き出した。墓に参った後の胸の重しを取り払ってくれるような猫の寝姿だ。紹介文も気が利いている。二人は猫のモモコの至福の時を妨げないよう、そっと階段を下りて行った。
「この辺りから頼朝や北条時政所縁(ゆかり)の土地になる」
亮二が、四人掛けのシートの前に坐る瑞希の後ろへ後ろへと流れてゆく景色を見送りながら言った。
「そう。鎌倉と比べると、ずいぶん鄙(ひな)びてる感じね」
瑞希は、亮二の右肩の方から次々に現れる景色を眼に受けながら答えた。
「さっきの駅、仁田っていう」
「うん」
「仁田忠常の出たところ。墓も残ってる」
「どんな人なの?」
「頼朝が富士で巻狩りをやったことがある。その巻狩りで頼家が初めて鹿を射止めた七日後、曽我兄弟の仇討ちがあったんだ。工藤祐経(すけつね)を討ち果たし本懐は遂げたんだけど、兄の十郎は斬り殺され弟は捕らえられた」
「工藤祐経って、静御前が鶴岡八幡宮の頼朝の前で舞を舞った時に………」
「よく覚えてたね。そうだよ。畠山重忠が銅拍子、鼓を打ったのが工藤祐経」
「で、仁田忠常は?」
「曽我兄弟の兄を討ち取った相手。それから………」
唇から少し出した舌に当てた中指を、亮二は眉にこすり付けた。
「『吾妻鏡』に拠(よ)るとね」
「はいはい。話十分の一で聞くわ」
「将軍頼家が病に倒れる前、狩りに出掛けた。阿野全成を常陸国に配流して安心したんだろうな。その狩場の伊豆の伊東と駿河の富士野で洞窟を発見した。伊東の洞窟は和田義盛の甥の和田胤長(たねなが)に、富士の方は仁田忠常に命じて探険させてる。胤長は数十里の行程を八時間で行き帰りした。八時間は早過ぎるよ。暗い洞窟の中を、しかも途中で大蛇に出くわし斬り殺したりしてるんだから」
「ふうん。で、忠常の方は?」
「大河に行く手を阻(はば)まれて、『対岸の奇特』を見た郎党四人が死んだ。驚いた忠常は頼家から授かった宝刀を河に投げ入れ、命からがら逃げ帰った」
「何、その『対岸の奇特』って」
「解らない。古老が『その人穴(じんけつ)は浅間大菩薩の御在所で、これを見た者は昔から一人もいない』と言った、と書いてある」
「浅間大菩薩の祟(たた)り?」
「って、言いたいんだろな。胤長は後に実朝の側近になるんだけど、和田の乱の引き金役にされて北条義時に討たれた。忠常は出身が伊豆だったから、北条方に近い。比企の乱では比企能員を殺してる。で、病状が回復した頼家に北条時政を討てと命じられるんだけど、奇妙なことに将軍御所に居た北条政子を兄弟で襲撃して討ち取られたことになってる。昏睡状態で危篤とさえ思える頼家が時政を討つように命じたのも、忠常が頼家の母である政子を襲ったというのもおかしい」
「北条が絡むとわけが解らなくなることが多いね。そうだ、蛇は確か北条の家紋だったわよね」
「鱗(うろこ)だよ、大蛇の」
「そうそう『三つウロコ』。胤長が大蛇を斬ったということは、北条に歯向かったということでしょ。大蛇にしても浅間大菩薩にしても、『祟り』イコール『北条に討たれて当然』という図式なんじゃないの」
「なかなかいいところを突くなあ」
「だって、『吾妻鏡』は北条氏を正当化するためのものなんでしょ」
「まあね」
「洞窟の話といい討たれた二人の話といい、ほんとにコレだわ」
瑞希が亮二を真似て、舌の先につけた指で形のいい三日月眉毛を撫でた。
「そうなんだよな。『吾妻鏡』は虚と実が織り交ぜられているから、なかなか手強い………」
そう言いながら、亮二はふと何かを思いついたように黙った。
電車が原木(ばらき)を過ぎ、次の韮山(にらやま)に差し掛かる。
車内のアナウンスを聞いて、亮二は閉ざしていた口を開いた。
「韮山か。蛭(ひる)ヶ小島だ」
「頼朝が最初に流されて来たとこね」
「へええ。知ってたんだ」
「ちょっとは見直した?」
「『豆タンク』から仕入れた情報なんだろ」
「えへへ」
亮二は瑞希の鼻の頭を人差し指でチョンと突いた。
「まだまだ入口、奥は深い。これからだよ」
「頼朝といえば、ほら、鼻のムズムズどうなったの?」
雪ノ下の頼朝の墓で亮二はくしゃみをした。あれから数日経っている。瑞希は亮二が何か掴んだのではないかと気になっていたのだ。
「調べてみたよ。頼朝の流人時代に近侍していたのは安達盛長、河越重頼、伊東祐清。三人とも比企ノ尼の娘婿だ」
「丹後ノ局は?」
「安達盛長の妻。長女だったから頼家出産の時にはいろいろ手伝いをしてる。他の娘は頼家の乳母だ」
亮二はショルダー・バッグから手帳を取り出した。使い古された手帳はページの角が縒(よ)れたり擦り切れたりしている。
亮二は手帳の後ろの方を開き、「ここ」と指差し瑞希に手帳を渡した。
受け取った瑞希は、新しいの買ってあげなきゃと思いながら開かれたページに眼を落とした。
比企ノ尼の系図が書かれてある。
比企尼
│ 安達盛長
│ ├景盛
│ ├時長
│ ├源範頼の妻
│ ┌ 丹後局
│ │ 河越重頼
│ │ ├源義経の妻
├─├ 頼家の乳母
│ │ 伊東祐清
│ │ │
│ └ 頼家の乳母
比企遠宗
「安達姓はおそらく足立郡から取った名前だ。足立郡も河越郡も比企と同じ武蔵国にある。比企ノ尼は地元の武士を娘婿にしたと考えた方が自然だ」
「伊東は?」
「頼朝が何歳の時か解らないけど、蛭ヶ小島から伊東祐親の所領に移された。だから、祐親の息子を娘婿にして近侍させたんだろう」
「伊東祐清の妹八重姫といい仲になって子供が出来るのよね」
「うん。千鶴丸だね」
「殺されちゃうんでしょ、祐親に」
「自分も殺されそうになった頼朝は蛭ヶ小島のすぐ南、寺家の北条館に逃げ込む」
「そこで政子と出会うわけね」
「話がスムーズに進むね。さすがは『豆タンク』。教えがいい」
「ねえ、亮ちゃん。その『豆タンク』って呼ぶの、止めたげない? 陶子さん、嬉しくないと思う」
「えらく肩を持つんだね」
「陶子さん、亮ちゃんのことすごく心配してた。可愛い後輩という以上の感情を持ってるみたい。キムチ鍋の夜、陶子さんちで泊まったでしょ。その時、いろんな話して感じたの。何となくだけど」
「ふうん」
「だから、ね」
「結構きつい先輩なんだけど、僕には」
「気に入ってるからシゴくのよ」
「瑞希がそう言うんだったら間違いないかもな。解った。『豆タンク』はもうよすよ」
「案外素直じゃない、亮ちゃん」
「案外って。相当ひねくれモンみたいに聞こえるけど」
「マシになったわよ、私と付き合って」
「そりゃお陰さまで、毎度………」
「どうも」
二人はくすっと笑った。
電車は韮山を出て、次の伊豆長岡へ向かっている。左の小高い山には北条時政が奥州征伐を目指す頼朝のために建立した願成就院があり、時政の墓や近くには頼朝との仲を割かれた八重姫の碑があると亮二は言った。
「話を戻すけど、頼朝の女性関係は八重姫だけじゃない」
「大進局って女の人もいたわよね」
「まだいるんだ。頼朝は挙兵する前に『亀ノ前』という女性と関係があったのは知ってる?」
「それは聞いてない」
「挙兵して頼家が生まれる間に、亀ノ前を密かに家臣の館に召し出して縒りを戻してたんだ」
「妻が懐妊中は、よくある話ね」
「頼家が生まれて大蔵御所に帰っていた政子に、牧ノ方が耳打ちして大騒動になった」
「当たり前でしょ」
「大進局は亀ノ前の次の女性。でもね、もう一人いる」
「まだ他にも手を出してるの、頼朝は。呆れた」
「亀ノ前事件が発覚する前。政子が産所の比企ガ谷にいる時に」
「ちょっと待って。八重姫、次が亀ノ前、政子と結婚、また亀ノ前、大進局でしょ、順番は」
「そうだよ」
「え? じゃあ何。縒りを戻した亀ノ前と付き合っている時じゃない。ダブル浮気?」
瑞希の声の調子が一オクターブ上がった。
「頼朝の長兄義平の未亡人にラブレターを送ってるんだ」
「呆れたを通り越して、開いた口が塞がらないわ」
「頼朝は京育ちだから貴族の風習に馴染んでる。正室以外に側室がいるのは当たり前的な考えを持ってたんだよ」
「それにしても、よ。いくら死んだといっても兄貴の嫁でしょ」
「新田義重という人の娘で、政子に知られると困ると思った父親はすぐに別の男と再婚させてる」
「たまんないわね、こんな女好きの嫁になったら。亮ちゃん大丈夫よね、私オンリーでやってける?」
「こっちに振るなよ。今は頼朝の話なんだから」
「じゃ、その話は後で。食べる?」
瑞希はバッグからチョコレートを取り出した。頼朝のパワーには驚かされる。英雄色を好むとは言うが、さすがに参ったという感じで、瑞希はひと息入れたくなったのだ。疲れた時や気分転換したい時は甘いものに限る。亮二も甘いものは嫌いではない。一つ摘まんで口に放り込んだ。
伊豆長岡を出ると、狩野川沿いに電車は走る。東西の山稜が挟む平野を、伊豆箱根鉄道は山の懐へ入ってゆく。
「引っ掛かっているのは丹後ノ局でしょ。安達盛長の妻の」
しばらくして、瑞希は話を本題に戻した。
「そうなんだ。鎌倉幕府が成立すると、丹後ノ局は幕府の女官になってる。丹後内侍と呼ばれるのはもう少し後なんだけど。頼朝はよく安達館を訪れてるんだ。その系図の次のページに訪れた日を列挙してある」
瑞希は手帳をめくった。
寿永元年
正月三日 佐々木高綱・足利冠者・北条殿・畠山重忠・三浦義澄・和田義盛以下供奉
文治二年
六月十日 丹後内侍甘縄家、朝光・胤頼
建久五年
正月八日
十二月一日 盛長奉行の上野国寺社全て管領の事
建久六年
正月四日 三浦義澄以下供奉
十二月二十二日 安達館泊
「側近の館を訪れたにしては数が多い。『吾妻鏡』には全ての日のことが書いてあるわけじゃないから、ひょっとしたら毎年訪れたのかも知れない」
「正月と十二月に決まって安達館に顔を出してるのね」
「年の始まりと終わりの月にね。まるで安達館に行くのが儀式みたいだろ」
「なんか意味深。それに、六月の丹後内侍。これが『鼻ムズのお宝』なんでしょう? 何しに行ったんだろ」
「病気見舞いだよ、丹後内侍の」
「家臣の奥さんを見舞いに?」
「しかもお忍びだ。供は結城朝光と東胤頼だけ。おまけに雷雨をついて」
「すっご! 家臣の奥さんの病気がそんなに心配だったの!」
「頼朝は病悩治癒の祈祷をした。どんな祈祷をしたのか解らないけど、四日後にその効き目で丹後内侍の病気は治ったとある。頼朝は丹後内侍のことが相当気懸かりだったと見ていい」
「ということは………」
「安達盛長の息子と言うより、丹後内侍の息子安達景盛は………」
「頼朝の御落胤!」
瑞希は驚いた。亮二の鼻のムズムズがこんな結論を引っ張り出すとは思ってもいなかった。
亮二は、別段得意がるふうもなく頷いた。
「その可能性は高い。頼家は安達景盛を討とうとしたことがあるんだ。政子が未然に防いだんだけど、修善寺に幽閉された後も、頼家は景盛を誅殺するよう政子に手紙を送ってる。もし景盛が頼朝の子だったら、自分の兄だ。正統な源氏の二代目が自分であることをどうしても貫きたかったんじゃないかな」
「でも、景盛が頼朝の子であるという証拠は無いんでしょ」
「景盛の孫に泰盛という人物がいてね。この人は幕府の中で相当の実力者だったんだけど政変に敗れて死ぬんだ。『霜月騒動』っていう」
「それで?」
「きっかけは、泰盛の嫡男が『曽祖父景盛入道は右大将頼朝の子だから』と言って源氏姓を名乗ったこと。泰盛は源氏の直系が代々受け継いでいる名刀を尋ね当てて手に入れてる」
「その名刀はどうなったの?」
「霜月騒動の後、執権北条貞時が探し出して装束を施し、頼朝の建てた法華堂に寄進安置したらしい。泰盛がその刀を手にしたというのはね、自分が清和源氏の直系だと信じてたからだよ」
「ふうん。状況証拠はそろってるわけか」
瑞希はチョコレートを亮二に勧め、自分も一つ口にした。渋みの強い甘味が口の中でとろりと溶ける。
亮二は瞬く間に食べたと見えて、「もう一つ」と瑞希におねだりした。瑞希が箱ごと手渡すと、亮二は勝った相撲力士がするように感謝の手刀を切って受け取り、嬉しそうに「ありがと」と言う。何だか母親と子供が電車に乗って遠足に出掛けてるみたい、と瑞希は思った。
亮二がチョコレートを口に入れながら続けた。
「平清盛は知ってるよね」
亮二の言葉で、母親の気分がすうっとどこかに消えて行った。
「何、突然」
「まあ、聞けよ。白河上皇がね、寵愛する祇園女御が懐妊した時、男が生まれたら平忠盛に、女が生まれたら自分が育てると約束した。男が生まれたので忠盛の子としたんだ」
「それが清盛? 何の関係があるの?」
「その当時、上流社会ではこういうことがよくあったらしい。正妻でない人の子供を信頼出来る人物に授けて育てさせるようなね」
「景盛もそうだった、ということ?」
「頼朝は気に入った女性がいると、すぐ仲良くなりたがる。そこは僕とは違う」
「亮ちゃんのことはいいの。話を続けて」
「了解」
亮二は、またチョコレートを口に運んだ。
「頼朝は女性に眼が無い。だから、頼朝の世話をしていた比企尼の娘丹後といい仲になったことは考えられる」
「いついい仲になれんのよ。そんなにたくさん女の人と付き合ってるのに」
「流人時代。おそらく政子と出会う前。八重姫の前」
「どうして?」
「政子も甘縄神明社や安達館を訪れてるんだ。景盛が頼家に殺されそうになった時、自ら安達館にやって来て景盛に起請文を書かせ、体を張って頼家を諫(いさ)め事無きを得た。頼朝が浮気して出来た子じゃないのは明らかだろ。だから政子と一緒になる前の話」
瑞希は納得した。
「八重姫の前、というのは?」
亮二は続けた。
「八重姫の子は男の子だったから父親の伊東祐親に殺された。平家の耳に入れば大変なことになるからね。祐親は頼朝の命まで狙った。頼朝は祐清の助けで北条館に逃げ込む。そこで政子と出会うんだろ。だから、八重姫の後じゃない」
「じゃあ八重姫の前として、丹後ノ局との間に男の子が出来たんでしょ。どうして八重姫の子は殺されて、丹後ノ局の子は殺されなかったの?」
「比企ノ尼にしたって、平家に知られたら困るのは変わりない。だけど、伊東家は平家の庶子。平家と直結してる。安達は比企と同じ武蔵国、藤原氏の流れなんだ。だから比企ノ尼は丹後ノ局を安達盛長と結婚させ、生まれた子は安達家の跡取りとして育てることにした。頼朝を擁護(ようご)していた比企ノ尼は源氏再興を頼朝に託していた筈だから、頼朝の子を護ろうとするのは当然だろ」
「なあるほど。筋は通ってるわね。はい、私にもチョコ」
話す間も、亮二はチョコレートを口に放り込む。黙っているとすっかり食べられてしまいそうだった。しかし亮二は独り占めするつもりはないらしく、チョコレートの箱をすんなり瑞希に返した。
「ああら。ずいぶん軽くなっちゃって」
チョコレートを口に含むと、瑞希は窓の外に眼を移した。どんよりした光の中で、人家や山の緑が後方に流れてゆく。亮二と一緒の小さな旅。これも二人の始まりの大切なページの一つだ。そう思うと、チョコレートのほど良い甘さが口の中でほどけてゆくことさえ記憶に留めたいような気になった。
電車は田京を過ぎ、大仁(おおひと)から川に沿って東にカーブし牧乃郷を経る。牧乃郷からは再び北に線路が伸び、やがて電車は修善寺駅に着いた。
驚いた。これが実物だったら、その驚きは数十倍だっただろう。瑞希はパネルに貼られた写真を食い入るように見詰めた。
修善寺駅から出たバスは狩野川を渡り支流の桂川沿いをさかのぼる。終点の修善寺温泉の手前で、亮二と瑞希はバスを降りた。歴史郷土資料館というバス停のあることを車内の停留所掲示で知ったからだ。広い駐車場に修善寺総合会館が建っている。歴史資料館はその総合会館の地下一階にあった。地下といっても傾斜が急な敷地に建つ建物なので、案内表示の立つ会館脇の階段を下りると、中庭を抱えた一階に入口があるような感じだ。
館内には縄文時代の土器や古墳時代の白銅製神獣鏡、江戸期の地図や紙漉(す)きの独占権を認可する徳川家康の黒印状などが陳列ケースの中に納まっている。
亮二が突然、展示室の奥に足早に移動した。置き去りにされた瑞希は「何慌ててんだろう」と思ったが、ゆっくり展示物に眼を凝らしていた。
「瑞希!」
亮二が呼んだ。二人しか居ない館内に、亮二の声が響く。
瑞希は亮二の方を振り向いた。「早く!」
そう言うと、亮二はバッグから手帳を取り出した。
瑞希は慌てるふうでもなく、亮二に近づいた。
館内の隅に何枚かのボードが「くの字」型に立ててあり、取って付けたようなコーナーが作られてある。パネルが貼られたボードの前で、亮二は顔を上下して手帳に何かを書き写していた。
瑞希もパネルを見た。
「大日如来像」(修善寺本尊)
木造(桧の寄せ木造)、玉眼、漆箔
像高一〇〇・五センチメートル
製作者 実慶
承久四年(一二一〇年)制作
傷みがひどく昭和六十年(一九八五年)解体修理。
内部から墨書銘や納入品発見。
政子が頼家の七回忌に奈良の仏師実慶(運慶の父康慶の弟子)に作らせた。
次のパネルの写真を見て、瑞希ははっと息を呑んだ。納入品の中から発見された三束の髪の毛が写っていたのだ。「右」頭髪、「左」頭髪、「かもじ」(かつら)添え、と紹介してある。
二束それぞれ「右」「左」と墨書した付箋を添え紙に包み、この二包みを紙捻(こより)でしばり、さらに紙に包んで紙ひもで結ぶ。これを錦の袋に入れる。この袋は直方体の枕状にぬい合わせたもの。最後に錦の袋を真言陀羅尼と墨書した二紙で巻き、これを紙捻でしばったものであった。(頼家説、政子説、辻殿説など)
さらに解説が続く。
①髪が長い―女性
②白髪が混じっている―四十才以上
③仏像を作った年に辻殿が出家剃髪している
④政子は頼家が死んだ時、出家十年以上たっている
⑤「吾妻鏡」―「政子の髪の曼荼羅」が伊豆神社にあり血液型や成分が一致
「びっくりしたわ」
隣に立つ亮二が頷いた。
「こんなところで政子とご対面なんて思わなかったな」
「これ、ほんとに政子の髪?」
「多分。何かで読んだことがあったんだけど。忘れてた」
「二束の髪は両方とも政子のものなのかしら」
「確か血液型はB型とO型の二種類だった筈だ。だから、一つは辻殿のものだろうな」
「辻殿は正室よね」
「そう言われてる。源為朝の孫娘で、清和源氏の血筋を引くから正室に迎えられたんだよ。承久四年といえば政子は五十を少し越えてる。辻殿は頼家と同年代とすると三十前後か」
写真とはいえ政子の髪と出会って、瑞希は急に政子を身近に感じた。頼朝との熱愛、挙兵、鎌倉の都市造り、父や継母との確執、頼朝始め御家人たちや女たちと揉み合いながら幕府の基礎を固め、その間に子供たちを育てる。不幸な生き方しか出来なかった子供たちだが、政子にとっては可愛い子には違いない。妻として母として、また女性の代表としてリーダーシップを取り、その時代を生き切った。その凄まじい生き様は強烈だ。政子に対する興味が湧き立つ雲のように膨らんで来る。政子は研究され尽くしているから「歴研の卒論」には書かないと亮二は言ったが、政子抜きではこの時代の女性を語ることは出来ないだろう。
思わぬ収穫に気をよくした亮二は他の展示物には眼もくれず、見るべきものは見たとばかりにさっさと出口に急ぐ。瑞希は後を追い、二人は資料館の外に出た。
資料館からはゆるいカーブを曲がり、だらだらの坂が続く。修善寺温泉入口のバス停を基点に、桂川に沿って旅館や土産物屋の建ち並ぶ狭い道を抜けると、視界が開けた。右手に修善寺、左手に桂川。河原には温泉が湧き出ていて、観光客が列を作って「独鈷(とっこ)湯」という屋根付きの足湯に浸るのを待っている。
独鈷というのは密教仏具の一つで、「独鈷杵(しょ)」を指す。両端が鋭く尖った金属製の法具は中ほどがいくつかくびれ、手に掴みやすく細工が施されている。煩悩を破砕し菩提心を表すとされる金剛杵だ。大同二年(八〇七年)、弘法大師が諸国巡歴の途中に立ち寄ったこの地で、少年が病気の父親の手足を冷たい川の水で洗っているのを見かけた。心を痛めた大師は独鈷杵で岩を打ち、霊湯を湧き出せて温泉療法を授けたという伝説が残っている。
その弘法大師が開祖となる修善寺は真言宗の格式高い寺として四百数十年間栄えたが、鎌倉中期の元寇の役後に臨済宗、戦国時代に曹洞宗と変遷を経て今日に至っている。
二人は石段を登り、寺の境内に入った。お参りを済ませ、宝物殿に立ち寄る。北条政子や北条早雲の寄進した経典や公暁の血書、源範頼・頼家の陣鉦(じんがね・陣中で軍勢の進退の合図に鳴らす銅鑼)や馬具、青磁香炉や水瓶、独鈷杵などの仏具、木彫りの風神尊天、菩薩や観音画などが、川端龍子の手になる龍の天井絵の下に整然と陳列されている。
二人の眼を引いたのは木彫りの古面だった。被れば人の顔を覆って余りある大振りの面で、中心から少し左目の方にずれて顔面を二つに割っている。大きく刳(く)り抜かれた左右の眼、高い両頬とさらに高く盛り上がった鼻、横に広く開き上下の歯を食い縛ったような口。眉や額には深い皺が刻まれている。奇妙というよりは異様な面だ。
「この古面を見た岡本綺堂が『修善寺物語』を書いたんだそうだ」
「どんな話なの?」
亮二は、掻い摘まんであらましを瑞希に話した。
「頼家が修善寺に幽閉された次の年、鎌倉からの刺客に襲われた。湯舟に大量の漆(うるし)を流し込んだことを知らずに風呂に入った頼家は、全身かぶれて醜く変わり果てた姿で死んだんだ。面作りの夜叉王が、凄まじい死に様をした頼家の面を彫り鎌倉の政子に送る。親子の骨肉の争いによって、可愛い子がこのような姿となって死んだのだと皮肉を込めてね」
「むごい死に方………」
「物語だよ。でも、『愚管抄』にもひどい殺され方だったことが書かれてる。抵抗した頼家は首に紐を掛けられ、ふぐりを取られて刺し殺されたってね」
「ふぐり?」
「男の大切なとこ。陰嚢(いんのう)のことだよ」
「まっ!」
瑞希は驚いていいのか、困っていいのか解らない顔をした。
「『吾妻鏡』の方はあっさりしたもんだ。頼家殿死去せり、としか書いてないんだから。いずれにしても頼家が残虐に殺されたのは間違いないな」
瑞希は胸が潰れそうだった。政子は我が子が殺されることを知っていたのだろうか。知っていたのなら、防ぐ手立てを講じなかったのだろうか。後で知ったのなら、そうしてその死に様を聞いたのなら、じっとしているわけは無い。
「亮ちゃん」
宝物殿を出て修善寺の石段を下りながら、瑞希は訊いた。
「頼家を殺したのは………」
「三つ説がある。北条時政、北条義時、実朝と義時の共謀説。実朝は論外だ。頼家が殺された時は、まだ十三歳だものな」
「義時も消えるでしょ。牧ノ方事件で」
「うん。義時は政子と共同戦線を張ってると見ていい。実朝の命が危ないという阿波ノ局の急報で、政子が義時・三浦義村・結城朝光に命じて時政館から実朝を救い出してるからね。牧ノ方事件で時政を出家させ伊豆に配流したということは、政子と義時にとって時政が処罰の対象だったという証拠だ」
「犯人が時政だと解る前に、政子は頼家を守れなかったの?」
「ここは今でこそ観光地だけど、当時は昼なお暗い山中で獣が横行してた所だったんだよ。頼家は表向きは死んだことになってる。朝廷にそう通知していたからね。比企の乱、といっても比企ガ谷じゃなくて実際は小御所で合戦があったんだけど、その直後、頼家は奇跡的に回復する。政子は一幡丸も若狭局も比企一族をも失った頼家を出家させ、隠さざるを得なかった。だから修善寺を選んだんだ」
「時政は比企一族を滅ぼし頼家を暗殺、畠山事件に続いて実朝暗殺をも企てたのよ。流れを追えば真実が見えるって、亮ちゃん言ったじゃない。政子が時政の狙いに気が付かない筈ないのに」
「それは後になってから解ることだよ。まさか孫の頼家まで殺すとは思ってなかったんだろう。頼家を修善寺の山奥に匿(かくま)ったことで少しは油断があったかも知れないけど、政子が気付いた時はすでに遅かったんじゃないかな」
祖父や親が孫や子を殺す。子や孫が親や祖父母を殺す。今だってそんな事件を眼や耳にしない日は無い。むしろ殺戮(さつりく)は世界に広がってグローバル化している。政子の時代も今も変わりないではないか。何と殺伐(さつばつ)とした時代を私たちは生きなければならないのだろう。
瑞希はこんなことを想いながら、亮二と歩いていた。
亮二が右手の小道に入った。民家の間を抜ける細い道だ。小さな畑や洗濯物を干している家々の脇道をしばらく歩く。
「どこ行くの?」
「見なかったのかい? 範頼(のりより)の墓がある矢印」
「範頼の?」
「ああ。ほとんどの人はお参りしないけど。せっかく来たんだ。頼家だけじゃなく範頼にも挨拶して行かなきゃ失礼だろ。こっちだ」
亮二は右に折れる坂を上った。両脇の竹藪に狭められた細い道を、瑞希は亮二の後に続いて辿った。
解りにくい小さな祠(ほこら)だった。手前の左手に池が造られ、小さな石橋が架けてある。鶴岡八幡宮の源氏池と平家池のミニチュアみたいだった。近所の人が手入れをしているのだろうが、それでも寂しさがひた寄せる。
「範頼ってあまり表舞台には出てないんでしょ。記憶に薄いもの」
「本人が控え目な性格だったんだろうね。頼朝の異母弟で、平家滅亡に力を注いだ割には義経ほど有名じゃない。手柄はみんな義経に取られてしまった感じ。でも、腐るわけじゃないし頼朝に忠実に従ってる。梶原景時が弾劾状を鎌倉に送って義経の罪状を言い上げた時には、弟の義経を庇(かば)ってる。むしろ情の厚い人だったと思うよ」
「でも、ここに墓があるってことはここに流されて来たんでしょ?」
「ああ。富士の巻狩りが原因だ」
「富士の巻狩りが?」
「範頼は巻狩りに参加しなかった。曽我兄弟討ち入りがあった時、兄の十郎が討たれたのは話しただろ。弟の五郎は頼朝の寝所に進入したところを捕らえられた。この騒動が『頼朝が討たれた』という誤報となって鎌倉の政子の元に届けられたんだ」
「政子にしたら、まさに『青天の霹靂(へきれき)』ね」
「そう。政子は動転した。最愛の夫の死に嘆き悲しんだ。その時、範頼が政子に言った言葉が頼朝の疑心を買ったんだ」
「何て言ったの、範頼は」
「兄に万が一の事があっても源氏に私がいる限り安心して下さいって」
「ふうん。頼朝は範頼が自分に成り代わるつもりだ、と思ったのね」
「政子への慰めが頼朝の神経を刺激してしまった。慌てた範頼は、ふた心が無いことを起請文に認(したた)めて頼朝に献上したんだけど」
「謀反の気は無いって言ったんでしょ。問題あるの?」
「その起請文の末尾に、三河守源範頼と書いたんだ」
「それが?」
「源姓が気に入らなかったんだ」
「どうしてよ。弟なんでしょ」
「弟といっても母親は遠江(とおとうみ)国池田宿の遊女。義経の母親常盤(ときわ)御前も九条院の雑仕(ぞうし)、いわば宮中の雑役係。弟は二人とも身分の低い庶子なんだ。頼朝はエリート中のエリートだろ。心の中では弟たちを見下す気持ちがあったんだと思う。源氏一族と名乗るとは過ぎた考えだと、相当に怒ったらしい」
「相当に我がまま坊ちゃんだわ」
「ところがね。数日後、頼朝の寝所の下に潜んでいた男が捕まった。捕らえてみると範頼の家人(けにん)だったんだ」
「それが原因で範頼は修善寺に流されたの」
「範頼は謹慎が解けるのを待つつもりだったんだろうね。だけど範頼の郎党たちが反乱を起こしてしまった。梶原景時が頼朝に誅殺を進言し、一族を引き連れて修善寺の範頼を討ち果たしたんだそうだ………」
そう言って、亮二はふと黙った。
「ん? 待って」
「どうしたの?」
「ハッハッ」
「鼻ムズ?」
「クッショイ!」
「あ、お宝発見! 今度は何?」
「何だろ」
亮二は自分でも解らないらしく、首をひねった。
「お参りしよか」
「うん」
範頼の祠に手を合わせ、二人は今来た道を下った。
時折車の走る道路を渡ると、川のせせらぎが聞こえて来る。川沿いに続く竹林を抜ける遊歩道があった。石畳の小道を歩くと、早春の風に揺れる両側の竹林の葉擦れのそよぎがせせらぎの音と重なって、耳に心地よく響く。陽が落ちれば小道を照らす洒落た古風な街灯が立ち、所々に竹製のベンチも置かれている。小道の尽きる所にある小さな朱塗りの橋を渡り、二人は指月殿を目指した。北条政子が暗殺された頼家のために建立した経堂だ。
坂を上がり、さらに階段を登る。眼の前に指月殿が現れた。案内板には伊豆最古の木造建築とあった。建てられた当時は立派な経堂だったのだろうが、至るところが剥(は)げ朽(く)ち掛け、さすがに時の流れを実感させる。堂の中に安置されている釈迦如来像は座して全てを見尽くして来たように半眼を開き、重厚な趣(おもむき)を漂わせていた。
指月殿の脇に小さな階段があり、その上に頼家の墓があった。雨風をしのぐ屋根はあるものの、鎌倉幕府二代将軍のものとは思えないほどの楚々とした墓石だった。
亮二と瑞希は言葉も無く、お参りを済ませた。
帰りは民家の脇を抜ける、足を踏み外しそうなほど狭い石段を下りた。途中、竹の栞(しおり)を製作している小さな工房の入口で瑞希は足を止めた。猫が昼寝をしている。座布団の上に体を横たえ、首を反らし、腹を見せ、全くの無防備状態で眠り込んでいた。頭の脇に猫の紹介文が立て掛けてある。
瑞希が、ふふっと笑った。
亮二もその紹介文を読んでみた。
私はモモコという看板娘です。昼寝が得意です。店の案内をする招き猫が私の仕事です。でも、気が向いた時だけです。特に昼寝の邪魔をされると働きません。
亮二は声を抑えて噴き出した。墓に参った後の胸の重しを取り払ってくれるような猫の寝姿だ。紹介文も気が利いている。二人は猫のモモコの至福の時を妨げないよう、そっと階段を下りて行った。
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