鎌倉らんぶりんぐ(下)

戸浦 隆

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二十、伽武羅屋談義

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「これ、ダメね」
「え?」
 亮二は顔には出さなかったが、胸の内で力がストンと抜けた。今まで一番気合いを込めて書き上げたつもりだった。「よくやった」とまでは期待してはいなかったが、「まあまあね」ぐらいは言って欲しかった。
「勘違いしないでよ」
「は?」
「歴研の卒論としては『優』をあげる。合格よ。だけど学術論文としては物足りない。読み物としては固過ぎる」
「あのう」
「何?」
「歴研の卒論、でいいんじゃないんですか?」
「よかないの。あなた、卒業するんでしょ。就職どうするの」
「それは、まだ」
「でしょ。大学院に行って研究するにも、物書いて食べていくにも力不足だって言ってるの。中途半端なのよ」
「はあ」
「ああ、頼りないなあ。いい? 人間は働かなくっちゃいけないの! 働いておまんま食べて、活き活きと生きなきゃいけないの!」
「それはそうですけど………」
「じゃあ、どこで働く?」
「別にこれといって………」
「困った『鎌倉殿』だ」
 陶子は溜息を吐いた。
 大学の研究室にいた陶子に「卒論」を持って来たのだが、どうやら陶子は不満らしい。参ったなと思ったが、亮二は口には出さなかった。
「研究者に向いてないのは解ってる。だからね、葛西君」
「はい」
「これ、書き直して」
「やり直すんですか?」
「そう。読んで面白い小説風に」
「小説風に………」
「スタイルは問わない。出来るだけ読み易く、楽しい話にしてちょうだい」
「いつまでに、ですか?」
「五日後」
「五日後ぉ!」
「なに情け無い声出してんの。無から有を生じなさいって言ってるんじゃないでしょ。この『卒論』をベースにしたら書けるわよ、五日で」
「そんな………。本を右の棚から左の棚に移すみたいに簡単に言わないで下さいよ」
「ぐずぐず言わない! ほら、今から帰ってすぐ取り掛かる!」
 追い出されるように、亮二は陶子の研究室の外に出た。
「参ったな」
 今度は声が出た。人気の無い大学の校舎は寒々として苦手だ。研究室の陶子はもっと苦手だ。大学の外と内では、陶子の印象はずいぶん違う。瑞希と一緒の時や伽武羅屋では威勢のいい姐御(あねご)風だが、大学構内ではキンキンに凍ったマネキンだ。陶子は叱咤(しった)を激励と思っているのだろうが、叱咤が立ち直り難いショックとなる輩(やから)もいるのだ。亮二は陶子の叱咤の度に、頭を杭(くい)で叩かれた気になる。毎回地面の下に数センチは打ち込まれている筈だ。陶子にはなぜか頭が上がらない。「仕方が無いな」とぶつぶつ呟(つぶや)きながら、亮二は大学を後にした。
 五日間はあっという間に過ぎた。最後の日は徹夜だった。昼過ぎに研究室の陶子に手渡すことが出来たが、帰るとそのままベッドに倒れ込んだ。夕方近く、携帯電話の音で起こされた。電源を切っとくんだったと後悔したが、陶子からだ。出ないわけにはいかない。
「今から伽武羅屋に来て」
 それだけ言うと、電話は一方的に切れた。
「何だよ。ったく」
 寝不足のぼんやりした頭の中で、呪文のように同じ言葉を繰り返す。それでも顔を洗い、ジーンズを穿(は)いてTシャツを着ると、少しは頭に血が戻り呪文も出なくなった。
 店に入る。
「いらっしゃい!」
「今晩は。ご無沙汰してます」
「おう、亮二。卒業祝いだってな。今日は腕によりを三倍かけてやっからよ」
 タツヨシがカウンターの後ろの座敷席に眼を送り、首をしゃくった。時間が早いからだろう、客は手招きする陶子一人だった。
「こっちよ」
 大学の研究室とは似ても似つかぬ気軽さで、手を挙げている。
「いつものカウンターじゃないんですね」
 亮二が上がり込んだテーブルには四人分の箸が置かれていた。
「誰か他に?」
「卒業祝いだもの。察しは付くでしょ」
「瑞希。もう一人は?」
「お楽しみ」
 陶子は秘密めかして微笑んだ。
「?」
 まさか香澄美じゃないだろな。ここで卒業祝いするって知ってたし………。亮二は不安になった。
「残念ながら女性じゃない。ハーレムで豪遊するのはまだ早いからね」
 圭介か? いや、陶子や瑞希がわざわざ圭介に声を掛けるとは思えない。誰だろう?
「何ビクついてるの。ははあ、さては陰に隠れてコソコソ悪いことやってるのね」
「そんなことは」
 と、亮二は慌てて顔の前で手を振って否定した。
「安心していいよ。私の先輩だから。君の先輩でもあるけどね」
「じゃあ、歴研の?」
「そ。ちょっと紹介しようと思って。ほら、噂をすればだわ」
 背の高い大きな胴体の男性が入って来た。ラガーマンかプロレスラーのような体格だ。タツヨシに勝るとも劣らない。陶子が手を挙げる。一瞥(いちべつ)で見渡せる狭い店だ。頷くと、男はツカツカと近づいて陶子の隣に腰をドンと落とした。
「よう、豆タンク。元気ごたるのぉ」
「よう、ドコモッコ。一段とメタボ対策怠ってますのぉ」
「冬場は脂肪ば蓄えんならん時期やけんの」
「夏場はビールで何蓄えるんだか」
「そげん突っ込むな。相変わらずキツかおなごじゃ」
 大男はブレザーを脱ぎながら、亮二に顔を向けた。
「あ、葛西です。葛西亮二」
「君が『鎌倉殿』か。俺は………」
 言いながら大男は名刺入れを取り出し、抜いた一枚を亮二に渡した。
 亮二は手渡された名刺に眼を落とした。「歴史と旅社 編集部長」の肩書きの横に「羽林信吾」と印刷されている。
「失礼ですけど、苗字は何と読むんです?」
「ウリン」
「あのう。陶子先輩の何年先輩なんですか?」
「四年だ」
「四年、ですか」
 四年だと陶子が一回生の時は卒業している筈だ。亮二は首をひねった。
「俺は勉強ば好きやったけんな。高校卒業した後は二年予備校、大学には六年おったと」
「はああ」
 留年したのか。すると、陶子とは二年間歴研で顔を合わせていたことになる、と亮二は頭の中で計算した。
「だけん、『豆タンク』の世話もした。お前さんは俺が卒業した年に入って来たとやなかか?」
「多分、そうだと思います」
 三十前後に見えるから、亮二と入れ違いに大学を出たのは頷けた。
「編集部長さん、なんですか。出世が早いんですね」
「零細企業やけん、一人三役も四役もこなさなやっていけんとよ。こげん手毬唄ば知っとっと?」
「は?」
 突然の突拍子もない問い掛けに、亮二は面食らった。
「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ」
 辺りをはばからず、羽林は大きな声で歌い出した。
 亮二はきょとんとした。陶子はと見ると、「あはは」と笑っている。まったく大学構内専属冷凍マネキンの面影は無い。
「熊本さ、の肥後熊本の生まれ。歴研じゃ『肥後もっこす』を縮めて『肥後もっこ』とか『どこさ』をくっ付けて『どこもっこす』とか言われとった」
「携帯病でね」
 と、陶子が続ける。
「しょっちゅうピコピコやってるの。だから私は『ドコモッコ』と呼んでた」
「あの。『もっこす』って何です?」
 亮二が訊いた。
 羽林が答える前に、陶子が言う。
「熊本の、融通の利かない男のこと」
「そりゃあ無か。肥後の男ん中の男ば言うんやけん。と、まあ、こげんところで自己紹介ということにしとこうか」
 店の戸が開いて、瑞希が入って来た。突然、店の中がぱっと明るくなったようだった。卵の黄身のようなイエローに淡いグリーンや桜貝色の柄をランダムにあしらったワンピース、腰にはゆるめに茶のベルトを巻き、首には青地に白や金を散らしたスカーフを巻いている。口紅はショッキング・ピンクが、また一段と顔に華やぎを添えアクセントを付けていた。
 タツヨシが頓狂な声で出迎えた。
「たまげたねぇ、瑞希ちゃん。ミラノ・コレクションのモデルみたいじゃないか」
「今晩は。今日は特別の日だから、思い切っちゃった」
「いいんだ、いいんだ。女の思いっ切りは男の気を昂(たか)ぶらせてくれるからヨ。こりゃあ三倍どころか、十倍腕によりをかけなきゃな」
 亮二も驚いた。普段のカジュアルな装いとはまるで違う。眼を見張らせる瑞希だ。女は変われば怖いほど変わるものなんだ、と感心した。隣に瑞希が坐る。途端に胸が妙に弾み始めた。
「これはまた、よかおなごのご登場やなかね」
「私はよかおなごじゃないの?」
 陶子が間髪を入れず、羽林の太い脇腹を肘で突いた。
「イジけんでよか。お前さんは『よか』に『むぞか』ば付くとやけん」
「何、『むぞか』って」
「抱き締めとうなるほど可愛か、いう意味」
「またまた。携帯と同じで、言葉だけでしょ。私の眼を見て言えますぅ?」
「なんぼでん見るとぞぉ」
 羽林が大きな丸い眼を剝いて、陶子を見た。
「目ン玉落ち掛かってるって」
「そげんね」
 羽林は膨らみのある両手で、落ち掛かった目玉をすくう真似をする。
「と、まあ、こんなおバカなことばかりやってた先輩よ」
 陶子が亮二と瑞希の方を見て言った。
 ワハハと豪快に笑いながら、羽林が瑞希にも名刺を渡す。
「桐生瑞希です。初めまして」
 瑞希は両手で丁寧に名刺を受け取った。その仕草がしなやかで、どことなく品があると感じるのは自分の欲目だろうかと思いながら、亮二は綺麗にマニュキアを施した瑞希の指先に眼を奪われた。
「さあ、役者も揃った。始めましょ」
 陶子がビールを頼む。乾杯が済むと次々と料理が出された。運んで来る新しいアルバイトはまだ慣れない所為(せい)か、言葉数も少なく愛想も少ない。自分も初めはそうだったんだろうな、と亮二は思う。そのうちタツヨシに鍛えられることになる。
「君の原稿、読ませて貰うた」
 羽林が「豚の紅茶煮サラダ仕立て」のサラダは除(よ)けて、煮豚の薄切りを三枚まとめて口に入れた。ひと頻(しき)り口をモグモグやった後、ビールで胃に流し込みながら言った。
「文章は荒削りで固いけんど、センスはよか」
「はあ」
 亮二は、陶子の助けを借りながら瑞希と二人三脚で資料集めをした経緯と、歴史上の人物や想像上の人物を織りまぜながら話が同時進行する小説風の作品に仕上げたのだ。
「もっと勉強ばして貰わんならんが………」
 もう勉強は卒業したんだけどな、と亮二は胸の中で応答した。
「ウチの専属にならんとね」
「専属?」
「ああ。『豆タンク』からの情報に拠れば、君はどうやら体制の中に組み込まるるとは好かんと見ゆる」
「まあ、そうですね」
「定期的な仕事のあるわけやなか。企画の組まれた時に、ちょっと旅ん出て原稿ば書くとよ。何、細(こま)か『ああせい、こうせい』は俺が指示する。稿料はそげん出ん。だけん、他に仕事なりアルバイトなりして貰うて一向に構わん」
 卒業して就職する当ては無い。かと言ってネクタイで首を締め、背広に体を押し込めるようなことはしたくない。我がままかも知れない。だが嫌なことは続かないだろうし、それでは却って就職した先に迷惑を掛けてしまう。ぶらぶらしながら霞(かすみ)を食っていけるなら、それに越したことは無い。だが、アルバイトでも何でもして働かなければならないという現実も迫っている。だから、羽林の持ち出してくれた話は亮二にとっては有り難いことだった。
「どう、鎌倉殿。ここは歴研のぶっといパイプにぶら下がってみたら?」
 陶子が羽林の太い腕を抱きかかえて言った。
 羽林は抱きかかえられた右腕をグイと上げて力瘤を作る。小さな陶子の上半身がふわっと浮くように伸びた。
「ほら。頼り甲斐のある腕でしょ」
 おどけた後、羽林の腕を放した陶子は「蛸の春煮」の中から里芋を選び、口に運んだ。とろりとした歯触りを楽しみながら言葉を続ける。
「コネって言うと聞こえは悪い。嫌かも知れないけど、人は人との繋がりで生きてるんだから」
 それは亮二も否定しない。人は合う合わないがある。誰も彼もというわけにはいかないが、寄り添える相手とは互いに助け合っていくのが自然だと思う。一人では生きていけないのが人間だ。だからこそ人を愛し、人に愛されることを求めるのだろう。
「亮ちゃん、願ってもないことよ」
 瑞希は大皿の刺身の盛り合わせからいく切れかずつ小皿に取り分け、亮二の前に置きながら賛成した。羽林信吾を紹介してくれた陶子の気持ちも有り難かった。亮二は快諾すべきだと決心し、素直に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「そげんね。よかやな。オッケー、ザッツ・オーライッ! 乾杯や!」
「卒業おめでとう!」
 みんなが声とグラスを合わせた。
 ビールをグッと飲んだ。快い刺激が喉から胃に流れてゆく。急に空腹が呼び覚まされた。慌ただしさと初対面の先輩に会った緊張が忘れさせていたのだろう。そういえば朝から何も食べてない。亮二は、瑞希がよそってくれた刺身に手を伸ばした。ワサビをつけ過ぎたのか、ツンと鼻に来て涙が滲みそうになった。


 相模川に架けられた橋は幅が四間(けん)半(約八メートル強)、長さが十七間(約三十数メートル)の立派な大橋だった。橋桁(はしげた)を支える橋脚も周囲が七尺(約二メートル強)もある。その真新しい橋板の上を、騎乗した頼朝は先頭を切って進んでゆく。後には伊豆に流され石橋山の合戦で旗揚げして以来の腹心の御家人たちが続いた。
 東岸で営まれた橋供養は盛大だった。幔幕(まんまく)の張られた中に須弥壇(しゅみだん・仏像などを祀る一段高い場所を作る台)や仏器、花鋲(けびょう・青木などを挿し水を差しておく花瓶)、供物の壇が設けられ、鉦を叩き数珠を練り般若心経が唱えられた。稲毛重成が腰を低くして進み頼朝の前に座すと、深々と一礼した。
「亡き妻のため相模川に新造した橋の供養にご臨席給(たま)わり、誠に有り難く存知仕(つかまつ)る」
「よい橋が出来た。さぞかしご妻女殿も喜んでいることであろう」
「は。本日は主(あるじ)を務めますれば、失礼ながらお先に焼香させて頂きたく」
「うむ」
 重成は、再び礼をすると中腰になって静々と須弥壇の前に進んだ。左右に弘法大師、不動明王を従えた大日如来に向かい一礼すると、胸の位置に香を掲げる。僧侶に和して般若心経を唱えながら、三度焼香した。数珠を擦り合わせ、一礼する。
 重成が席に戻ると、頼朝が立ち上がった。同様に須弥壇の前に歩み寄り、三密(合掌する身密、お経を唱える口密、心で観想する意密)を行い、焼香を済ませた。続いて重臣たちが次々と壇に進んだ。
 橋の渡り初めで供養は完了する。馬に跨(また)がり、列を成し、橋の中ほどに差し掛かった。空はどんより曇っている。師走も末の川風が冷たく吹きつけ、手綱を持つ指がかじかむほどだった。蹄(ひづめ)の橋板を叩くカッカッという音が無数に重なり後に続いて来る。
(いつだったかな。こんなふうに橋を渡ったのは………)
 頼朝は、石橋山の合戦からこれまでの記憶を辿ってみた。古い記憶が鮮明に甦る。細い山道を駆け抜け、伊豆目代(代官)の山木兼隆の館に攻め入った。大庭勢と伊東勢に挟撃(きょうげき)され、雨の中を敗走。一旦立て直した軍勢で挑んだ合戦。再びの山中の敗走。何度も諦めかけた。死を覚悟した。真鶴(まなづる)から舟で安房(あわ)に逃れ、三浦水軍と合流した時の安堵。意を決して巻き返し、勝ち取った最初の勝利………。
(皆、あの時自分について来た者たちだ。それが今、こうして自分の後ろに従っている。だが、皆とこのように橋を渡ったのはいつだったろう。どこかで同じようなことがあった気がするが………)
 富士川の合戦以降は範頼や義経などに任せ、頼朝は関東から出なかった。関東から出たのは奥州征伐の時だ。この時ばかりは陣頭に立った。奥州制覇を夢見て前九年の役を起こした源頼義は安倍貞任(さだとう)を滅ぼしたが、覇権を握ったのは清原氏だ。宿願は頼義の子、八幡太郎義家に引き継がれた。義家は後三年の役で清原氏を倒す。だが、奥州の覇者となったのは藤原清衡(きよひら)・基衡・秀衡の奥州藤原三代だった。源氏代々の宿願を頼朝は自らの手で成就させたかったのである。あの奥州征伐の時のことかと思い出そうとした。が、記憶は霞の奥でぼやけてしまった。
(歳を取ったものだ。このところ物忘れがひどいな)
 首を振って苦笑しながら、頼朝は駒を進めた。
 もう少しで橋が尽きようとする所に差し掛かった。すぐ後ろに従っていた二頭の馬が、なぜか頼朝の前に出た。右脇にも一頭体を寄せている。後ろはと振り向くと、数騎が間を詰めていた。
(何だ?)
 頼朝は手綱を引いた。が、頼朝の馬の轡(くつわ)を持って前を歩く郎党の安達新三郞清常が、馬の進みを止めさせなかった。
「鎌倉殿」
 すぐ隣に騎乗する馴染みの顔が言った。
「どういうことだ」
「ご無礼仕る」
 言うが早いか、頼朝の乗る馬の尻をしたたかに鞭打った。
 鞭のしなる音が空気を裂くと同時に、馬が後ろ立ちになった。振り落とされそうになった頼朝は足を踏ん張り、馬の首にしがみ付く。
 馬は前脚を地に下ろすと、勢いよく駆け出した。が、前方は二頭の馬が遮(さえぎ)っている。行き場は無い。新三郞が轡を左にぐいと引いた。馬の尻を、もう一度鞭打つ音がした。新三郞が握っていた轡から手を離した。頼朝は手綱を引き絞る。だが、もう遅かった。馬はいななきながら橋の際(きわ)から河原に飛んだ。
 数メートルの高さから、頼朝は馬と一緒に落下した。
 あっという間の出来事だった。だが、頼朝には長く感じられた。落ちながら手綱を力の限り引き絞った。馬の口がこちらを向く。胴体を横にして、自分の体を馬の腹に乗せ衝撃に耐えようと図ったのだ。だが、馬は空中で無理な体勢を取らされるのを拒んだ。首を逆に振って足から落ちた。 
 着地した瞬間、馬の脚が折れた。前のめりにどうっと倒れる。頼朝は馬から宙に放り出された。体が反転して仰向く。勢いよく河原の石に叩きつけられた。ガツッという音が後頭部と背中から聞こえた。生温かい液体が首の裏を流れる。それを、頼朝は妙に生々しく感じた。


「亮ちゃん、頼朝のことは書いたの?」
 陶子に出す前の「卒論」は瑞希にも眼を通して貰った。だが、書き直しさせられたものは見せてはいない。
「いや、書けなかったよ。資料が無いし、何しろ時間が無かったから」
「何の話な?」
 羽林はビールを水のように飲む。飲みながら野菜は避けて、肉や魚といった動物性タンパク質ばかりに箸を出していた。
 瑞希が答えた。
「鎌倉時代の女性のことを『卒論』のテーマにしてたんですけど、私がついでに頼朝の死の真相究明を追加したんです」
「ついでにしては難しかテーマじゃのぉ」
 亮二は頷いた。
「そうなんです。頼朝の死んだのが建久十年正月十三日。『吾妻鏡』は死ぬ三年前から死んだ月まで欠文になってますから」
 陶子はビールから日本酒に切り替えている。九谷焼の赤い花模様の盃を唇に持って行き、左の人差し指で黒縁眼鏡を鼻筋に添って摺り上げながら言った。
「なぜ欠文になったと思う?」
「北条氏に都合の悪いことがあったからじゃないですか?」
「どんな?」
「それは………」
 亮二は、言い掛けて言葉に詰まった。
「欠文はね、その三年間だけじゃないの」
 背の後ろに置いてあったバッグを引き寄せると、陶子は中から紙片を取り出して亮二に渡した。瑞希も覗き込む。

 寿永二年(一一八三)
 建久七年(一一九六)
 建久八年
 建久九年
 建久十年正月
 仁治三年(一二四二)
 建長元年(一二四九)
 建長七年
 正元元年(一二五九)
 弘長二年(一二六二)
 文永元年(一二六四)

「『吾妻鏡』は日記風に書いているけれど、日付が飛んでる。そういうのは書くべきことが無かったからでしょうね。でも、頼朝の亡くなった建久十年正月の一ヶ月間と他の十年間は全く記述が無い。頼朝に関することだけに絞れば、仁治から後は省いていい。寿永二年は倶利伽羅峠の合戦や木曽義仲の上洛があった年で、これも排除。建久七年は十一月末の政変で関白九条兼実ら朝廷内の親幕派が土御門通親によって一掃された。この頃から朝廷側、幕府側それぞれに何らかの動きがあった可能性はある。だから建久七年十二月から建久十年正月までの二年二ヶ月に的を絞って、他のあらゆる資料から北条氏にとって都合の悪いことが何だったか、調べてみなきゃ何とも言えないでしょ。アバウトで感覚的では駄目なの。優れた感性は洞察力をも凌(しの)ぐ。せっかくいい感性持ってんだから、磨かなきゃ。そのためには徹底的に調べまくって考察すんの」
 その通りだ。亮二はぐうの音も出なかった。
「欠文のことでは、いろんな説が出てるんじゃないですか?」
 瑞希が、亮二のヒントになればと陶子に訊いた。
「あるわよ。その一、意図をもって書かなかった。その二、書いたがその部分が散逸してしまった。その三、書かれた部分を誰かが破棄した」
 羽林は黙って聞いていたが、大きな声で「ビール!」と注文すると会話に加わった。
「今残っている古典は写本じゃいうことは知っとろう? 『源氏物語』にしても『枕草子』にしても。『吾妻鏡』も吉川本、北条本、島津家本、毛利家本、前田家本など、いくらでもあるとよ。本体のあって、他は全て書写ばされて残っとると。南北朝や室町の争乱を経たわけやけん、散りぢりになっとった。それを戦国大名たちが掻き集めて自家の蔵書にしたとよ」
「すると、『散逸』説が有力なんですか?」
「ところが………」
 羽林は運ばれて来たビールを、「待ってました」とゴクゴクと喉に流し込んだ。
「本体は徳川家康が駿府城の奥深くに隠して世に出ているのはダイジェスト版。だけん欠文になっとう、いうのがその四」
「家康が?」
「家康の『吾妻鏡』愛読は有名な話。知らんかったとか」
「あ、はい。私まだ初心者なので」
「若葉マークか。なら、親切にご指導ばせんならんねぇ。もう一つあると。その五、家康が頼朝の死は名将の傷になる言うて破り捨てた」
 羽林はガハハと笑うと、またビールを水のごとく飲んだ。
「でもね、室町の応永年間だから四代将軍か、その頃に書写されたものにも欠文があるの」
 陶子は盃で飲む分、羽林よりは分量は少ない。が、回数は負けていなかった。口に含むごとに、陶子の口の滑りはよくなっている。
「だから、もともと書かれていなかったのよ」
「結局、北条氏を調べるしか手は無いってことですか」
 瑞希は亮二の力になれずに、少し肩を落とした。
「北条氏か………」
 亮二がぼそっと呟いた。
「何? 亮ちゃん」
「いや。修善寺に行った時………」
「そう言えば、亮ちゃん。クシャミしてたわよね」
「うん。北条氏と聞いて、一つピースが埋まったような気がするんだ。でも、何だろう。まだ肝腎のピースが見つからない」
「何の話をしてた時だったかしら、クシャミしたのは」
 羽林が、ん?という顔をした。
「葛西君、花粉症な?」
 瑞希が羽林に答えた。
「亮ちゃんのお宝発見サインなんです」
「お宝発見サイン?」
「その時はよく解らないんですけど、肝腎なものを嗅ぎ当てたらしい時に………」
「ハックション、か。何かトリュフば見つける豚のごたるなあ」
「羽林さん! 豚はちょっとひどくありません?」
「あはは。悪か悪か」
「確か………」
 亮二が額に右手の人差し指を押し当てて、思い出そうとしている。瑞希が思い付くことを並べた。
「洞窟の大蛇とか、何とかの奇特とか?」
「そう。それから………」
「政子の髪を見て、範頼のお墓をお参りして」
「仁田忠常………源範頼………」
 もどかしさが頭の中で渦を巻いている。亮二は靄(もや)の向こうに立つ朧(おぼろ)な影に眼を凝らそうとした。
 亮二の顔をじっと見ていた陶子が盃をくいっと空けると、さらりと言った。
「富士の巻狩り」
 亮二がはっと顔を上げた。
「そうだ! それだ!」
「どれよ」
 問う瑞希に亮二が答えた。
「曽我兄弟の仇討ちだよ」
 やっと頭が回り出した。亮二はもどかしそうに瑞希に言った。
「激しい雷雨だったんだ、その晩は。月明かりは無い。松明(たいまつ)も用を為さない。大勢の御家人たちが陣を張ってる中、どうやって目指す仇の工藤祐経の居る場所を探し当てたと思う?」
 瑞希に解る筈が無い。早く、と急き立てた。
「畠山重忠の家臣が案内したんだ」
「嘘!」
「それだけじゃない。兄の十郎は駆け付けた者を十人斬ったんだけど、この中に北条・土肥・三浦・和田・畠山の家臣は一人もいない」
「眠り込んでたんじゃないの? それとも、雷や雨の音で騒ぎが聞こえなかったか」
「頼朝だって太刀を取って身構えたくらいだ。気が付かなかった筈無いよ。十郎は仁田忠常に討たれたけど、弟の五郎は頼朝の居る本陣まで達してる。抜いたままの太刀を持ってね」
「仇討ちはカモフラージュだったってわけ?」
「いや。仇討ちはさせる。その代わりに、頼朝を狙わせた。いわば、クーデターだ」
「クーデター!」
「曽我兄弟は北条時政・三浦義澄・和田義盛・土肥遠平と縁続きだ。五郎は時政に元服させて貰い、それぞれの家の世話になってる」
「畠山重忠は?」
「妻が時政と先妻の娘で、三浦義澄の甥、和田義盛とは従兄弟同士だっただろ」
「あ、そうだった」
「工藤祐経は曽我兄弟の父、河津祐泰を殺した。だから兄弟は仇討ちをしたんだけど、河津祐泰は伊東祐親の子に当たる」
「また伊東祐親が出て来るの?」
「曽我兄弟を援助した御家人たちは娘婿だったり甥だっり、すべて祐親と繋がる人間なんだ」
「じゃあ、なぜ頼朝まで暗殺する必要があるの?」
 その答えは陶子が引き受けた。
「大姫よ」
「頼朝暗殺の原因が、娘の大姫?」
 瑞希は迷路で立ち往生しているような気分になった。


 眼の前に、ぼんやりと影が差した。
 新三郞が自分の顔を覗き込んでいる。そう認識するまでに、しばらく時間が掛かった。声を出そうとした。口から出て来たのはゴボッという音と、その音と一緒に溢れた血糊(ちのり)だった。手足を動かそうとした。が、力が入らない。頭の中の意志は途中で掻き消え、手足はだらしなく放り出されたままだ。
 新三郞の影が後ろに引いた。代わって、いくつかの影が重なって見下ろしている。中の一つの発した声が耳に木霊(こだま)した。
「息は?」
(誰の声だろう。確かに聞き覚えがあるが………)
「はい。ございます」
(これは新三の声だ)
 別の声が耳に籠もって響く。
「どうする」
(これも聞いた声だ。だが、誰だったか………)
「ひと思いに」
「いや。それはならん」
(今度は違う声がする。この耳に障る胴間声は遠ざけたい声だった筈だ)
「そうだな。後々の面倒は避けたい」
「不慮の事故なら納得せざるを得ないだろう」
(一体何の話だ。お前たちは何者だ………。頭が鈍く重い。鉛の海に浸っているようだ。ここはどこだ。儂はどうなっている。新三、ここへ参れ)
 うっすら開いていた眼に、影が揺れる。
「意識はあるようだ」
「口は利けるのか」
「解らん」
「そうなれば厄介だぞ」
「確かめてみるか」
 一つの影が覆いかぶさる。間近に顔が浮かんで見える。
(見た顔のような気がする。お前は誰だ?)
「鎌倉殿」
「………」
「眼の焦点が合ってないな」
 影が言った。
 別の声が、遠くからする。
「もう一度呼び掛けてみろ」
 影が揺れ、また鈍い頭に声が響く。
「右大将殿、これがお見えか」
(何か左右に動いているようだが………。何だろう………)
「指を追い切れん」
「そう長くは持たないか」
「おそらく」
「ならば、大丈夫だろう」
(大丈夫? 何が大丈夫なのだ)
「しかし、どう説明する」
「何のための橋供養だ。橋は古来からあの世とこの世とを繋ぐ所」
「亡霊が現れてもおかしくは無いか」
(亡霊か。そうか、お前たちは亡霊だったか。恨みを遂げに来たというのだな)
「それに、このところ体に変調もきたしていた。突然のことに対処する機敏さも衰えていただろうしな」
「体だけではないわ。やること為すこと、我らに得心のいかぬことばかりではないか」
「そう声を荒げるな。誰かに聞かれでもしたら、事だぞ」
「済まぬ。しかし………」
「言いたいことは誰にでもある。解っているだろう」
(何を言い争っている。あの世へ連れて行きたいのなら、早く連れて行け。体が丸太棒になったように動かないのだ。好きなようにすればいいではないか、亡霊どもめ)
「見られた、ということは無いだろうな」
「向こう岸からは十七間もある。いくら遠目の利くやつがいたとしても、橋から馬が落ちたぐらいのことしか見えていまい」
「このまま鎌倉まで?」
「そうだな。馬に乗せるのは無理だろう。新三郞、戸板と車の用意をしろ」
(鎌倉? ここで川に流せば楽なものを。気の利かん奴らだ。ああ、それにしても眠い。眠いな………)
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