2 / 12
第一章(二)讃岐府中鼓ヶ岡
しおりを挟む
同年八月二十六日。
四方の築地(ついじ)はかなり高い。入口は一つだけだが門は閉じられていた。門には国衙(こくが・国司の役所)の兵四人が詰めている。二人が門を警固し、もう二人が時を計って築地の周囲を巡回する。ゆっくり回っても、それほど時間は掛からない。公家の邸の広さは一町四方(三六〇〇歩。約一〇〇アール)。その四分の一が国司の邸の広さとされているが、それよりはるかに狭い。
築地の中に、「木(こ)の丸殿」と呼ばれる離宮がある。「木の丸殿」とは、六六一年、斉明天皇が朝鮮半島の百済(くだら)救援のため、遠征中の九州筑紫の朝倉郡に建てた仮宮(かりみや)のことである。丸木のまま削らずに造った粗末なものだったという。天皇であり、その後上皇となった新院の御在所としてはあまりにひどい造りであったために、こう呼ばれていた。せめて御所らしくと前庭には右近の橘(たちばな)、左近の桜が植えられいる。「木の丸殿」に住むのは新院と妻である綾高遠の娘八重、菊千代と徳子という二人の子供、京から随行して来た女房三人。出入りは朝夕二度の食事の世話をする者たちに限られていた。高遠でさえ訪れることは差し控えさせられている。月に一度、国司の役目がら藤原季能が顔を出す。だがそれも、取って付けたような挨拶だけで、そそくさと退出する。職務は忘れず履行(りこう)しているといった程度の対応でしかない。
日の替わる子の刻(ねのこく・午前〇時頃)をずいぶん過ぎていた。
額に布を巻いた新院は、昼間の発作から後ずっと床に臥(ふ)せっていた。まどろみ、うなされ、覚めてはまた波にさらわれるように夢の淵に引き摺り込まれる。だが神経は、剥き出しにされたようにヒリヒリ痛む。時折こめかみや肩の付け根、手足の指、ふくらはぎが痙攣を起こしひくついた。
何かが、新院の神経に触れた。
眼を開く。部屋の隅に黒い塊(かたまり)を感じた。
「お気づきになられましたか」
くぐもった声が、新院の足元にある。
「誰だ!」
思わず上体が跳ね起きた。
「大きな声をお出しになりませんように。もっとも、出されても困りは致しませんが」
くつくつという笑い声がその後に付け足された。
新院は眼を凝(こ)らした。声の主は月明かりの影に溶け込み、判然としなかった。体が強張(こわば)るのを覚えながら、新院は慎重に言葉を舌に乗せた。
「朕(われ)に、何の用だ」
「お命を戴きまする」
まるで物を左から右に動かすだけのように、黒い影は事もなげに言った。
新院は後ずさった。
「だ、誰の命か」
声が震えた。
「院………」
「雅仁、か」
まさか、と思った。
「何ゆえじゃ」
「………」
「朕が何をした。こうして島に流され、息をひそめて生きているだけではないか」
「都では、そう思っておりません」
「どう思っているというのだ」
「大乗経でございます」
「大乗経?」
「新院様が書写なされた………」
「鳥羽陵に奉納を願った、あの大乗経か?」
黒い影が頷く。
「その奥付きに、新院様自らが指を食い切り流れる血をもって書いた呪詛の誓文があったと」
新院は、唖然とした。大乗経は華厳(けごん)経、大集(だいじっ)経、大品般若(だいほんはんにゃ)経、法華経、涅槃(ねはん)経の五部から成る。これを書写するのに三年を費やした。その大乗経を奉納することで、亡き父や母、生命を落とした多くの人々、いまだ争いを続ける者たちに功徳あれと願ったのだ。だが、後白河院や信西は拒否した。奉納の拒絶は自分の存在を否定されたに等しい。確かに恨みの心は生まれたが、それは拒絶された後のことだ。奉納する大乗経に呪詛の誓文など書ける筈も無い。
「都では新院様のご様子を知るべく、平康頼様を讃岐に遣わしました」
「確かに康頼は参った」
「康頼様によれば、新院様は髪も爪も切らず伸ばすがまま。顔色は黄ばみ、眼は窪んで痩せ衰え、さながら悪鬼の形相でこう仰せられた、と」
「康頼が何と申したというのじゃ」
「朕、勅命に背きすでに断罪に伏す。恩赦を願えどもご許容無く、心忍びがたきあまり仏道修行を企たるなり。後世(ごぜ)のためにと書きたてまつる大乗経の置き所を惜しむとあらば、後世までの敵とござんなれ。朕、生きても無益なり。この上は三悪道に堕ち、日本国の大魔王となって皇(おう)を取って民となし、民を皇となさん………と」
新院は呆れて、言葉も無かった。
「新院様のお声のおぞましさ、ご様子の凄まじさに、康頼様は慌てて退出されたとか」
「康頼め。ようもようも、そのようなことを………」
「康頼様は畏れ多くて、まともに新院様のお顔も見れなかったと推察致します。ですが、報告はせねばなりません。事実はいかようにも作れます。また都の望んでいたものも、事実ではなく口実」
「朕が邪魔だというのか」
「………」
「邪魔なものは排除する。それが雅仁のやり方か!」
「私は命に従うのみ」
「納得出来ぬ」
「必要なのは、納得ではございません。お覚悟だけです」
「覚悟しようとしまいと、命は絶つのであろう」
「………」
「朕だけではないな、狙われたのは」
くつくつと、また笑い声がした。
「信西殿」
「何? あの信西をか!」
「平治の乱の折に」
保元の乱の二年後、後白河天皇は子の守仁(もりひと)親王に譲位し、院政を復活させた。その後白河院の右腕として実権を握っていたのが信西である。
天皇の摂関家として藤原氏は長い間政界を牛耳(ぎゅうじ)って来た。天皇の政務を支えるという名目の摂関政治は、実は天皇を蔑(ないがし)ろにしたものに過ぎない。天皇はただの飾りであり、天皇でいる以上摂関家の言いなりなのだ。そこで後白河院の祖父白河天皇は、譲位して上皇になると院の御所で政治を執るようにした。これが院政である。藤原氏の摂関政治と上皇の院政の二重政権。そのいびつな権力争いが、ついに保元の乱を引き起こすことになった。
乱の後、再び院政が始まると、藤原氏の弱体化を図る信西は台頭して来た平清盛と手を組んだ。清盛は政治手腕に長(た)けている。渡りに舟と信西の力を利用しようとした。一方、代々藤原摂関家に臣従して来た源氏は、次第に追いやられた。保元の乱の恩賞も、戦功第一の源義朝よりは清盛や平氏一門に厚かった。義朝に不満が残る。
後白河院は信西の政治的手腕は認めていたが、その人間性が嫌いだった。万事につけ白黒を着けたがる。ふくみや広がり、淡いというものを全く理解しない。数の論理でしか物事を見ない、いわば無粋な男だった。名手乙前(おとまえ)を召して今様(いまよう・謡い舞う歌謡芸能)に遊ぶ後白河院を「和漢ノ間、比類ナキ暗主ナリ」とまで酷評した。乳母夫であるから重用はしていたが、その声を聞くだに虫酸(むしず)が走る。そこで後白河院は、近臣の藤原信頼を寵愛することで信西と対立させることにした。事あるごとに両者は反目する。信頼が近衛大将の任を望んだ時には、信西は信頼を「謀反の臣」と罵(ののし)り断固これを阻止した。日に日に信頼に憎悪が募(つの)る。
平治元年(一一五九年)十二月四日、平清盛・重盛親子は熊野詣(もう)でに出掛けた。九日夜半、この機を逃さず源義朝と藤原信頼が挙兵する。保元の乱のわずか三年後のことである。
信西は姉小路西洞院の自邸から奈良へ向けて逃走する。だが伊賀と山城の境、田原郷で発見された。刎ねられた信西の首は獄門に掛けられ晒されたという。
一方、本拠地六波羅に戻った清盛は抜け目無く手を打った。信頼に「異心無し」と誓いを立てるその裏で、前関白藤原忠通を呼び寄せ、信頼方の公家たちを抱き込む。そうして密かに天皇を六波羅の邸に迎え入れ、ついに信頼・義朝追討の宣旨(せんじ)を出させることに成功した。
二十六日、堂々と朝廷軍を率いた清盛は、大内裏(だいだいり・皇居である内裏を中心に周囲に官庁を配した一郭)に立て籠もる義朝を攻めた。逆賊の汚名を着せられた義朝軍は一度は平氏の軍を退けはしたものの孤立するしかない。裏切りに遭い敗走した。義朝は尾張の国(現在の愛知県西部)で旧臣の手によって殺された。
「信西殿は穴の中で震えておりましたな。小者に密告されたとも知らずに頭を隠して」
「信西を密告したのは、そなたの………」
「間者を放つは古来からの定法(じょうほう)。糸を手繰(たぐ)るだけでようございます。小者は私の糸、その私も一本の糸に過ぎません。糸の元を握る院にとりまして、もう一つ思いの外(ほか)の事がございました」
「思いの外の事?」
「院は争乱を避け、仁和寺に逃れておられました。そこに信頼様が助命を願って参られたのです。その時、信頼様を捕らえ斬首するよう命じたのは、他ならぬ院ご本人」
「何だと!」
新院は絶句した。寵愛していた者が命乞いに来たのだ。いくら何でも人間のすることではない。
「何故じゃ! 信頼は雅仁の信を得ていた者ではないか!」
「信頼様は朝敵となられました。朝敵をかばえば立場が危うい。今後に障(さわ)ります」
「自分の可愛がっていた者まで手に掛けるのか!」
「残るは………」
「まだいるのか」
「平清盛殿」
「清盛? 清盛は今や飛ぶ鳥を落とす勢いではないか」
「時期が来ますれば、いずれ」
「何を考えているのだ、雅仁は」
「清盛殿は大き過ぎる野心を持っておられる。目的のためには手段を選ばぬ、恐ろしいお方です。保元の乱後の処刑のことはお聞き及びでしょうか」
「聞いた」
「信西殿の命により、清盛殿は伯父や従兄を斬らされました。しかしながら、それも計算の内」
「計算?」
「清盛殿は『引き算の得』を取られたのです」
「どういうことだ」
「身内の首を刎ねたい者など、どこにおりましょう。みなが躊躇(ためら)う中、『我がまず』と進み出たのが清盛殿。いかにも涙を呑んで、といった顔つきをなさりながら」
「それで」
「清盛殿が口火を切ったとあらば、後に続かないわけには参りません。青ざめた顔で義朝殿が立ち上がりました」
「義朝は確か………」
「失ったものは清盛殿が縁者、義朝殿は直系の父。しかも勇猛な弟、為朝殿は伊豆大島へ配流」
「あっ!」
「お分かりですか。いずれ義朝殿と敵対すると見越しての『引き算の得』。あるいは、信西殿と意を通じていたのやも知れません」
「な、何という………」
「院にとりまして清盛殿は、危険な目の上の瘤(こぶ)。瘤は大きくなり過ぎる前に機を見て除去しなければなりません。清盛殿がいなくなれば、保元以来の働き手はすっかりいなくなる。院は思い切り腕を振るうことがお出来になる」
「く、狂っている………」
「狂っているのは、この世すべてでございましょう。院は常々口にしております。この世は今様だ、と。今様を謡うも、この世を生きるも、同じことだと」
新院は口をつぐんだ。もう何を言っても始まらない。人も世も車軸を失くし迷走しているのだ。雅仁や信西、清盛ばかりではない。曽祖父白河法皇も父鳥羽院も、そうして母も自分も………。自分の想いなど誰にも届かないではないか。どんなに耐え忍び、どんなに言葉を尽くしても道は逸(そ)れ、入りたくもない袋小路に追い込まれてしまった。自分がこの世に生まれて来たこと自体が、すでに過ちであったのだ………。
「お訊きになりたいことは、もうございませんか」
「先ほど妙なことを申したな。声を出しても困らぬと」
「………」
「まさか………」
「みなではありません。他は当て身にて眠らせております」
新院の顔から血の気が失せた。
「誰を手に掛けた!」
「新院様の血を引く者」
「菊千代と徳子をか!」
新院の形相が一変した。
「オウ、オウ、オウ!」
絶叫がほとばしり出た。手元の木枕を投げつける。黒い影はわずかに動いただけで身をかわすと、瞬く間に新院の背後を取った。太い腕が新院の喉に食い込む。必死に外そうとしたが、ますます喉が締め上げられる。喉がヒュウヒュウと鳴る。気が遠くに行き掛かった。
何かを取り出そうとしたのか、首に十文字に絡み付いていた腕の片方が外れた。ほんの少し隙間が出来た。その隙間に両手の指をねじ込む。息が継げた。眼の下に丸く引き攣れた傷跡がある。その傷跡に噛み付き、力任せに食いちぎった。一瞬、腕がゆるむ。新院は頭を仰(の)け反らせ、腕から滑り抜けた。体の離れ際に黒い塊をしたたかに蹴り、庭に転がり出る。走った。開いたままの門の脇に兵が倒れている。それを横に見ながら門を駆け抜けた。
国衙まで行けば何とかなる。数町先だ。走れ!
田の畦(あぜ)に入った。背に何か衝撃を感じた。脚がもつれる。体がもんどり打って田に落ちた。入らない力を振り絞る。這い上がる。眼の前に黒い影が立っている。
「ここまででございます」
黒い影から、白い光が放たれた。
今度は胸の中心に衝撃があった。冷たい火が胸を貫く。心の臓がトクンと最後の音とともに凝固した。肺が呼吸を忘れた。体中の筋肉が痙攣し硬直してゆく。
「おのれ………。雅仁に伝えよ。お前の為したことは、非道じゃ。非道には非道をもって報いてやると………」
悪鬼のように髪を振り乱し、新院は黒い影を、黒い影の向こうにいる後白河院を睨み据えた。
力が抜け落ちる。月の浮かぶ天が傾いでゆく………。
体が地に着くまでの間が、新院にはとてつもなく永かった。今まで生きて来た以上に永かった。ああ自分は今、奈落に堕ちているのだと思った。
四方の築地(ついじ)はかなり高い。入口は一つだけだが門は閉じられていた。門には国衙(こくが・国司の役所)の兵四人が詰めている。二人が門を警固し、もう二人が時を計って築地の周囲を巡回する。ゆっくり回っても、それほど時間は掛からない。公家の邸の広さは一町四方(三六〇〇歩。約一〇〇アール)。その四分の一が国司の邸の広さとされているが、それよりはるかに狭い。
築地の中に、「木(こ)の丸殿」と呼ばれる離宮がある。「木の丸殿」とは、六六一年、斉明天皇が朝鮮半島の百済(くだら)救援のため、遠征中の九州筑紫の朝倉郡に建てた仮宮(かりみや)のことである。丸木のまま削らずに造った粗末なものだったという。天皇であり、その後上皇となった新院の御在所としてはあまりにひどい造りであったために、こう呼ばれていた。せめて御所らしくと前庭には右近の橘(たちばな)、左近の桜が植えられいる。「木の丸殿」に住むのは新院と妻である綾高遠の娘八重、菊千代と徳子という二人の子供、京から随行して来た女房三人。出入りは朝夕二度の食事の世話をする者たちに限られていた。高遠でさえ訪れることは差し控えさせられている。月に一度、国司の役目がら藤原季能が顔を出す。だがそれも、取って付けたような挨拶だけで、そそくさと退出する。職務は忘れず履行(りこう)しているといった程度の対応でしかない。
日の替わる子の刻(ねのこく・午前〇時頃)をずいぶん過ぎていた。
額に布を巻いた新院は、昼間の発作から後ずっと床に臥(ふ)せっていた。まどろみ、うなされ、覚めてはまた波にさらわれるように夢の淵に引き摺り込まれる。だが神経は、剥き出しにされたようにヒリヒリ痛む。時折こめかみや肩の付け根、手足の指、ふくらはぎが痙攣を起こしひくついた。
何かが、新院の神経に触れた。
眼を開く。部屋の隅に黒い塊(かたまり)を感じた。
「お気づきになられましたか」
くぐもった声が、新院の足元にある。
「誰だ!」
思わず上体が跳ね起きた。
「大きな声をお出しになりませんように。もっとも、出されても困りは致しませんが」
くつくつという笑い声がその後に付け足された。
新院は眼を凝(こ)らした。声の主は月明かりの影に溶け込み、判然としなかった。体が強張(こわば)るのを覚えながら、新院は慎重に言葉を舌に乗せた。
「朕(われ)に、何の用だ」
「お命を戴きまする」
まるで物を左から右に動かすだけのように、黒い影は事もなげに言った。
新院は後ずさった。
「だ、誰の命か」
声が震えた。
「院………」
「雅仁、か」
まさか、と思った。
「何ゆえじゃ」
「………」
「朕が何をした。こうして島に流され、息をひそめて生きているだけではないか」
「都では、そう思っておりません」
「どう思っているというのだ」
「大乗経でございます」
「大乗経?」
「新院様が書写なされた………」
「鳥羽陵に奉納を願った、あの大乗経か?」
黒い影が頷く。
「その奥付きに、新院様自らが指を食い切り流れる血をもって書いた呪詛の誓文があったと」
新院は、唖然とした。大乗経は華厳(けごん)経、大集(だいじっ)経、大品般若(だいほんはんにゃ)経、法華経、涅槃(ねはん)経の五部から成る。これを書写するのに三年を費やした。その大乗経を奉納することで、亡き父や母、生命を落とした多くの人々、いまだ争いを続ける者たちに功徳あれと願ったのだ。だが、後白河院や信西は拒否した。奉納の拒絶は自分の存在を否定されたに等しい。確かに恨みの心は生まれたが、それは拒絶された後のことだ。奉納する大乗経に呪詛の誓文など書ける筈も無い。
「都では新院様のご様子を知るべく、平康頼様を讃岐に遣わしました」
「確かに康頼は参った」
「康頼様によれば、新院様は髪も爪も切らず伸ばすがまま。顔色は黄ばみ、眼は窪んで痩せ衰え、さながら悪鬼の形相でこう仰せられた、と」
「康頼が何と申したというのじゃ」
「朕、勅命に背きすでに断罪に伏す。恩赦を願えどもご許容無く、心忍びがたきあまり仏道修行を企たるなり。後世(ごぜ)のためにと書きたてまつる大乗経の置き所を惜しむとあらば、後世までの敵とござんなれ。朕、生きても無益なり。この上は三悪道に堕ち、日本国の大魔王となって皇(おう)を取って民となし、民を皇となさん………と」
新院は呆れて、言葉も無かった。
「新院様のお声のおぞましさ、ご様子の凄まじさに、康頼様は慌てて退出されたとか」
「康頼め。ようもようも、そのようなことを………」
「康頼様は畏れ多くて、まともに新院様のお顔も見れなかったと推察致します。ですが、報告はせねばなりません。事実はいかようにも作れます。また都の望んでいたものも、事実ではなく口実」
「朕が邪魔だというのか」
「………」
「邪魔なものは排除する。それが雅仁のやり方か!」
「私は命に従うのみ」
「納得出来ぬ」
「必要なのは、納得ではございません。お覚悟だけです」
「覚悟しようとしまいと、命は絶つのであろう」
「………」
「朕だけではないな、狙われたのは」
くつくつと、また笑い声がした。
「信西殿」
「何? あの信西をか!」
「平治の乱の折に」
保元の乱の二年後、後白河天皇は子の守仁(もりひと)親王に譲位し、院政を復活させた。その後白河院の右腕として実権を握っていたのが信西である。
天皇の摂関家として藤原氏は長い間政界を牛耳(ぎゅうじ)って来た。天皇の政務を支えるという名目の摂関政治は、実は天皇を蔑(ないがし)ろにしたものに過ぎない。天皇はただの飾りであり、天皇でいる以上摂関家の言いなりなのだ。そこで後白河院の祖父白河天皇は、譲位して上皇になると院の御所で政治を執るようにした。これが院政である。藤原氏の摂関政治と上皇の院政の二重政権。そのいびつな権力争いが、ついに保元の乱を引き起こすことになった。
乱の後、再び院政が始まると、藤原氏の弱体化を図る信西は台頭して来た平清盛と手を組んだ。清盛は政治手腕に長(た)けている。渡りに舟と信西の力を利用しようとした。一方、代々藤原摂関家に臣従して来た源氏は、次第に追いやられた。保元の乱の恩賞も、戦功第一の源義朝よりは清盛や平氏一門に厚かった。義朝に不満が残る。
後白河院は信西の政治的手腕は認めていたが、その人間性が嫌いだった。万事につけ白黒を着けたがる。ふくみや広がり、淡いというものを全く理解しない。数の論理でしか物事を見ない、いわば無粋な男だった。名手乙前(おとまえ)を召して今様(いまよう・謡い舞う歌謡芸能)に遊ぶ後白河院を「和漢ノ間、比類ナキ暗主ナリ」とまで酷評した。乳母夫であるから重用はしていたが、その声を聞くだに虫酸(むしず)が走る。そこで後白河院は、近臣の藤原信頼を寵愛することで信西と対立させることにした。事あるごとに両者は反目する。信頼が近衛大将の任を望んだ時には、信西は信頼を「謀反の臣」と罵(ののし)り断固これを阻止した。日に日に信頼に憎悪が募(つの)る。
平治元年(一一五九年)十二月四日、平清盛・重盛親子は熊野詣(もう)でに出掛けた。九日夜半、この機を逃さず源義朝と藤原信頼が挙兵する。保元の乱のわずか三年後のことである。
信西は姉小路西洞院の自邸から奈良へ向けて逃走する。だが伊賀と山城の境、田原郷で発見された。刎ねられた信西の首は獄門に掛けられ晒されたという。
一方、本拠地六波羅に戻った清盛は抜け目無く手を打った。信頼に「異心無し」と誓いを立てるその裏で、前関白藤原忠通を呼び寄せ、信頼方の公家たちを抱き込む。そうして密かに天皇を六波羅の邸に迎え入れ、ついに信頼・義朝追討の宣旨(せんじ)を出させることに成功した。
二十六日、堂々と朝廷軍を率いた清盛は、大内裏(だいだいり・皇居である内裏を中心に周囲に官庁を配した一郭)に立て籠もる義朝を攻めた。逆賊の汚名を着せられた義朝軍は一度は平氏の軍を退けはしたものの孤立するしかない。裏切りに遭い敗走した。義朝は尾張の国(現在の愛知県西部)で旧臣の手によって殺された。
「信西殿は穴の中で震えておりましたな。小者に密告されたとも知らずに頭を隠して」
「信西を密告したのは、そなたの………」
「間者を放つは古来からの定法(じょうほう)。糸を手繰(たぐ)るだけでようございます。小者は私の糸、その私も一本の糸に過ぎません。糸の元を握る院にとりまして、もう一つ思いの外(ほか)の事がございました」
「思いの外の事?」
「院は争乱を避け、仁和寺に逃れておられました。そこに信頼様が助命を願って参られたのです。その時、信頼様を捕らえ斬首するよう命じたのは、他ならぬ院ご本人」
「何だと!」
新院は絶句した。寵愛していた者が命乞いに来たのだ。いくら何でも人間のすることではない。
「何故じゃ! 信頼は雅仁の信を得ていた者ではないか!」
「信頼様は朝敵となられました。朝敵をかばえば立場が危うい。今後に障(さわ)ります」
「自分の可愛がっていた者まで手に掛けるのか!」
「残るは………」
「まだいるのか」
「平清盛殿」
「清盛? 清盛は今や飛ぶ鳥を落とす勢いではないか」
「時期が来ますれば、いずれ」
「何を考えているのだ、雅仁は」
「清盛殿は大き過ぎる野心を持っておられる。目的のためには手段を選ばぬ、恐ろしいお方です。保元の乱後の処刑のことはお聞き及びでしょうか」
「聞いた」
「信西殿の命により、清盛殿は伯父や従兄を斬らされました。しかしながら、それも計算の内」
「計算?」
「清盛殿は『引き算の得』を取られたのです」
「どういうことだ」
「身内の首を刎ねたい者など、どこにおりましょう。みなが躊躇(ためら)う中、『我がまず』と進み出たのが清盛殿。いかにも涙を呑んで、といった顔つきをなさりながら」
「それで」
「清盛殿が口火を切ったとあらば、後に続かないわけには参りません。青ざめた顔で義朝殿が立ち上がりました」
「義朝は確か………」
「失ったものは清盛殿が縁者、義朝殿は直系の父。しかも勇猛な弟、為朝殿は伊豆大島へ配流」
「あっ!」
「お分かりですか。いずれ義朝殿と敵対すると見越しての『引き算の得』。あるいは、信西殿と意を通じていたのやも知れません」
「な、何という………」
「院にとりまして清盛殿は、危険な目の上の瘤(こぶ)。瘤は大きくなり過ぎる前に機を見て除去しなければなりません。清盛殿がいなくなれば、保元以来の働き手はすっかりいなくなる。院は思い切り腕を振るうことがお出来になる」
「く、狂っている………」
「狂っているのは、この世すべてでございましょう。院は常々口にしております。この世は今様だ、と。今様を謡うも、この世を生きるも、同じことだと」
新院は口をつぐんだ。もう何を言っても始まらない。人も世も車軸を失くし迷走しているのだ。雅仁や信西、清盛ばかりではない。曽祖父白河法皇も父鳥羽院も、そうして母も自分も………。自分の想いなど誰にも届かないではないか。どんなに耐え忍び、どんなに言葉を尽くしても道は逸(そ)れ、入りたくもない袋小路に追い込まれてしまった。自分がこの世に生まれて来たこと自体が、すでに過ちであったのだ………。
「お訊きになりたいことは、もうございませんか」
「先ほど妙なことを申したな。声を出しても困らぬと」
「………」
「まさか………」
「みなではありません。他は当て身にて眠らせております」
新院の顔から血の気が失せた。
「誰を手に掛けた!」
「新院様の血を引く者」
「菊千代と徳子をか!」
新院の形相が一変した。
「オウ、オウ、オウ!」
絶叫がほとばしり出た。手元の木枕を投げつける。黒い影はわずかに動いただけで身をかわすと、瞬く間に新院の背後を取った。太い腕が新院の喉に食い込む。必死に外そうとしたが、ますます喉が締め上げられる。喉がヒュウヒュウと鳴る。気が遠くに行き掛かった。
何かを取り出そうとしたのか、首に十文字に絡み付いていた腕の片方が外れた。ほんの少し隙間が出来た。その隙間に両手の指をねじ込む。息が継げた。眼の下に丸く引き攣れた傷跡がある。その傷跡に噛み付き、力任せに食いちぎった。一瞬、腕がゆるむ。新院は頭を仰(の)け反らせ、腕から滑り抜けた。体の離れ際に黒い塊をしたたかに蹴り、庭に転がり出る。走った。開いたままの門の脇に兵が倒れている。それを横に見ながら門を駆け抜けた。
国衙まで行けば何とかなる。数町先だ。走れ!
田の畦(あぜ)に入った。背に何か衝撃を感じた。脚がもつれる。体がもんどり打って田に落ちた。入らない力を振り絞る。這い上がる。眼の前に黒い影が立っている。
「ここまででございます」
黒い影から、白い光が放たれた。
今度は胸の中心に衝撃があった。冷たい火が胸を貫く。心の臓がトクンと最後の音とともに凝固した。肺が呼吸を忘れた。体中の筋肉が痙攣し硬直してゆく。
「おのれ………。雅仁に伝えよ。お前の為したことは、非道じゃ。非道には非道をもって報いてやると………」
悪鬼のように髪を振り乱し、新院は黒い影を、黒い影の向こうにいる後白河院を睨み据えた。
力が抜け落ちる。月の浮かぶ天が傾いでゆく………。
体が地に着くまでの間が、新院にはとてつもなく永かった。今まで生きて来た以上に永かった。ああ自分は今、奈落に堕ちているのだと思った。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる