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そうして婚姻契約の取り交わしが進むかたわら、マリアベルの日々も一気に慌ただしくなった。
式服の仕立て、招待客の確認、式次第のすり合わせ。侍女たちに支度を急かされる毎日だったが、それでもマリアベルの足取りと心は羽根のように軽かった。
やるべきことが山のようにある中、侍女長からは「くれぐれも夜更かしなどはされませんように」と釘を刺されたが、するわけがなかった。床につく時間が早ければ早いほど、テオドールとの日々が近づくのだから。マリアベルは大抵のことを昼のうちにさっさと終わらせて、夜はたっぷりと眠る毎日を過ごした。
そして、ついに訪れた婚礼の日。
王都の大聖堂で永遠の愛を誓うふたりの頭上に、祝福の鐘が鳴り響く。
親族や客人に囲まれながら、テオドールは慣れない笑みを浮かべ、それでもマリアベルの手だけは決して離さなかった。
夢のような1日は、瞬きのうちに過ぎていき。
侍女たちも下がった新居の一室に残されたのは、マリアベルとテオドールのふたりだけだった。
きらびやかな大広間とは違い、マリアベルのために設えられた寝室は落ち着いた灯りに包まれている。
長い1日を終えた疲労と、それとは別種の緊張が胸の奥で同居していた。
「マリアベル」
名を呼ばれて、マリアベルは姿勢を正す。
テオドールは少し考えるように視線を落とし、やがて正面からマリアベルを見つめた。
「正直なところ、私はまだ貴女のことを十分に知っているとは言えません。私たちにあるのは、両家の結びつきと、書面のやり取りと、年に数度ご一緒した社交の時間だけです」
「……はい」
マリアベルは素直に頷いた。
その時間は決して悪いものではなかったと信じているし、彼の言葉がまだ続くとわかっていたから。
「ですが──私は貴女との夫婦関係を、良いものにしていきたいと考えています」
テオドールの眼差しが、まっすぐにマリアベルを射抜く。
落ち着いた声音で紡がれる言葉には、一切の見栄や虚飾が滲まない。
本当にこのひとは美しい──そう思いながら、マリアベルは微笑みを浮かべた。
「……まだ知らないことがあるというのは、とても良いことですわ」
そう言うと、テオドールは真意を図りかねるように微かに眉を寄せる。
「だって、好きになれるところがたくさん残っているということですもの。これからもっとテオドール様のことを好きになれるなら、それより嬉しいことはございません」
「マリアベル……」
青い瞳が一瞬見開かれ、それからわずかに細くなる。
それが彼なりの笑みなのだと、マリアベルは知っていた。
テオドールの手が、そっとマリアベルの手を取った。
長い指先がなぞるように触れてきて、その感覚に心臓がどきりと跳ねる。
──きた。間違いなく、きたわ。
結婚初日。夜。ふたりきり。甘い雰囲気。重ねた温もり。
ここまで条件が揃っていて、そのさきに進まないはずがない。少なくとも、ロマンス小説の中にそんな夜はない。
マリアベルは頭の半分で勝利の鐘を鳴らしながら、もう半分で一旦ここで清純っぽいふるまいをしておこう、と冷静に打算をする。
重なる手のひらにそっと指を絡めつつ、マリアベルは恥じらうように瞳を伏せた。
すると頭上で、ふっとテオドールの吐息が漏れた。
「今日は長い1日でしたね」
そんな言葉が囁かれる。
相槌を打つより早く、優しい感触がマリアベルの額へと落ちた。
祝福のような、慈しむようなごくごく軽い口づけだった。
「貴女もお疲れでしょう。今夜はゆっくり休んでください」
「……へ?」
思わず間抜けな声が出る。
けれど、彼の態度はひるがえらなかった。
「おやすみなさい、マリアベル」
柔らかな声でそう告げると、テオドールは一礼を残して寝室の扉へ向かってしまう。
扉が閉まる音を聞いたあとも、マリアベルはしばらく動けなかった。彼に取られていた手がそのまま宙に浮いている。
──え? 今日、初夜は……
胸の奥で、砕かれた期待と湧き出る落胆がぐるぐると混ざり合う。
「……いえ! それでこそテオドール様だわ!」
マリアベルは勢いよく両拳を握った。
そう。彼は真面目で誠実で高潔な男性だ。1日がかりの式のあとに、花嫁をがっつくようなことはしないのである。
本当に素敵な旦那様だ、とマリアベルは恍惚と吐息を漏らした。
大丈夫。夫婦生活は始まったばかりである。
テオドールも良い関係を築いていくと言ってくれた。
だからそう、不安になることはない。
きっとすぐにでも──
そして、なにも起きずに半年が経過した。
式服の仕立て、招待客の確認、式次第のすり合わせ。侍女たちに支度を急かされる毎日だったが、それでもマリアベルの足取りと心は羽根のように軽かった。
やるべきことが山のようにある中、侍女長からは「くれぐれも夜更かしなどはされませんように」と釘を刺されたが、するわけがなかった。床につく時間が早ければ早いほど、テオドールとの日々が近づくのだから。マリアベルは大抵のことを昼のうちにさっさと終わらせて、夜はたっぷりと眠る毎日を過ごした。
そして、ついに訪れた婚礼の日。
王都の大聖堂で永遠の愛を誓うふたりの頭上に、祝福の鐘が鳴り響く。
親族や客人に囲まれながら、テオドールは慣れない笑みを浮かべ、それでもマリアベルの手だけは決して離さなかった。
夢のような1日は、瞬きのうちに過ぎていき。
侍女たちも下がった新居の一室に残されたのは、マリアベルとテオドールのふたりだけだった。
きらびやかな大広間とは違い、マリアベルのために設えられた寝室は落ち着いた灯りに包まれている。
長い1日を終えた疲労と、それとは別種の緊張が胸の奥で同居していた。
「マリアベル」
名を呼ばれて、マリアベルは姿勢を正す。
テオドールは少し考えるように視線を落とし、やがて正面からマリアベルを見つめた。
「正直なところ、私はまだ貴女のことを十分に知っているとは言えません。私たちにあるのは、両家の結びつきと、書面のやり取りと、年に数度ご一緒した社交の時間だけです」
「……はい」
マリアベルは素直に頷いた。
その時間は決して悪いものではなかったと信じているし、彼の言葉がまだ続くとわかっていたから。
「ですが──私は貴女との夫婦関係を、良いものにしていきたいと考えています」
テオドールの眼差しが、まっすぐにマリアベルを射抜く。
落ち着いた声音で紡がれる言葉には、一切の見栄や虚飾が滲まない。
本当にこのひとは美しい──そう思いながら、マリアベルは微笑みを浮かべた。
「……まだ知らないことがあるというのは、とても良いことですわ」
そう言うと、テオドールは真意を図りかねるように微かに眉を寄せる。
「だって、好きになれるところがたくさん残っているということですもの。これからもっとテオドール様のことを好きになれるなら、それより嬉しいことはございません」
「マリアベル……」
青い瞳が一瞬見開かれ、それからわずかに細くなる。
それが彼なりの笑みなのだと、マリアベルは知っていた。
テオドールの手が、そっとマリアベルの手を取った。
長い指先がなぞるように触れてきて、その感覚に心臓がどきりと跳ねる。
──きた。間違いなく、きたわ。
結婚初日。夜。ふたりきり。甘い雰囲気。重ねた温もり。
ここまで条件が揃っていて、そのさきに進まないはずがない。少なくとも、ロマンス小説の中にそんな夜はない。
マリアベルは頭の半分で勝利の鐘を鳴らしながら、もう半分で一旦ここで清純っぽいふるまいをしておこう、と冷静に打算をする。
重なる手のひらにそっと指を絡めつつ、マリアベルは恥じらうように瞳を伏せた。
すると頭上で、ふっとテオドールの吐息が漏れた。
「今日は長い1日でしたね」
そんな言葉が囁かれる。
相槌を打つより早く、優しい感触がマリアベルの額へと落ちた。
祝福のような、慈しむようなごくごく軽い口づけだった。
「貴女もお疲れでしょう。今夜はゆっくり休んでください」
「……へ?」
思わず間抜けな声が出る。
けれど、彼の態度はひるがえらなかった。
「おやすみなさい、マリアベル」
柔らかな声でそう告げると、テオドールは一礼を残して寝室の扉へ向かってしまう。
扉が閉まる音を聞いたあとも、マリアベルはしばらく動けなかった。彼に取られていた手がそのまま宙に浮いている。
──え? 今日、初夜は……
胸の奥で、砕かれた期待と湧き出る落胆がぐるぐると混ざり合う。
「……いえ! それでこそテオドール様だわ!」
マリアベルは勢いよく両拳を握った。
そう。彼は真面目で誠実で高潔な男性だ。1日がかりの式のあとに、花嫁をがっつくようなことはしないのである。
本当に素敵な旦那様だ、とマリアベルは恍惚と吐息を漏らした。
大丈夫。夫婦生活は始まったばかりである。
テオドールも良い関係を築いていくと言ってくれた。
だからそう、不安になることはない。
きっとすぐにでも──
そして、なにも起きずに半年が経過した。
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