政略結婚した侯爵様が「義務だから」と抱いてきますが、顔が良すぎて抗えません

日野ひなこ

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第7話 氷と温室、薫る古書 ①

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 コレットに導かれ、イレーネが訪れたのは東側の静かな一角だった。

「こちらが、屋敷の書庫でございます」

 重厚な扉を押し開けると、乾いた紙と古いインクの匂いがふわりと漂ってきた。

「まあ……」

 思わず、感嘆の声が漏れる。

 吹き抜けの天井まで届く書棚が、壁一面を埋め尽くしていた。整然と並ぶ書物の背は、長年の手入れを物語るように色褪せず、高窓から差し込む自然光が床にのみ淡い光を落としている。
 窓際には、小さな机と椅子がひと組み。読書用に置かれたらしき、どこか素朴なその家具が、重厚な空間に温かさを添えていた。

「ラインヴェルク侯爵家は代々読書家の方が多く、本の収集と管理には力を入れているんです」
「それは、クラウス様も?」
「はい。旦那様もよく出入りされていらっしゃいますよ。我々も常に整えるよう心がけております」

 軽く見渡しただけでも、彼女の言葉の通り、この空間が丁重に維持されていることがイレーネにもよくわかった。
 軍事や歴史、政治に関する書物のほかに、一角には詩集や古い童話集まで置かれ、その区別も申し分ない。使用人の数は少ないと言っていたが、きちんと管理がされている。さすがは侯爵家で働く者たちだ。

「お好きな本がありましたら、どうぞご自由にお読みくださいませ。奥様用の鍵もご用意してあります」

 コレットの笑顔に、イレーネも小さく笑みを返した。

「ありがとう。本は好きよ」
「それは良かったです! あ、紅茶などお持ちしましょうか?」
「お願いできるかしら。……しばらく、ここにいても?」
「もちろんです、奥様」

 微笑みとともに一礼すると、コレットはすぐに踵を返した。扉が閉まる重い音をひとつ残して、部屋に静寂が戻る。
 イレーネは窓際の机に近づくと、その表面を撫でながらひとつ深呼吸をした。
 古書独特の匂いが、肺の奥に染み込んでいく。

 幼い頃──兄の腕の中で、本を読みふけった記憶が自然と脳裏に蘇った。

 6つ上の兄は優しく、イレーネを可愛がってくれた。
 美しい王子様や、身分違いの恋や、国を越えた愛を描いた物語ばかりに夢中になっていたイレーネは、もっと勉強に役立つものを読みなさいと両親からはよく窘められた。それでも兄は全寮制のアカデミーから戻るたびに、「父様と母様には内緒だよ」と笑いながら、当時王都で流行していた恋愛小説を買ってきてくれたのだ。
 思い返してみれば、イレーネがどうにも美形に弱いのは恋愛小説による刷り込みのせいかもしれない。

 ふ、と唇から漏れたのは、ため息というよりも笑みに近いものだった。

「……お兄様」

 そう呼びかけるのは、いつ以来だっただろう。
 けれど、応える者はもういない。

 イレーネは静かに顔を伏せ──ふと、どこかから風が流れるような気がした。
 気のせいかと思いながらも、イレーネは惹かれるように歩き出し、まだ足を踏み入れていなかった一角へと向かう。

 書庫の奥。石造りの階段を下り、ひとつ曲がった壁の向こう。
 開けた視界に飛び込んできた光景に、イレーネは小さく息をのむ。

 そこには、小さな、けれど陽だまりのように暖かな場所が広がっていた。

「温室……?」

 それは、これまで本の中でしか目にしたことがないものだった。全面を透明な壁で覆われた半球状の室内には、整然と草花が育ち、生命の気配に満ちている。
 半ば夢を見ているような心地で、イレーネは目の前の透き通った表面にそっと触れた。指先に伝わる感触は、硬く、わずかに冷たい。

 ガラス──この建材は貴族の屋敷であれば、そう珍しいものではない。
 だが、ここで使われているものはとても上質だ。
 伯爵家の窓に使われていたような板ガラスとは異なり、歪みも曇りもなく、外からでも内部の隅々まで見渡せるほど澄んでいる。天井まで張り巡らされたこの透明な壁は、王都でも中々見られるものではないと、イレーネは思わずため息をついた。


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