政略結婚した侯爵様が「義務だから」と抱いてきますが、顔が良すぎて抗えません

日野ひなこ

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第18話 夫人のお役目 ①

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 銀の燭台に灯る火が、食卓に落ちる影を揺らしていた。

 窓の向こうでは、夏の夕闇がゆっくりとネーベル山脈の稜線を呑み込みつつある。
 高地特有の冷えた空気が窓ガラス越しに忍び寄り、執事長のひと声で控えていた使用人たちが手早くカーテンを引いた。

 パンやスープが並ぶ食卓の主役は、ヴェルク川の上流で採れた鱒に香草バターを添えた一皿。
 こんがり焼き上げられた皮には艶があり、ナイフを入れると白身がふわりとほぐれて湯気が立ちのぼる。
 付け合わせの蕪や山菜が彩りを添え、控えめながら滋味深い香りが食卓を包んでいた。

 テーブルに並ぶ3つのグラスのうち、2つの中身は水。ひとつは当然リオネルのもので、もうひとつはイレーネのものだ。
 以来、イレーネはクラウスとの食事中にワインを口にしないと心に固く誓っていた。
 伯爵家では、水よりワインの方がよく食卓にあがるが、侯爵領はネーベル山脈の雪解け水に恵まれ飲料水に事欠かない。ありがとうネーベル山脈、と大自然に感謝を捧げつつ、イレーネは手元のグラスを軽く揺らす。
 
 視線の先には、鱒にナイフを入れながら目を細めているリオネルの姿があった。

「口に合った?」
「はい、とっても美味しいです。鱒って、こんなに上品な味なんですね」
「ヴェルク川の上流は水が澄んでるから、いい魚が育つそうよ」

 イレーネの答えに、リオネルはへえと感心したように声を漏らし──ふと、その視線が食卓の中央へと移る。

「あれ? この花……」
「ええ。せっかくだから、飾ってもらったの」

 イレーネもリオネルから貰った花束が飾られた花瓶に目をやり、自然と笑みを浮かべる。
 マーガレット、ナデシコ、ヤグルマギクが重なる花束は決して豪華なものではないが、見るたびに心の奥が温まる。
 誰かの思いが込められたものをこうして手の届く場所に置いておけるというのは、思っていた以上に嬉しいことなのかもしれない。

「本当に嬉しかったわ。ありがとう、リオネル」

 満面の笑みでそう告げた瞬間、横から視線を感じた。
 何気なく振り返ると、クラウスがじっとこちらを見つめている。まっすぐに、けれどどこか曖昧な揺らぎを宿した瞳で。
 なにか気になることでもあったのだろうか、とイレーネが口を開きかけたところで、彼の顔が逸らされる。クラウスは何事もなかったようにナイフで鱒の身を切り分けながら、ぽつりと口を開いた。

「あのコートも、良いものだった」
「ほんとうですか!?」

 急な話題転換にイレーネが反応するよりさきに、リオネルが声を上げた。
 笑顔を浮かべていた弟は、しかしすぐに咳払いをして、胸を張るように背筋を伸ばす。

「毛織物は、エルヴァン家の誇りです。侯爵領の冬は厳しいと伺っていたので、少しでもお役に立てれば嬉しいです」

 その声音には誇らしさと緊張が半々に滲んでいる。言葉の端々に"家の代表"としての意識が垣間見えて、イレーネは小さく口元を緩めた。
 夕食の少し前、応接室でリオネルから「侯爵家の皆様に」と贈られたのが毛織物──エルヴァン伯爵領の名産品だった。
 マントやコート、ショールなど、ウールで織られた贈答品を使用人の分まで数を揃えたのは、伯爵家のささやかな矜持と言えるだろう。

「少し触れただけだが……柔らかく、温かかった」

 クラウスの感想は至って簡素なものだが、最大限の賛辞と言えた。
 彼が世辞を言わないことはイレーネもよく理解しているし、なにより、実家エルヴァンの毛織物には絶対の自信がある。侯爵家への贈答品ともなれば、その品質は尚更だ。

「そういえば、この辺りはあまりウールを使わないんですか?」

 イレーネが尋ねると、クラウスは短く首を縦に振った。

「庶民には高価すぎる。領地周辺で牧羊が難しい分、輸送費も嵩む。領内での流通はほとんどない」

 ラインヴェルク侯爵領は、ネーベル山脈の麓とヴェルク川流域が大半を占める。牧羊に向いた丘陵が少ない土地では、毛織物の自給は難しい。
 一方エルヴァン伯爵領は丘陵地が多く、代々毛織物の生産が盛んだ。

 とはいえ、そのふたつの領地は馬車で一日半の距離がある。クラウスの言う通り、いかに寒さが厳しくとも、ウールを買付けるには輸送費などのコストが馬鹿にならないだろう。

「需要はありそうですが……。父に頼んで、取引に伺える商人を紹介してもらいましょうか?」

 伯爵が仲介に入って買付契約を結べば、費用の面でも抑えやすくなるはずだ。
 イレーネの提案に、クラウスは思案するようにしばし目を伏せてから、再び顔を上げた。

「助かるが……こちらには、まだウールを加工できる職人が少ない。しばらくは製品そのものを仕入れる方が現実的だな」
「確かに……。けれど、侯爵領と伯爵領では気候も違いますし、いずれはこちらに合った仕立ての品を生産できるようにした方が良さそうですね」
「まずは少量でも構わない。いくつか製品を送ってもらえれば、こちらでも検討しやすくなる」
「では、父に手紙を出しておきますね」

 口元には品の良い笑みを湛えたまま、イレーネは脳内で高く拳を突き上げた。
 侯爵領という大口の新規商談──それも、侯爵家当主の公認つき。
 ウールそのものか、完成品の取引になるかは今後の交渉次第だが、どちらにせよ伯爵家には美味しい話である。
 お父様もお喜びになるわ、と緩みかけた口元を誤魔化すように切り分けた鱒を口に運ぶ。

「あの……侯爵領って、そんなに寒いんですか?」

 おずおずとかけられたリオネルの問いに、クラウスは鷹揚に頷いた。

「ああ。ネーベル山脈を越えてくる雪雲は容赦ない。降るときは一晩で膝まで積もるうえに、春先まで雪が残る」
「えっ……! 姉様、大丈夫ですか!?」

 弟の声には、驚きと同じくらいの不安が混ざっていた。山間の厳しい寒さなど、温暖な伯爵領で暮らす彼には想像がつかないのだろう。
 心配そうに見つめる弟に、イレーネは素直な笑みを返した。

「ふふ、心配してくれるの? ありがとう。でも、私はちょっと楽しみにしているのよ。伯爵領ではたまにしか降らなかったもの」

 目が覚めて、カーテンを開けたら一面の銀世界──小説の中で度々目にしていた風景が見られるのかと思うと、イレーネの心は微かに踊ってしまう。
 もちろん領主の妻として、交易路の状況確認や除雪の手配などなど降雪に伴う問題への対応に追われるのも想像に難くないが、それはそれ、というやつである。

 そういえば、と、イレーネの胸の奥にひとつの疑問が芽生えた。

 ──温室は、どうするのかしら。

 あれほど多くの花と草木が育っている場所。外が吹雪に閉ざされてしまう季節に、あの緑を保つには相応の工夫が必要になるはずだ。
 ちぎったパンを口に運びながら、イレーネはこっそりと夫の横顔を盗み見る。美しい横顔は変わらず無表情で、蝋燭の灯りに照らされた硬質な輪郭は少しも緩んでいなかった。
 けれど今は、以前ほど近寄りがたさを覚えない。
 今度、クラウス様に聞いてみよう──イレーネは自然とそう思っていた。


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