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第9話

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 お母さんに大人になれって言われたとき、鈍器で頭を殴られたような感覚になった。
 そして気付いた。
 私は、夢を見ていたのだ。カラフルで、安全な夢を。
 大人になりなさい。
 その言葉で、私は目が覚めた。
 大人になるということは、単に高校を卒業して、大学に行って、就職することではない。
 しっかり自分の意思を持って、自分の足で生きていく覚悟を持つことなのだ。
 明日は当たり前じゃない。
 人生は一度きり。
 それはとても当たり前のこと過ぎて、私はこれまでぜんぜん意識していなかった。
「明日、もし自分が死ぬなら、せめて今日は大好きな人と笑っていたい。明日、もしお母さんが死んじゃうとしたら、せめてお母さんが応援してくれていた夢に向かって全力で突き進む私の姿を見ててほしい。そう思ったんだ」
「……ことり……」
 奏の手から、スマホが滑り落ちる。
「だから私、京都に行くのはやめる。夢を追いかけるよ」
 私はゆっくり奏に歩み寄る。
「奏と一緒に」
「え……」
「私、奏と別れないよ。だって奏のこと大好きだもん」
「……でも、俺はもうこれまでのような生活は送れない。大学どころか、就職だって……」
 奏は苦しそうに俯き、目を伏せた。
「そんなこと、関係ないよ」
 かすかに肩を震わせる奏を、私は強く抱き締める。
「私は、奏の優しいところが好き。声が好き。泣くと頭を撫でてくれる大きな手も大好きだし、私が怒るとすぐに謝ってくるところも好き。ぜんぶ好き。奏はなにも変わってないよ。私が大好きな奏のまま……だから、こんなことで挫けないでよ」
 身体を離し、奏と視線を合わせる。
「奏はなにも失ってないよ。私がいるもん。私がいる限り、奏は大丈夫でしょ?」
 すると、奏はくすりと笑った。
「……なんだよそれ。脅しかよ」
「へへっ……そうかも」
 奏は力のない声でぽつりと零した。
「……本当は、ことりにぜんぶ伝えたら、死のうとしてたんだ」
 私は目を伏せる。
「……知ってるよ。でも、そんなの許さない。だって、奏も私が夢を諦めようとしたら怒ったじゃん。絶対ダメって言ったじゃん。それなのに、自分はやめるなんて、そんなのはなしだよ。ふたりで夢を追いかけるって約束したんだから」
「でも、俺にはもう……」
「あるよ。夢」
「え?」
 奏が戸惑いがちに私を見る。そんな奏に、私は優しく微笑んだ。
「夢なんて、いくらでもあるよ。春になったらお花見をしに行こうよ。動物園にパンダを見に行きたいし、駅前にできたカフェのパンケーキも食べてみたい」
「……それ、夢じゃなくて予定じゃない?」
「そうだよ。それじゃダメ?」
 素直に頷くと、奏は黙り込んで私を見つめた。
「夢なんて言うと大袈裟に聞こえるかもしれないけどさ……もし明日世界が終わるならって、そう思って生きていたら、人生なんてきっとあっという間に終わっちゃう。だってほら、季節って一年にたった四つしかないんだよ。落ち込んで俯いていたら、ほら、もうあっという間に春が来ちゃうよ」
 私はそう言って、窓のすぐ横にある桜の木を見つめた。まだ、花はないその木には、しかしたしかに蕾があった。
「……そっか。まぁたしかに、そうかもしれないな」
 気の抜けたような、呆れたような奏の声に、私は少しホッとする。
「私はできれば……大人になっても大好きなものと、大切な人たちに囲まれて生きていたいんだ。だから、上を向こうよ」
 窓の向こうの空を見上げた。冬のどこまでも澄んだ空が私の視界をカラフルに彩る。
「私ね、もし明日死ぬとしたらって考えたとき、一番に奏の顔が浮かんだよ」
「え……俺?」
「うん。お母さんでも、友達でもなくて、奏だった。私さ、クリスマスに奏に告白されたとき、あんまり深く考えてなくてね。ただこれからも奏のそばにいたいなって思って頷いたんだ。今思えば、好きってことをちゃんと理解してなかったんだと思う」
 でも、病院で奏に拒絶されて、ようやく分かった。やっと気付いた。
 たぶん、大人になるということは、失うことなのだ。いろいろなものを失って、そして自分の意思で選んでいくことの繰り返しなのだと思う。
 だったら、私は、奏を選ぶ。これからの人生を、奏と生きたい。
「私、奏が好きだよ」
「ことり……」
「残酷なことを言うかもしれないけど、生きてほしい。私と一緒に」
 足を失って、夢を失った人にかけるべき言葉じゃないかもしれない。ちっとも奏の気持ちなんて考えていない、ただの私のわがままだと分かってる。
 でも、それでも今私が奏に一番訴えたい言葉は、それだった。
「生きてよ、一緒に」
 私も一緒に頑張るから。
「辛いなら、私が寄り添うから。助けるから。怒ったっていいよ。私がぜんぶ受け止めてあげる」
 私がこれまで、奏に助けられてきたように。お母さんに抱き上げてもらってきたように。
「一緒に生きよう」
 そう言って、私は奏を抱き締めた。奏の身体はかすかに震えていた。痛々しくて胸が押しつぶされそうになりながらも、私は涙を堪えて奏を抱き締める。
「ことり……ごめん……」
「なんで謝るの。そこはありがとうでしょ」
「うん……」
 今まで、奏は私の前で泣いたことなんてほとんどなかった。子供の頃だって、泣いている彼を見たことなんてほとんどない。そんな奏が、泣いていた。
 これまで私はいろんな人に抱き締められてきた。ぬくもりを与えられてきた。それなのに私は、いつも抱き締められるばかりで、そのぬくもりを返したことなんてなかった。
 でも、今は。
「奏、これからもよろしくね」
 大好きな幼なじみの男の子に……初めて好きになった男の子に、精一杯のぬくもりを伝えたいと思う。
 私はすすり泣く奏の背中を、優しくさすり続けた。
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