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第4章
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二年前、沖縄に旅行に行こうと言ったのは私だった。
夏休みだから、どこかに行こうよって。
私がそんなことを言わなければ、来未はきっと今も笑って生きていた。私に出会っていなければ、来未はきっと、今も元気に生きていたのだ。
「……私ね、あの事故の遺族からすごく恨まれてるんだ。私だけ生き残っちゃって、ほかの人はみんな死んじゃったから」
来未のママだけじゃない。私に詰め寄ってきた人はほかにもいた。
「事故のときのことは、今もまだ記憶が曖昧でよく覚えてないんだけど……このままじゃ、いけない気がするの」
その瞬間、いつも穏やかな綺瀬くんの顔に、ピリッと緊張が走ったような気がした。
「あの事故のことを思い出そうとすると、どうしても頭にもやがかかったようになるんだけど、それでも思い出さなきゃって気持ちになる。それはきっと、私が忘れてることがすごく大事なことだからだと思うんだ」
きっと、思い出すと辛い記憶。だけど、それでも思い出すべき記憶なのだと本能が言っている気がする。
「だからね、私……」
――と、そのときだった。
「!」
突如ぶわっと凄まじい突風が吹いて、私は咄嗟に目を瞑った。
ざわざわと木々が鳴る。遠くでクラクションの音が響いた。
少し風が落ち着いて、私はかすかに目を開けた。綺瀬くんは私を見たまま、悲しげに笑っていた。
「え……」
目を瞠る。
綺瀬くんの姿が、背景に溶け込むようにかすかに滲んでいる。まるで、涙を溜めた瞳で見ているかのような錯覚を覚えて、私は思わず目元をごしごしと拭った。
「綺瀬、くん……?」
風が止んだ。瞬きをしてあらためて見ると、いつもどおりの綺瀬くんがそこにいた。
困惑していると、綺瀬くんが青白い顔をしてぽつりと呟く。
「……いいんじゃないかな」
「え?」
綺瀬くんの瞳が悲しげに揺れた。
かと思えば、綺瀬くんが手を伸ばし、私の目を隠すように手で覆い、抱き締める。あまりにも優しいぬくもりに、きゅっと喉が絞られるように息ができなくなる。
「綺瀬く……」
「思い出すのが水波の苦しみになるなら、思い出さないほうがいい。それで心が守れるなら、思い出すな。そんな記憶、君の人生になくていい記憶だから」
綺瀬くんの、私を抱き締める力が強くなった。
「で……でも……それじゃ前に進めないし……」
「いいんだよ。それでいい。水波はなにも悪くないのに、どうして生きていることに負い目を感じなくちゃいけないの? それこそバカげてるよ。これからは、水波は楽しいことだけを考えて、前を見て生きるんだよ。過去なんてどうだっていいんだよ」
珍しく、感情的な言い方だった。
「……綺瀬くん?」
「さて。この話はおしまい。それより水波、最近いろいろあって寝不足なんでしょ? 手を繋いでてあげるから、休もう。俺もちょっと眠いんだ」
綺瀬くんは話は終わりだとばかりにそう言って、私の手を握ったまま横で目を瞑った。
私はそれ以上なにも言えず、となりで目を閉じた綺瀬くんを見る。
綺瀬くんのぬくもりがあると、とても落ち着く。だけど、最近は胸が痛くなることがある。
それはまるで事故のことを思い出すときの痛みに似ているようで、ざわざわと胸が騒いだ。
……どうしてだろう。綺瀬くんのとなりはこんなにもあたたかいのに、握られた手は悲しいくらいに冷え切っている。
私は、小さく寝息を立てる綺瀬くんの横顔を盗み見ながら、妙な焦燥に駆られた。
夏休みだから、どこかに行こうよって。
私がそんなことを言わなければ、来未はきっと今も笑って生きていた。私に出会っていなければ、来未はきっと、今も元気に生きていたのだ。
「……私ね、あの事故の遺族からすごく恨まれてるんだ。私だけ生き残っちゃって、ほかの人はみんな死んじゃったから」
来未のママだけじゃない。私に詰め寄ってきた人はほかにもいた。
「事故のときのことは、今もまだ記憶が曖昧でよく覚えてないんだけど……このままじゃ、いけない気がするの」
その瞬間、いつも穏やかな綺瀬くんの顔に、ピリッと緊張が走ったような気がした。
「あの事故のことを思い出そうとすると、どうしても頭にもやがかかったようになるんだけど、それでも思い出さなきゃって気持ちになる。それはきっと、私が忘れてることがすごく大事なことだからだと思うんだ」
きっと、思い出すと辛い記憶。だけど、それでも思い出すべき記憶なのだと本能が言っている気がする。
「だからね、私……」
――と、そのときだった。
「!」
突如ぶわっと凄まじい突風が吹いて、私は咄嗟に目を瞑った。
ざわざわと木々が鳴る。遠くでクラクションの音が響いた。
少し風が落ち着いて、私はかすかに目を開けた。綺瀬くんは私を見たまま、悲しげに笑っていた。
「え……」
目を瞠る。
綺瀬くんの姿が、背景に溶け込むようにかすかに滲んでいる。まるで、涙を溜めた瞳で見ているかのような錯覚を覚えて、私は思わず目元をごしごしと拭った。
「綺瀬、くん……?」
風が止んだ。瞬きをしてあらためて見ると、いつもどおりの綺瀬くんがそこにいた。
困惑していると、綺瀬くんが青白い顔をしてぽつりと呟く。
「……いいんじゃないかな」
「え?」
綺瀬くんの瞳が悲しげに揺れた。
かと思えば、綺瀬くんが手を伸ばし、私の目を隠すように手で覆い、抱き締める。あまりにも優しいぬくもりに、きゅっと喉が絞られるように息ができなくなる。
「綺瀬く……」
「思い出すのが水波の苦しみになるなら、思い出さないほうがいい。それで心が守れるなら、思い出すな。そんな記憶、君の人生になくていい記憶だから」
綺瀬くんの、私を抱き締める力が強くなった。
「で……でも……それじゃ前に進めないし……」
「いいんだよ。それでいい。水波はなにも悪くないのに、どうして生きていることに負い目を感じなくちゃいけないの? それこそバカげてるよ。これからは、水波は楽しいことだけを考えて、前を見て生きるんだよ。過去なんてどうだっていいんだよ」
珍しく、感情的な言い方だった。
「……綺瀬くん?」
「さて。この話はおしまい。それより水波、最近いろいろあって寝不足なんでしょ? 手を繋いでてあげるから、休もう。俺もちょっと眠いんだ」
綺瀬くんは話は終わりだとばかりにそう言って、私の手を握ったまま横で目を瞑った。
私はそれ以上なにも言えず、となりで目を閉じた綺瀬くんを見る。
綺瀬くんのぬくもりがあると、とても落ち着く。だけど、最近は胸が痛くなることがある。
それはまるで事故のことを思い出すときの痛みに似ているようで、ざわざわと胸が騒いだ。
……どうしてだろう。綺瀬くんのとなりはこんなにもあたたかいのに、握られた手は悲しいくらいに冷え切っている。
私は、小さく寝息を立てる綺瀬くんの横顔を盗み見ながら、妙な焦燥に駆られた。
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