明日はちゃんと、君のいない右側を歩いてく。

朱宮あめ

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第6章

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 祈るように言うが、綺瀬くんは静かに首を振った。

「水波はもう、ひとりじゃないだろ。水波を愛する両親がいて、水波の手を握ってくれる親友たちがいて、心配してくれる先生だっている。これから水波は、もっといろんな人に出会って大人になっていくんだ。過去より未来を見て生きていくんだよ」
「……でも、綺瀬くんは……」
「水波は優しいから、いつも俺のことを一番に考えてくれるよね。そういうところ、大好きだよ。……でも、俺のことは心配しなくて大丈夫。水波との思い出があるから、もう怖くないし寒くもない」

 水の惑星を閉じ込めたようなその瞳が、とろりと潤んだ。目が離せなくなる。かすかに綺瀬くんの眉が歪んでいる。苦しげなその顔に、言葉を失う。

「綺瀬くん……」

 お願い、行かないで。
 そう言いたいけれど、ぐっと呑み込む。
 ダメだ。これ以上は、甘えちゃダメだ。

「水波。これまでそばにいてくれてありがとう。俺を好きになってくれてありがとう」

 私は唇を一文字に引き結んだまま、ぶんぶんと首を横に振った。
 綺瀬くんの頬を、涙がつたう。

「俺の人生に寄り添ってくれて、ありがとう」

 いやだ。やっぱりいやだ。待ってよ。行かないでよ。お願い、もう少しだけそばにいてよ。

 綺瀬くんを引き止めるように、私は彼に抱きついた。

 ……はずだったのに。

 私の手は虚しく空を切った。バランスを崩して、危うく転びかける。

 驚いて振り向く。
 もう一度、綺瀬くんに手を伸ばす。
 私の手は、たしかに綺瀬くんの胸に触れているはずなのに、感触はない。
 綺瀬くんの身体は半透明で、彼の身体には夜空の星が瞬いていて。

 綺瀬くんが泣きながら微笑む。

 口を開いてなにかを言っていた。けれど、どうしてか声は聞こえない。
 耳を押さえる。

 どうして? どうして、どうして……。

 綺瀬くんはどんどん空気にとけていく。

「待って……綺瀬くん! 綺瀬くん!」

 何度抱きつこうとしても、私の手はなにも掴めないまま。

「待って……やだ、やだ! 行かないでよ! 綺瀬くんっ……」

 勢い余って、地べたに転がった。しゃくりあげながらもう一度立ち上がろうとしたとき、風が動いた。綺瀬くんがふわりと私の前にしゃがみ込んだのだ。

「綺瀬くん……?」

 綺瀬くんが鼻先の触れそうな距離で私を見つめている。ゆっくりと唇が動いた。

 その唇は、たしかに『ありがとう』と言っていた。
 ぶんぶんと首を振る。

「私こそっ……! どん底だった私を抱き締めてくれて、悩みを聞いてくれて、ずっとずっと、呆れずにそばにいてくれて……」

『ありがとう』と言いたいのに、どうしても言えない。

「綺瀬くん……あのね」

 綺瀬くんの指先が、優しく私の唇に触れた。
 そのまま頬に流れていく。
 あたたかい水に包まれるような感覚が気持ち良くて、私は目を閉じて擦り寄せるように綺瀬くんの指先に応える。

『水波』

 かすかに声が聞こえて、目を開く。

 綺瀬くんの指先は震えていた。綺瀬くんがそっと身をかがめ、私も引き寄せられるように顔を上に向ける。

 そして、触れるだけのキスをした。

 目を伏せると、涙が頬をつたっていく。綺瀬くんのぬくもりを噛み締める。

 次に目を開けると、綺瀬くんの姿はどこにもなくなっていた。
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