妖都陰陽録 ―妲己は僕に人間をやめさせたい―

蛇足

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4話

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 その日の稽古は、まず「立ち方」と「呼吸」から始まった。

 「霊力は、息と共に巡る。乱れた息は、乱れた術を生む」

 そう言って父は、吸う息と吐く息に合わせて、意識を丹田へ沈める方法を教えた。

 吸うときは、みぞおちの下に冷たい水が満ちていくように。
 吐くときは、それを足の裏から、地面へ静かに流し込むように。

 ――ただの深呼吸だ、と前世の感覚では思う。
 けれど、霊力を絡めるだけで、まるで別物になった。

 何度か繰り返すうちに、胸のあたりで揺れていた熱と冷たさが、息の流れに合わせて、ゆるやかに上下するのがわかってくる。

 (まずは、これを身体に刻み込む)

 父の言葉を借りるなら、「型より先に、流れ」だ。

 その朝は、ひたすら立ち姿と呼吸だけで終わった。

 * * *

 昼餉の席でも、僕の意識は半分ほど、別のところにあった。

 「夜斗、よく噛んで食べなさいよ」

 母の声に、「はい」と答えながらも、頭の中ではさっきの感覚をなぞり続ける。

 (吸って、胸からみぞおち。そこから四方に。吐くときは、足の裏へ)

 米を噛みながら、霊力の流れをイメージで反復する。

 「そんなに難しい顔して食べるものではないですよ」

 母が笑いながら茶を注ぐ。

 「いえ、味はとても美味しいです、母上」

 そう言いつつも、心のどこかで数えていた。

 (一、二、三……今ので十回目)

 呼吸一つごとに、霊力の流路を一本線でなぞるように数えていく。
 こういう無心の作業は、嫌いではない。

 * * *

 夜は夜で、父の用意した書が卓の上に並べられた。

 『五行初伝抄』『童子のための陰陽入門』『式盤略図』――。

 「まずはこれだ」

 父が指を置いたのは、『五行初伝抄』だった。

 「火・水・木・金・土。それぞれの最初の一手だけがまとめてある。呪と印だけ覚えるのではなく、どう霊力を巡らせているのかを読み取れ」

 「……はい」

 書を開くと、筆で書かれた簡素な陣の図と、その横に短い呪文が添えられている。
 火の頁には、「灯火」の文字。水の頁には「滴り」、土には「支え」、木には「芽吹き」、金には「断ち」。

 (名前は、覚えやすいな)

 前世の試験勉強と違うのは、ただ暗記して終わりではない、という点だ。
 呪文の節に合わせて、どのタイミングでどこに霊力を集め、どこへ流して離すのか――その解説が細かく記されていた。

 「霊力は、文字より先に動く。文字は、その跡をなぞっているだけだ」

 そう言った父の言葉を思い出しながら、指で流路をなぞる。

 (ここで胸の熱を手のひらへ引き下ろし、ここで指先から外へ押し出す――)

 何度も、何度も、目で追い、頭の中でなぞり直す。

 気づけば、外はすっかり暗くなっていた。

 「そろそろお休みなさい」

 母に声をかけられて席を立ちながらも、僕の意識はまだ、火の陣の図に貼りついていた。

 * * *

 寝所に入ってからも、すぐに眠るつもりはなかった。

 横になり、目を閉じる。

 (吸って、胸に集めて……今度は右腕へ)

 布団の中で、指をわずかに動かす。
 意識だけを霊力の流れに向けると、じんわりとした熱が、右の肩から肘へ、そして掌へとゆっくり移動していく。

 ――本当なら、こういう地味な反復こそ、人には見せたくない。

 努力している姿は、役に立つときまで隠しておくに限る。「できる奴」と認識されるのは、武器を自分から手放すに等しい。

 けれど今回は、事情が違った。

 (式神も、成長する)

 契約した瞬間から、術者の霊力に馴染み、少しずつ強くなっていく存在。
 十歳まで待ってから契るのと、七つで契るのでは、三年の差がつく。

 (遅く契るのは、単純に損だ)

 だからこそ――この一週間だけは、秀才ぶるくらいは許容する価値がある。

 「……七日で、初伝を一通り」

 自分自身に、小さくそう区切りを告げて、ようやく眠りに落ちた。

 * * *

 その後の一週間は、単調で、そして濃かった。

 初日と二日目は、火と水に費やした。

 朝は庭で、呼吸と霊力の流し方。
 昼は書を読み、呪文と印を頭に叩き込む。
 夕方には実際に、掌の上でわずかな火花と、水の玉を生じさせるまでを目標にする。

 最初のうちは、うまくいかないふりをするのも、それなりに骨が折れた。

 「……今ので、かすかに熱は動きましたが、外に出せている気がしません」

 わざと霊力を途中でぼかし、火が生じないようにする。
 父は、じっと僕の手元を見つめていたが、すぐに責めるようなことは言わなかった。


 三度目の試技で、掌の上に米粒ほどの火を灯してみせる。
 父の眉が、ほんのわずかに上がった。

 「……今のは、どう動かした」

 「胸から右腕へ、そのまま指先に押し出すように」

 「ふむ。筋は悪くない」

 その「筋は悪くない」という一言で、火行の初伝は合格と見なされたようだった。

 水は、火よりいくらか楽だった。
 もともと胸の熱の周りを巡っていた冷たさを、そのまま指先に導いてやるだけで、小さな水の滴はすぐに生じた。

 (三日目で驚かせるのは、まだ早い)

 わざと形を崩し、掌から滑り落ちるように水を散らす。

 「水は、形を保たせるのが難しいのですか?」

 と首を傾げてみせると、父は「最初ならそんなものだ」とだけ言った。

 * * *

 三日目と四日目は、土と木にあてられた。

 土行は、足裏と腰に重みを落とす感覚が必要だった。
 庭の片隅の小石をひとつ選び、それを霊力で「そこに留める」。

 「土は、動かぬことが仕事だ」

 父の言うとおり、小石を浮かせたり弾いたりするのではなく、逆に「動かなくする」ほうが、土の初伝だった。

 (火や水よりも、むしろ楽だ)

 そう感じたが、そのまま口に出すのはやめた。
 ここで調子に乗って見せる必要はない。

 「……少し、石の下が固まった気がします」

 控えめに言うと、父は石をつまみあげ、下を確かめる。

 「土の色がわずかに変わっておるな。悪くない」

 木行は、少し時間がかかった。
 庭の片隅に植えられた若い木の枝先に霊力を送り、芽吹きを促す。

 「生かす力は、扱いを誤れば毒にもなる。焦って押し込むな」

 父の忠告どおり、余計な力を込めず、ただ静かに温度だけを上げる。
 四日目の夕方、小さな新芽がひとつ、枝先に顔を出した。

 「……これは」

 思わず、本気で驚きの声が出た。
 前世では、植物を育てた記憶などほとんどない。

 「木行の芽吹きは、目に見えるからわかりやすいだろう」

 父はそう言いながらも、目の奥にわずかな警戒を宿していた。

 「お前、本当に七つだよな」

 「それは父上がご存じであるかと…」

 つい口を滑らせると、父は苦笑交じりに息をついた。

 * * *

 五日目は、金行。

 金は、切る力だ。
 霊力を細く鋭く圧し固め、紙を裂く、糸を断つ、空気を切り裂く。

 「やりすぎれば、人の首も落ちる」

 父の物騒な説明を聞きながら、僕は細工用の紐を一本、指先にぶら下げた。

 (火のときと違い、熱は要らない。胸の熱を一度冷まして、細く固める)

 呼吸を整え、霊力を一本線に圧縮していく。
 指先で、見えない刃物をつまむような感覚。

 「……」

 紐が、音もなく切れた。

 父は、しばらく黙って切れ目を眺めていたが、何も言わなかった。

 * * *

 六日目と七日目は、復習と「流れ」の確認に使った。

 火から水へ、水から土へ。
 木に熱を与え、余った力を霧散させ、金で一部だけを切り離す。

 ――ひとつひとつの初伝を、途切れず繋いでいく。

 普通なら、五行の初歩を身につけるのに、早い者で数ヶ月、遅い者で一年。
 霊力の感知からつまずく者も少なくないと、書にはあった。

 (一週間でここまでやるのは、さすがにやりすぎかもしれないな)

 そう思いながらも、手は止めなかった。

 式神との契約を一日でも早めることができるのなら、多少「できる子」だと思われるくらい、損ではない。

 問題は、それより先――中級以上の術を学ぶときに、どこまで本気を見せるか、だ。

 (本当に隠すべきは、そっちだ)

 七日目の夕方、火行の灯火から始めて、金行の断ちで終える一連の流れを、途切れなく通してみせたとき。

 父は、しばらくの間、何も言わなかった。

 僕の掌に残るかすかな熱と冷たさ、それから疲労の重さだけが、妙に現実的だった。

 「……夜斗」

 沈黙を破った父の声は、いつもより少し低かった。

 「はい」

 「お前、本当に七つだよな」

 昼に一度聞いた台詞を、もう一度繰り返される。

 「ええ。七つです、父上」

 今度は、あえて余計なことは言わない。

 父は、ふう、と長く息を吐いた。

 「よかろう。明日、もう一度だけ、五行の初伝を通してみせろ。そのうえで、式神との契約をどうするか、決める」

 「……承知いたしました」

 深く頭を下げながら、胸の奥で揺れる霊力に意識を向ける。

 ――この一週間で、僕はただの「秀才」として認識されたのだろうか。

 それならそれでいい。
 努力している姿を見せるぶんには、まだ致命的ではない。

 本当に危ういのは、この先だ。

 火と水――相克する二つの性を抱えた霊力が、どんな術を生むのか。
 それを誰に、どこまで見せるのか。

 その線引きを考えながら、僕は静かに息を吐いた。

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