妖都陰陽録 ―妲己は僕に人間をやめさせたい―

蛇足

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15話

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 錬が「風呂、どこにあるか見てくるわ」と言って部屋を出ていったのを確認してから、襖が完全に閉まるのを待つ。

 静けさが戻ったところで、机の引き出しから一本の筆を取り出した。

 他の筆より、わずかに黒い。
 軸の木目まで墨が染み込んでいるような、妙な筆だ。

 (……久しぶりに、使おうか)

 右手でそれを持ち、指先で軽く弾く。

 「行ってこい」

 声には出さず、意識だけを落とす。

 筆先から、黒い滴がひとつ、ぽたりと畳に落ちた。
 染みになる前に、それはふっと形を変える。

 羽をすぼめた小さな影――。
 墨を薄く伸ばしたような鴉が、畳の上にぬらりと立ち上がった。

 (墨鴉《ぼくあ》)

 名を呼ぶと、影の鴉は一度だけ首をかしげ、それから音もなく跳び上がる。
 障子の桟にとまり、細い隙間から、外の廊下の影へと溶けていった。

 目を閉じる。

 すぐに、薄い墨で描かれたような輪郭が、頭の内側に浮かび始めた。

 長い廊下。階段。寮の裏手にある物置きと、ちいさな庭。
 人の気配が薄い場所は、影が濃く塗られ、逆に騒がしい場所は白く抜けている。

 (ここが「影宿」の骨組み、ってわけか)

 墨色の線が、ゆっくりと全体像を形づくっていく。

 中庭に面した物干し場。
 裏口の脇にある、使われていない勝手口。
 十一歳と十二歳の部屋のあいだに挟まれた、小さな物置き。

 (静かに呪符を仕込めそうな場所が、いくつか)

 寮の結界そのものは、本家が張った大きな術の内側にある。
 墨鴉の目から見ても、外周はきっちり固められていて、出入り口は限られていた。

 だが――内側の「死角」までは、すべて埋められているわけではない。


 影の鴉を戻すイメージを送ると、映像がふっと途切れた。

 障子の上で羽音がかすかにしたかと思うと、墨鴉はまた畳の上に落ち、すうっと筆の穂先へ吸い込まれていく。

 筆だけが、何事もなかったように僕の手の中に残った。

 九つの年に、この筆と契約した夜のことを、ふと、思い出す。

 朧との契約から時が過ぎ、霊力の巡りもいくらか太くなってきた頃。
 偶然見つけた古い巻物に、「文墨を媒介とする小怪契約」の術式が、ほこりをかぶって眠っていた。

 (牙は朧で足りている。なら、次に必要なのは――目と手、か)

 そう考えて、誰にも告げず、書庫の片隅で小さな契約陣を描いた。

 古い筆に血をひとしずく落とし、簡素な呼びかけの呪をひとつ。
 それだけで、筆先から滲んだ影が、鴉のかたちを取った。

 ――お前は、僕の目であり、手であり、墨の跡を覚える舌だ。

 そう告げると、墨鴉は一度だけ羽を震わせて、筆の中へ戻っていった。

 (父上には、知らせる必要はない)

 式神は、本来なら一体一体、親と家の監督のもとで契約するものだ。
 朧のときのように。

 勝手に二体目を増やした、という事実は、今のところ僕と墨鴉だけの秘密だった。

 襖の外で足音がして、錬の声が聞こえる。

 「おーい、夜斗。風呂の場所わかったぞー。飯前にひとっ風呂だとよ」

 筆を引き出しに戻し、何事もなかった顔で振り向いた。

 「それはありがたいね。君の汗で札が湿ると、ろくなことにならないから」

 「お前、ここでもそんなこと言ってんのかよ」

 錬の笑い声が、部屋の中に転がった。

 * * *

 翌朝。

 童生たちが大広間に集められたのは、いつもの朝稽古が終わった少しあとだった。

 「静まれ」

 浅葱色の羽織をまとった青年が、一歩前へ出る。
 昨日、霊力見立てを司っていた陰陽師だ。

 「これより、『初契約の儀』について申し渡す」

 薄くざわめいていた空気が、ぴたりと止まる。

 「まず、本家筋の者は――原則として、すでに一体以上の式神と契約済みであるはずだ。二体目以降の契約を望む者は、担当師範と相談のうえで申請せよ」

 景真や朱火が、特に驚いた様子もなく話を聞いている。
 本家育ちにとっては、当たり前の段取りなのだろう。

 「分家筋については、まだ契約していない者が多いと聞いている」

 青年の視線が、自然とこちら側――分家の子らが固まっている一角をなでる。

 「黒葛家は式神師の家だ。分家といえど皆、式のひとつも扱えねばならぬ。初めての契約については、本家の結界内で、我らが立ち会って執り行う」

 それはつまり、「お膳立てされた安全な初契約」ということだ。

 使役に適した小怪をいくつか呼び出し、相性を見て選び取る。
 暴走しそうになれば、すぐに本家の師範が押さえ込む。

 (箱庭の中の、さらに箱庭)

 そうとも言えるが、十歳そこそこの子どもにとっては、妥当な配慮でもある。

 「すでに契約済みの者は、儀へ参加する義務はない。希望すれば、契約の見直しや、縁の補強に立ち会うことも認める」

 青年はそこで言葉を切り、全体を見回した。

 「――本日、初契約を望む者。手を挙げよ」

 一瞬の静寂のあと、何本もの手が一斉に上がる。

 本家の子らは、ほとんど動かない。
 代わりに、分家側からすっと伸びた手が、7本ほど。

 その中に、錬の腕もあった。

 「……お前、契約してなかったんだ?」

 小声で問うと、錬は肩をすくめる。

 「うちの親父、妙に慎重でさ。『霊力が腰を据えるまでは待て』って言われてた」

 「で、今は?」

 「本家の結界内で師範付きなら許すだとよ。だから今日が初契約」

 言いながらも、目の奥は少しだけ興奮で光っていた。

 青年がうなずき、名前を控えた。

 「では、初契約を行う者は、のちほど中庭の式場へ集まれ。――すでに一体以上の契約がある者については、個別に呼び出す」

 そう告げて解散がかかる。

 * * *

 昼餉のあと、僕は別室へと呼び出された。

 小さな座敷に入ると、白衣の師範が一人、静かに座していた。
 見立てのときに二重の層と呟いた、あの年配の男だ。

 「黒瀬 夜斗だな」

 「はい」

 膝を折り、頭を下げる。

 「聞いておる。お前はすでに、影狼の小怪と契約済みだそうだな」

 (父上の報告か)

 朧のことは最初から把握されている。

 「はい。影に潜む狼の仔――朧と名付けております」

 「ふむ。霊力の揺らぎからして、契約はよく馴染んでいるようだ」

 師範は、じっと僕を見据える。

 「……二体目の契約を望むか、それとも、今は一体を育てることに専念するか。お前に選ばせよう」

 予想していた問いだった。

 (ここで欲張っても、得はない)

 僕は、少しだけ間を置いてから、首を横に振った。

 「今は、朧ひとりで十分です」

 「理由を聞こう」

 「式神は、使い捨ての札ではないと、父から教わりました。まずは朧ひとりと、きちんと手足を合わせたいのです。――二体目に手を出すのは、その先でも遅くはないかと」

 答えながら、胸の奥のもうひとつの気配――墨鴉の存在には、そっと蓋をする。

 師範は、しばらく黙って僕の顔を眺めていた。

 「……欲をかかぬ、というのは、悪いことではない」

 やがて、静かに言葉を落とす。

 「ただし。影狼は、牙を磨くほどに、お前の影もまた深くなる。足元を飲み込まれぬよう、気をつけることだ」

 「肝に銘じます」

 深く頭を垂れる。

 墨鴉のことを見透かされたわけではない。

 * * *

 中庭に設けられた簡素な式場では、すでに初契約を待つ童生たちが輪をつくっていた。

 見守る位置から、それを眺める。

 地面には、契約陣がいくつも描かれている。
 それぞれの陣の中央には、式神の素体となる小怪が、一体ずつ膝を抱えて座っていた。

 小鬼、狐火、小さな鎧武者、玉のような猫又――。

 牙を抜かれた安全な個体ばかりだが、それでも十歳前後の子どもには十分な「異形」だ。

 「緊張してきた……」

 輪の中で、錬が小さく息を吐く。

 「大丈夫だよ。噛みつかれそうになったら、本家の大人が止めてくれる」

 「それはそれで恥ずかしいだろ」

 言い返しながらも、口元にわずかな笑いが戻るあたり、度胸はある。

 「黒篠 錬」

 名を呼ばれ、錬が前に出た。

 選ばれたのは、土色の毛並みをした、小さな鼬《いたち》の式だった。
 丸まって尻尾で鼻先を隠していたが、錬が陣に入ると、ぱちりと目を開く。

 「土鼬《つちいたち》の小怪だ」

 補佐役の陰陽師が説明する。

 「土行に親しみやすく、穴掘りと索敵に長ける。気配を読むのも、逃げ道を掘るのも得意だ」

 (……錬には、わりと合っていそうだな)

 妙な直感があった。

 錬はごくりと喉を鳴らし、指先を土鼬の前に差し出す。

 「黒篠 錬。――お前の名は、どうする?」

 「……迅《じん》」

 少し考えた末に、短い名を選んだようだ。

 血をひとしずく垂らし、契約の文言を唱える。

 陣が淡く光り、鼬の体を縁取る。
 土の匂いと、低くうなるような霊力の波が、中庭に広がった。

 しばらくして――光がおさまる。

 土鼬は、もう怯えた小動物ではなかった。
 細い身体から、錬の霊力に似た癖が少しだけにじみ出ている。

 「……よし」

 錬が、安堵とともに大きく息を吐き、口元をほころばせた。

 「君なんかより、よっぽど賢そうな妖だね」

 輪の外から声をかけると、錬は振り向きざまに眉をしかめる。

 「はん。夜斗の狼は、飼い主に似て性格悪そうだけどなぁ」

 言葉とは裏腹に、その声にはどこか晴れやかな色が混じっていた。

 中庭の空に、夕方の光がじわりと滲みはじめる。

 錬の影の隣で、ちいさな鼬の影が、ぴたりと寄り添った。

 その光景を眺めながら、僕は足元の影へ意識を沈める。

 朧が、低く喉を鳴らす。
 墨鴉が、どこか遠くで一度だけ羽を震わせる。

 そのすべてが、妙に愉快だった。

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