死せる君と。

木蔦空

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別章 ──タソカレノマヨヒガ──

或る少女の御伽噺

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 ──わたくしには生涯忘れられない人がいる。其の人とは少女の頃の夢で出逢った。

 だが、恐らく其の人には夢でもうつつでももう逢うことは出来ないだろう。

 冷たくなっていく私を抱き抱えた、優しくたくましい身体からだ
 うれいを含んだあおく美しい瞳。
 夢の中の話だと言うのに、鮮明に其れだけは頭から離れない。

   初めて其の夢を見たのは、確か十五の頃。
  通っていた女学校での人間関係や脆弱ぜいじゃくな身体に悩み、親にも話せぬまま毎日を過ごしていた私は、次第に寝付けない事が多くなった。眠る事は出来ても直ぐに目が覚めてしまうのだ。

 自分など消えてしまえば良いのに

 誰か自分を殺してれれば良いのに

 寝不足と心労で大変心を病んでいた私は、冷たくか細い腕で、夜な夜な自身のけいを絞める事も珍しく無かった。

 そんな時だった。
 私が見知らぬ森にいたのは。

 木々は生い茂げ、虫の鳴き声が響き渡り、風が葉を揺らす音で構成された不思議な世界。
 ずっと鳥籠とりかごの様な世界で過ごして来た私にとって、見るもの全てが真新しい。
 好奇心からか或る一点を目指して、私の足は動いていた。


 立ち止まった先にあったのは、年季の入った小屋の様な建物だった。
 近くには川が流れている様で、森の鼓動に水音が木霊こだましている。

 引き寄せられるように其の建物に近付き、『ごめんください』とたずねると、しばらくして扉が開いた。
 其処そこに居たのは、眉目秀麗びもくしゅうれい金髪碧眼きんぱつへきがんの異邦人。顔のしわや骨張った手から見て、両親とそう年齢も変わらないだろう。
 予想もしていなかった登場に身体が固まった。余りにも美しい物を見ると、人間という生き物は思考が停止するのだと此の時に気付いた。
 生まれて初めて見る異邦人に私は一瞬で『彼』のとりこになったのだ。

 流暢りゅうちょう日本語で話す彼は、私の話を聞くと言って中へ案内する。    
 建物の中は、大きめな木の卓と椅子が二つ横に並ぶ質素な造りだった。
 奥側の椅子に腰を掛けると、彼は湯気の立ち上る湯呑みを私の前に置いた。

 恐らく人間関係の話をしたのだと思う。彼は何も言わずうなずいて聞いていた。
 兄妹の居なかった私は、誰かに自分の話を聞いて貰う事など無かった。

 私はずっと探していたのかもしれない。私に寄り添って呉れる人を。


 目が覚めると布団の中に居た。だが、私はさっきまでの出来事が夢であると理解するのに時間が掛かった。
 有り得ない程に現実味のある夢だった。だが、身内の誰にも此の話をする気は無かった。
 笑われるのが嫌だったと云うのもあるが、 私をあわれんだ誰かが、内緒で此処まで連れてきてくれたのでは無いかと思ったからである。

 の一回のみならず、度々たびたび『彼』と過ごす夢を見るようになり、心しか彼と出逢ってから物事を明るく捉えられる様になった。
 今だから言えるが、屹度きっと私は彼に慕情ぼじょうを抱いていたのだろう。
 今まで顔を伺って生きてきた自分は、思いの外単純で人間らしい一面を持ち合わせているのかもしれない。

 此の感情に気付けたのも彼のお陰である。


 だが、ある日を境に其の夢を見なくなってしまった。

    十六を迎えた月、親が決めた殿方との輿入こしいれが決まった時である。
 人と関わる事が苦手だった私にとって、顔も知らぬ殿方とこれから共に生きて行くというのは、中々に憂悶ゆうもんなものであった。
 助けを求める様に、彼の元へ行きたいと願うも其れは無駄だった。
 いくら有名な事業家の御曹司だからと言っても、彼を超える存在では無い事は明らかであるというのに。

 然し、人生というものは何が起こるか分からないものだ。

 時が経ち、二人の子宝に恵まれた。幸せをも超える感情があるのだと、胸が一杯になったものだ。
 良き夫のお陰で、忙しくも幸せな毎日を過ごしていたが、それでも『彼』の事を考えない日は無かった。

 して、再び彼の夢を見た。
 数十年ぶりに見た彼の容姿は何一つ変わっていない。の時私を魅了した姿形そのものである。
 思わぬ再会に、思春期の少女であるが如く胸が高鳴った。此のまま命が果ててしまっても良いと思える程に、私は彼との逢瀬おうせを待ち望んでいたのだ。

 だが、私を抱える彼は酷く慌てていた。涙を流し何かをずっと呼び掛けている。
 何故なぜ彼がこんなに必死なのかは、辺りを見渡してようやく気付いた。


 私達は真っ紅な血溜まりの中に浮かんでいたのだ。


 私の首から溢れ出る血が彼や周りを紅く染め上げている。
 何故私がこの状況にあるのかは分からないが、恐らくこれが彼との最後だと悟った。

有難ありがとう。また逢えて良かったわ』

 彼に宛てた最初で最後の告白。
 彼に気持ちを伝えるには、余りにも言葉足らずでつたないものであった。

 彼は目を見開いて、自身が私の血で汚れるのもいとわず強く抱擁ほうようした。 
 ずっと恋心を抱いていた相手からの抱擁というのはとても温かく、背徳感と愉悦感で脳がけてしまいそうだ。

 夢での終焉しゅうえんを迎える瞬間まで、私は其の感覚に溺れ続けた。

 やがて意識が戻ると私は病室に居た。

 彼と過ごした日々の余韻は未だ残っている。
 自身が涙を流している事に気付くのに時間は掛からなかった。

 娘が言うには突然倒れたらしい。
 緊急手術を受け、何とか事なきを得たが、痛みの原因である胸元には痛々しい手術痕が残っていた。幼い頃からの心臓病が悪化したのだと考えられる。
 医者いわく、『回復したのは奇跡に近い』と言う。
 馬鹿馬鹿しい妄想だと自分でも思うが、もしかしたら『彼』が助けてくれたのかもしれない。

 みずから生を手放そうとしたあの夜

 心臓発作で私の命が果てようとした現在いま

 考えてみれば、死にひんした時には何時も彼が居た。
 あれは彼なりに私を引き留めようとしてくれていたのかもしれない。

 私は自分の為に生きる事に決めた。

 然して再び時は経ち、今年私は紀寿きじゅを迎えた。
 夫と死別した後、息子が管理していた生家に戻り、今は其処で暮らしている。
 縁側えんがわに腰を掛け、今までの人生を振り返っていると、私を呼ぶ曾孫ひまごの可愛らしい声が聞こえて来た。花見がしたいと孫達が家に訪れているのだ。

 私が夢で幕を閉じたの時も、桜が散る季節だった。

 彼は今如何どうしているのだろうか。
 考えても無駄だと理解してわかっているが、頭からいまだに離れない。

 実は未だにこの摩訶不思議まかふしぎな夢は、夫を含めて誰にも話したことは無い。でも、自分の中で風化させてしまうのは何だか惜しかった。

 少女の夢物語ではあるが、話してみよう。

 狂おしい程想い続けた、名も知らぬ彼の事を──


 駆け寄ってきた曾孫を膝の上に座らせると、絵本を読み聞かせるかの様に語りかけた。 










 「夢ってね不思議な巡り合わせがあるものなのよ。……例えば前世で愛した人と再会したりね」
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