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16.アズ・ポーン4
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「うつっちゃうから。かえって」
「そんなわけには……」
「かえって」
「歌穂ちゃんに身内の人がいるなら、そうするけど。いないでしょ。
ちょっと、待ってて」
勤務先の事務所の所長に電話して、明日からの二日間を有休にしてもらった。
歌穂ちゃんのそばにいたかったから。
「明日と明後日は、休めるから。
今日はどうする? 病院に行こうか?」
「……つれてって、くれる?」
「うん。日曜だから、救急扱いかな。調べるから、待ってね」
携帯で調べたら、休日診療をしている病院があった。
「あったよ。今から、行ける?」
「いく」
「服は? このままでいい?」
「いい」
歌穂ちゃんは、見なれたルームウェアを着ていた。こんな時だから、まあ許されるだろう。
「じゃあ、行こうか。だっこしていい?」
「うん……」
歌穂ちゃんを抱き上げて、玄関まで行った。
「自分で歩ける?」
「あるく」
「つらかったら、言ってね」
歌穂ちゃんが靴を履いて、立ち上がる。
「鍵、閉めておくよ」
「うん」
僕の後についてきた。
よろけてはいたけれど、歩くことはできていた。
病院で診察してもらって、薬も出してもらった。
助手席にいる歌穂ちゃんは、眠そうな顔をしていた。
帰る途中でスーパーに寄って、ゼリー飲料とヨーグルトを買った。
車は、マンションの駐車場に停めた。
夜になった。
歌穂ちゃんは、ベッドの上で横になって、じっとしている。
僕は、床に敷いた布団の上に座りこんでいた。
呼吸が荒い。苦しそうだった。
「どう?」
「くるしい」
「ごめんね。なにも、してあげられない……。
薬は効いてない?」
「わかんない」
「そっか」
「こっちに、きて」
目で誘われた。躊躇した。
「そばにいて。それだけで、いい」
掠れたささやきが聞こえた。
歌穂ちゃんの心が叫んでいる。そんなふうに感じた。
ベッドに上がって、歌穂ちゃんの横に寝そべった。
「これでいい?」
「だっこして」
「いいよ」
抱きよせた。僕の胸に、頬を押しあててきた。
かわいい……。
キスがしたかった。でも、やめておいた。
今の歌穂ちゃんは、そんな気分じゃないだろうと思ったから。
「歌穂ちゃんが寝たら、下に戻るよ。それでいい?」
「うん」
十分くらいしたら、眠ってしまった。
歌穂ちゃんを起こさないように、僕の体に回されていた腕を外した。
寝室の灯りを消した。
それから、下の布団に戻って、眠ろうとした。
目が覚めた。
歌穂ちゃんの声が聞こえた。うなされてる。
「歌穂ちゃん。……歌穂ちゃん」
「んー。うぅん」
「大丈夫? 苦しい?」
「わかんない」
「そっか」
「……ぎゅうって、して」
「うん」
携帯のライトをつけて、枕元に置かせてもらった。
ベッドに上がって、歌穂ちゃんをだっこした。
歌穂ちゃんは、目を閉じたままだった。
こわばっていた体から、ふっと力が抜けた。
浅かった呼吸が、深くなっていく。
よかった。楽になってきたのかな……。
「ゆうちゃん」
甘い声だった。
一瞬、なにを言われたのか、わからなかった。
音としては聞こえているのに、言葉として認識できないというか……。
僕の脳が、理解することを拒んだのかもしれない。
ゆうちゃん? 誰だ。それ。
歌穂ちゃんの目は、開いていなかった。僕を見ていない。
うっとりしたような顔をしていた。
歌穂ちゃんの手が、僕の体をとらえた。ルームウェアを、ぎゅっと握りこまれる。
歌穂ちゃんが、僕の胸に顔を擦りつけてくる。
甘えてるみたいだった。
「ゆうちゃん……」
間違えてるんだ。他の人と。「ゆうちゃん」と呼ぶ、誰かと。
僕は、なにも言わなかった。
言いたいことは、いっぱいあった。
でも、言葉にならなかった。
歌穂ちゃんの呼吸は、穏やかだった。いつの間にか、寝息に変わっていた。
抱きこんでいた体を少しずつ動かして、シーツの上に下ろした。
気分が悪かった。
寝室を出て、リビングに向かった。
頭の中が、ぐるぐるしてる。
ゆうちゃん? ゆうちゃん……。
記憶を辿る。浮かびあがってきた、ひとつの答えがあった。
歌穂ちゃんが、たまに電話をしてる相手がいた。
何度か聞いた名前だ。なんだっけ……。
そうだ。「ユウヤ」だ。
「ユウヤ……。その子が、『ゆうちゃん』ってこと?」
心臓が痛い。頭も。
これは嫉妬だ。わかっていた。
僕は、未だに「沢野さん」と呼ばれているのに。「ゆうちゃん」って……。
叫びだしそうになった。口を、手でふさいだ。
どうかしてる。
九つも年下の女の子に、ずたずたにされてしまった。
それでも、嫌いにはなれなかった。
「まさか。祐奈ちゃんのこと?」
ふと、もうひとつの可能性が頭に浮かんだ。
歌穂ちゃんが、祐奈ちゃんのことを『ゆうちゃん』なんて呼ぶだろうか?
頭の中で、思いえがこうとしてみたけれど、うまくいかなかった。
でも、わからない。二人は、幼い頃に知り合ってるわけだし……。
時が経つにつれて、呼び方が変わっていったのかもしれない。
少しだけ、気持ちが落ちついた。
「そんなわけには……」
「かえって」
「歌穂ちゃんに身内の人がいるなら、そうするけど。いないでしょ。
ちょっと、待ってて」
勤務先の事務所の所長に電話して、明日からの二日間を有休にしてもらった。
歌穂ちゃんのそばにいたかったから。
「明日と明後日は、休めるから。
今日はどうする? 病院に行こうか?」
「……つれてって、くれる?」
「うん。日曜だから、救急扱いかな。調べるから、待ってね」
携帯で調べたら、休日診療をしている病院があった。
「あったよ。今から、行ける?」
「いく」
「服は? このままでいい?」
「いい」
歌穂ちゃんは、見なれたルームウェアを着ていた。こんな時だから、まあ許されるだろう。
「じゃあ、行こうか。だっこしていい?」
「うん……」
歌穂ちゃんを抱き上げて、玄関まで行った。
「自分で歩ける?」
「あるく」
「つらかったら、言ってね」
歌穂ちゃんが靴を履いて、立ち上がる。
「鍵、閉めておくよ」
「うん」
僕の後についてきた。
よろけてはいたけれど、歩くことはできていた。
病院で診察してもらって、薬も出してもらった。
助手席にいる歌穂ちゃんは、眠そうな顔をしていた。
帰る途中でスーパーに寄って、ゼリー飲料とヨーグルトを買った。
車は、マンションの駐車場に停めた。
夜になった。
歌穂ちゃんは、ベッドの上で横になって、じっとしている。
僕は、床に敷いた布団の上に座りこんでいた。
呼吸が荒い。苦しそうだった。
「どう?」
「くるしい」
「ごめんね。なにも、してあげられない……。
薬は効いてない?」
「わかんない」
「そっか」
「こっちに、きて」
目で誘われた。躊躇した。
「そばにいて。それだけで、いい」
掠れたささやきが聞こえた。
歌穂ちゃんの心が叫んでいる。そんなふうに感じた。
ベッドに上がって、歌穂ちゃんの横に寝そべった。
「これでいい?」
「だっこして」
「いいよ」
抱きよせた。僕の胸に、頬を押しあててきた。
かわいい……。
キスがしたかった。でも、やめておいた。
今の歌穂ちゃんは、そんな気分じゃないだろうと思ったから。
「歌穂ちゃんが寝たら、下に戻るよ。それでいい?」
「うん」
十分くらいしたら、眠ってしまった。
歌穂ちゃんを起こさないように、僕の体に回されていた腕を外した。
寝室の灯りを消した。
それから、下の布団に戻って、眠ろうとした。
目が覚めた。
歌穂ちゃんの声が聞こえた。うなされてる。
「歌穂ちゃん。……歌穂ちゃん」
「んー。うぅん」
「大丈夫? 苦しい?」
「わかんない」
「そっか」
「……ぎゅうって、して」
「うん」
携帯のライトをつけて、枕元に置かせてもらった。
ベッドに上がって、歌穂ちゃんをだっこした。
歌穂ちゃんは、目を閉じたままだった。
こわばっていた体から、ふっと力が抜けた。
浅かった呼吸が、深くなっていく。
よかった。楽になってきたのかな……。
「ゆうちゃん」
甘い声だった。
一瞬、なにを言われたのか、わからなかった。
音としては聞こえているのに、言葉として認識できないというか……。
僕の脳が、理解することを拒んだのかもしれない。
ゆうちゃん? 誰だ。それ。
歌穂ちゃんの目は、開いていなかった。僕を見ていない。
うっとりしたような顔をしていた。
歌穂ちゃんの手が、僕の体をとらえた。ルームウェアを、ぎゅっと握りこまれる。
歌穂ちゃんが、僕の胸に顔を擦りつけてくる。
甘えてるみたいだった。
「ゆうちゃん……」
間違えてるんだ。他の人と。「ゆうちゃん」と呼ぶ、誰かと。
僕は、なにも言わなかった。
言いたいことは、いっぱいあった。
でも、言葉にならなかった。
歌穂ちゃんの呼吸は、穏やかだった。いつの間にか、寝息に変わっていた。
抱きこんでいた体を少しずつ動かして、シーツの上に下ろした。
気分が悪かった。
寝室を出て、リビングに向かった。
頭の中が、ぐるぐるしてる。
ゆうちゃん? ゆうちゃん……。
記憶を辿る。浮かびあがってきた、ひとつの答えがあった。
歌穂ちゃんが、たまに電話をしてる相手がいた。
何度か聞いた名前だ。なんだっけ……。
そうだ。「ユウヤ」だ。
「ユウヤ……。その子が、『ゆうちゃん』ってこと?」
心臓が痛い。頭も。
これは嫉妬だ。わかっていた。
僕は、未だに「沢野さん」と呼ばれているのに。「ゆうちゃん」って……。
叫びだしそうになった。口を、手でふさいだ。
どうかしてる。
九つも年下の女の子に、ずたずたにされてしまった。
それでも、嫌いにはなれなかった。
「まさか。祐奈ちゃんのこと?」
ふと、もうひとつの可能性が頭に浮かんだ。
歌穂ちゃんが、祐奈ちゃんのことを『ゆうちゃん』なんて呼ぶだろうか?
頭の中で、思いえがこうとしてみたけれど、うまくいかなかった。
でも、わからない。二人は、幼い頃に知り合ってるわけだし……。
時が経つにつれて、呼び方が変わっていったのかもしれない。
少しだけ、気持ちが落ちついた。
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