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イミテーションな、春と私。
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綺麗な嘘にならなければ、春になることはできない。だから、私は綺麗な嘘を演出する。イミテーションの、偽物みたいな本物を、最後の春に貴方へと届ける。
そう、私は決めたのだ。貴方をちゃんと嫌いになってしまう前に。もう、好きじゃない。どうだろう、分からない。でも、だからこそ。今日、貴方に別れを告げる。
別に、貴方のことも、貴方のことを好きになった私自身のことも、嫌いになったわけではない。正真正銘、嘘ではなく、本当に心からそう思っている。強がりでも何でもない。ただ、自分の「好き」を信じられなくなった。その事実が怖くなった。それが、悪い。
かつて燃え盛っていた激情が、今ではすっと冷めていく。熱は確実に、私から遠のいていた。好きでい続けるだけの熱意が、消え失せる直前ぎりぎりを保っている。けれども、その事実にむしろ、どこか清々しさを感じている自分さえいた。
貴方以上の人なんて、どこにもいない。そんなことは、分かっている。私にとって世界の中心は、貴方だ。輝いて見えるものは、貴方だったのだから。だけど、それもまた、幻想の押し付けに過ぎないのかもしれない。淡い白昼夢だったのかもしれない。
好きだからこそ、逃げたくなる。誰だって、傷つくのは怖い。だから、回避しようとするのは、むしろ自然なことだと私は思う。
「もうこんな時間?出よう」
身支度を終えた後、椅子に腰かけ、ぼうっとし過ぎてしまった。
玄関の床に座り、ヒールの靴を慎重に、ゆっくりと履き始める。指先で靴の金具の生ぬるさと面倒くささを感じつつ、同時に、心の中では考えがぐるぐると巡っていた。ひとつ、またひとつと靴のバックルを締めて、ようやく両足に靴を履き終えた。
窮屈で肝が冷えるかのような緊張感が、やってきた。逃れたくて、呼吸を整える。静かにゆっくりと、でも確実に、深呼吸をする。今、私は息をしているから。少しずつ冷静に、落ち着きを取り戻すことができた。そして立ち上がり、手を伸ばして玄関の扉へと触れた。その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。それでも抗って、ゆっくりと扉を開けた。
扉の向こうからは、あっという間に空が視界に飛び込んできた。四月中旬の今日の空は、目の前いっぱいに広がる、透き通った青空だ。眩しいほどの快晴が、なぜだか無性に目障りだと感じた。
それでも、春の柔らかく暖かな陽光は、玄関の外扉の前で物思いに耽る私を、スポットライトかのように容赦なく照らしてきた。
その光のせいなのか、それとも考え過ぎていたからなのか……。
「そうだ、これって現実なんだ」
急に現実へと、強制的に引き戻されていく。また、息を吸って、吐く。私は今、間違いなく、この現実の中で生きているのだと実感した。だから、玄関の扉を、ガチャリと施錠した。
マンションの二階、玄関を出たばかりの細い通路に立つ。マンションの隣には、満開の桜の木が聳えている。風に乗って、甘くも切ない桜の香りが漂ってきた。
その香りは、一瞬、私の胸に鋭い恐怖を植え付けるから、思わず震えてしまう。儚く散る花びらのように、いつか消えてしまう現実の不確かさと終わりの予感を告げているように思えてしまうのだから、どうしようもない。
一歩踏み出すと、また胸を締め付けるような切なさに包まれ、苦しくなった。途方もない閉塞感が、容赦なく私へと襲いかかってくる。だから、すぐに立ち止まった。次の一歩が踏み出せない。左手で思わず頭を抱えるように覆う。再び思考の海へと沈んでしまう。
そんな調子だから、溢れて止まない感情から逃れたくて、ふと視線を上へ逸らした。嫌になるくらいの眩しい空が見える。だから、そっと、ゆっくりと確実に、目を瞑る。何も見たくないのであれば、目を閉じればいい。視界も世界も、現実だって、一時的に消してしまえ。
目を閉じていると、家を出る前に肌にまとっていた桜の香水が、ふわりと漂ってきた。人工的に作られた、甘く、優しくも、鋭い香りだ。ふわり漂う香りは、私を突き刺しながらも、包み込んでもくれる。現実の桜の香りがもたらしてきた不安や儚さを、少しだけ和らげてくれるような安心感を覚えた。
まるで、壊れやすい現実の中で自分を守るために、私を支えてくれる鎧のようだった。
ゆっくりと目を開けると、やはり桜が目に映る。桜の花びらが、また同様、リピート映像かのように、静かにふわり、ひらりと風に舞い落ちていた。
時が止まったかのような幻想的な花吹雪の中で、私は貴方に別れを告げる。きっと声は震え、消え入りそうになるだろう。そんな中で、私は真剣に切実に、今の想いを貴方に伝えるはずだ。その瞬間だけでいい。
私は、桜の精霊になりたい。いや、なるのだ。今日だけは、儚く美しい姿を完璧に演出してみせる。そのためならば、何だってできるし、どんな苦しみも耐え抜ける。
胸の奥には、今にも途絶えそうな赤黒い執念が、いまだ静かに燃えていた。だけど、今は関係ない。赤黒い感情では、桜になんてなれやしない。場違いだからと、感情に蓋をして無視した。大丈夫。気付かないフリは、私、すごく得意だから。
貴方の記憶の中で、私が永遠に咲き続けることはできない。そんな当たり前の事実は、情けないほどよく分かっている。ずっと変わらないものなんて、この世に存在しない。全部分かった上で、だからこそ。
どうしようもないくらい好きだから、どうか私のことを忘れないでほしい。
別に、私のことなんか、忘れてくれてもいい。どうせ私は、貴方のことを忘れられない。むしろ、きれいさっぱり忘れさせてほしいくらいだ。忘れてしまいたいことほど、ずっと脳内で余裕なほど映像化できてしまうのは、何故なのか……。
色々と思うところは、ある。でも、貴方が私を忘れてしまうなんて、そんなことあってはならない。私は絶対に、許さない。私の好きには、暗く、深淵を煮詰め、詰め込んだかのようなドス黒さだけがある。そんなどうしようもない感情だけが、搾りカスのように、しょうもなく残っている。
とんでもない矛盾と支離滅裂さを抱えている。今の私って、何なのだろうか?自分でもよく分からない。だけど人間なんて、そんなものなのだから、仕方がない。どれも本当で、でも、少しずつ違う。嘘なのか、本当なのか、今では見分けがつかない。
儚げな白いワンピースを纏い、春の訪れを告げるかのように優雅で繊細な、愛くるしくて可憐な姿。桜色のカーディガンも、今の季節にピッタリだ。必死に選んだこの装いに身を包んだ今日の私のことを、私はとても愛おしくて、好きだなって感じる。
生涯で一番、今この瞬間の私は、特別に清らかで美しいはずだ。とても綺麗だ。そう、信じている。信じるしかなかった。必死に思い込んだ。ああ、また「好き」が崩れそう。つい先ほどまでの自分が、ズレていく。嘘じゃないよ、本当なの。今日が一番のはずなのに。遠くに行かないで。ただそこに、私の信じる好きが、留まっていて欲しいだけだった。それだけなのに、いつも、何故だかこうなってしまう。
私は、桜の精霊になりたい。でも、私が頭の中で思い描いているものは、どこか悪魔的な像だと感じる。春の儚さそのものに、私はなりたくて堪まらないのかもしれない。たった今、自覚した。作り物の上っ面だけの春。イミテーションみたいな春だというのに、私は……。
別れを告げる為に、私はこれから貴方と会う。だけど、何から何まで真逆なのだ。まるで永遠の愛を誓う結婚式かのような装いと覚悟に、思わず声も殺さず、周囲のことなど忘れて、豪快に笑ってしまった。
桜の精霊には程遠い、悪役のような甲高い笑い声しか出てこないのだから、呆れる。
ふと、貴方と初めて出掛けた日のことを思い返していた。異性と二人きりで会うなんて、私の人生で起こるはずがないと思っていた、あの頃。
緊張した。貴方に可愛いと思ってほしかった。でも、「気合入ってんな、こいつ……」なんて思われたくなかった。間違いない。私は確実に、あの時、恋をしていた。貴方のことが、すごく大人に見えて、憧れで、焦っていた。追いつきたかった。この世の全ては、ここに存在していたのだ。そんな錯覚を引き起こす程度には、光で輝いていた。貴方を通して感じる世界は、綺麗に彩られていた。そんな風に見えた。楽しくて仕方がなかった。
そんな想いを胸に忍ばせ、ナチュラルだけど最高な私を演出した。あの日、貴方と初めて二人で出掛けた日、確実に私は幸せだった。だから、いつだってずっと、思い出してしまう。たとえ、遠く、眩い温かな錯覚の日々だったとしても。
私の大好きな思い出だから、記憶に、そして脳裏にまで焼き付いて離れないのは、当然だ。もはや、こびりつくあの日を、脳内で何度も振り返るのは、私の癖のひとつになっているのだから、仕方がない。
この記憶だけは、そして、これから始まる今日の瞬間だけは、たぶん私、絶対に、この先ずっと、忘れないと思う。
貴方の中で、私って何だったのだろう。私のこと、どう思っている? ちゃんと覚えている? 本当に好きだった? 好きに、永遠ってあると思う?
考え始めると止まらない。そんな自分にぞっとする。怖くて仕方がない。こんな自分に耐えられない。
だから私は今日、終わらせに向かう。
貴方はきっと、私を知らない。私だって貴方のことを多分、全然分かっていない。
尋ねたいことは、呆れ返るほどたくさん、富士山並みに大きなスケールで、山ほどある。いや、案外知りたいことは、針の穴ひとつ分だけくらいの、細くて小さなことなのかもしれない。自分でもよく分からないけれど、最後に聞いてみたい気もする。
もしかしたら、たったひとつ貴方に問いかけただけで、何かが劇的に変わるかもしれない。
もしかすると、それが功を奏して、これから先もずっと、私は「好き」という感情を、馬鹿みたいに真っ直ぐ、迷わず、宗教じみた狂気の中で敬虔に、信じ続けることができるかもしれない。
でも、もうどうだっていい。可能性なんて、見てはいけない。
別れる日の今日の私が、貴方がこれから生涯で目にするものの中で、一番美しくあれと願う。
そして、貴方にとって今日という日が、一生忘れられないほどに綺麗で、輝かしくも、二度と戻ってこない鬱屈とした地獄となりますように、と強く祈った。
春風が頬を撫で、遠くで鳥が囀る。花びらは先ほどと変わらず、静かにふわり、ひらりと舞い落ちていた。
花びらが空から地へと散っていく。
この幻想の中で、私は貴方を呪って、朽ち果てたい。
春の季節。別れという呪いを、貴方に。
どうか、お願いです。
春が来るたびに、一番美しかったあの日の私を思い出しますように。
桜を見るたびに、私を思い出せばいい。
そんな呪いを、これから貴方にかけに行く。
イミテーションの春を纏った私が、貴方にさよならを告げる時間だ。
その瞬間は、あっという間に、もう目の前にきてしまう。
終わらせに向かおう。
一枚の桜の花びらが、そっと私の頬をかすめた。それは確かに、私の呪いの証だった。舞い落ちる花びらたちは、確かに私の欠片だった。私の一部で、私の姿をしていた。
「行ってきます」
マンションの細い通路で、絞り出したかすれ声で、大事に、噛み締めるかのように、呟く。
そして、まるで舞うように、軽やかに一歩を踏み出した。エントランスを目指す。これから駅へと向かう。電車に乗って貴方に会いに行く。駅に着いたら降りて、一緒に最後の春を観に行く。電車内で私、泣いてしまうかもしれない。行きも帰りも、もしかすると、電車に乗る度に泣けてきてしまうかもしれない。いや、まずは今日この後すぐのことだけ考えていよう。むしろ、音楽でも聴いて意識を逸らしておかないと、とてもじゃないが、耐えられない。
これから起こることは、嘘なのか、それとも、私の心からの本当の気持ちなのか? でも、ちょっとずつ全部嘘で、半分本当なのだと思う。
出会いと別れの季節、春に想いを馳せる。マンションのエントランスの扉に、手を掛けた。
今年の桜は、いつまで咲き続けられるだろうか。
そんなことを考えながら、耳にイヤフォンを装着して、儚く綺麗な、そんな最強の私になる為の、御呪いの曲たちを集めたプレイリストを開く。再生ボタンを押した。まるで、自己暗示をかけるかのように、私というスイッチを切り替えていく。そう、ラジオの周波数を合わせる作業に似ているかもしれない。今日で最後の貴方に魅せるための私へと、狙いを定め、切り替えていく。曲を聴きながら、エントランスを通り過ぎていく。また一歩と確実に、次の目的地へと歩みを確実に進め、近づいていった。
貴方に会いに行こう。大好きだったよ。多分、この感情だけは偽りではないのだと、そう確信しつつ、祈った。
〈了〉
そう、私は決めたのだ。貴方をちゃんと嫌いになってしまう前に。もう、好きじゃない。どうだろう、分からない。でも、だからこそ。今日、貴方に別れを告げる。
別に、貴方のことも、貴方のことを好きになった私自身のことも、嫌いになったわけではない。正真正銘、嘘ではなく、本当に心からそう思っている。強がりでも何でもない。ただ、自分の「好き」を信じられなくなった。その事実が怖くなった。それが、悪い。
かつて燃え盛っていた激情が、今ではすっと冷めていく。熱は確実に、私から遠のいていた。好きでい続けるだけの熱意が、消え失せる直前ぎりぎりを保っている。けれども、その事実にむしろ、どこか清々しさを感じている自分さえいた。
貴方以上の人なんて、どこにもいない。そんなことは、分かっている。私にとって世界の中心は、貴方だ。輝いて見えるものは、貴方だったのだから。だけど、それもまた、幻想の押し付けに過ぎないのかもしれない。淡い白昼夢だったのかもしれない。
好きだからこそ、逃げたくなる。誰だって、傷つくのは怖い。だから、回避しようとするのは、むしろ自然なことだと私は思う。
「もうこんな時間?出よう」
身支度を終えた後、椅子に腰かけ、ぼうっとし過ぎてしまった。
玄関の床に座り、ヒールの靴を慎重に、ゆっくりと履き始める。指先で靴の金具の生ぬるさと面倒くささを感じつつ、同時に、心の中では考えがぐるぐると巡っていた。ひとつ、またひとつと靴のバックルを締めて、ようやく両足に靴を履き終えた。
窮屈で肝が冷えるかのような緊張感が、やってきた。逃れたくて、呼吸を整える。静かにゆっくりと、でも確実に、深呼吸をする。今、私は息をしているから。少しずつ冷静に、落ち着きを取り戻すことができた。そして立ち上がり、手を伸ばして玄関の扉へと触れた。その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。それでも抗って、ゆっくりと扉を開けた。
扉の向こうからは、あっという間に空が視界に飛び込んできた。四月中旬の今日の空は、目の前いっぱいに広がる、透き通った青空だ。眩しいほどの快晴が、なぜだか無性に目障りだと感じた。
それでも、春の柔らかく暖かな陽光は、玄関の外扉の前で物思いに耽る私を、スポットライトかのように容赦なく照らしてきた。
その光のせいなのか、それとも考え過ぎていたからなのか……。
「そうだ、これって現実なんだ」
急に現実へと、強制的に引き戻されていく。また、息を吸って、吐く。私は今、間違いなく、この現実の中で生きているのだと実感した。だから、玄関の扉を、ガチャリと施錠した。
マンションの二階、玄関を出たばかりの細い通路に立つ。マンションの隣には、満開の桜の木が聳えている。風に乗って、甘くも切ない桜の香りが漂ってきた。
その香りは、一瞬、私の胸に鋭い恐怖を植え付けるから、思わず震えてしまう。儚く散る花びらのように、いつか消えてしまう現実の不確かさと終わりの予感を告げているように思えてしまうのだから、どうしようもない。
一歩踏み出すと、また胸を締め付けるような切なさに包まれ、苦しくなった。途方もない閉塞感が、容赦なく私へと襲いかかってくる。だから、すぐに立ち止まった。次の一歩が踏み出せない。左手で思わず頭を抱えるように覆う。再び思考の海へと沈んでしまう。
そんな調子だから、溢れて止まない感情から逃れたくて、ふと視線を上へ逸らした。嫌になるくらいの眩しい空が見える。だから、そっと、ゆっくりと確実に、目を瞑る。何も見たくないのであれば、目を閉じればいい。視界も世界も、現実だって、一時的に消してしまえ。
目を閉じていると、家を出る前に肌にまとっていた桜の香水が、ふわりと漂ってきた。人工的に作られた、甘く、優しくも、鋭い香りだ。ふわり漂う香りは、私を突き刺しながらも、包み込んでもくれる。現実の桜の香りがもたらしてきた不安や儚さを、少しだけ和らげてくれるような安心感を覚えた。
まるで、壊れやすい現実の中で自分を守るために、私を支えてくれる鎧のようだった。
ゆっくりと目を開けると、やはり桜が目に映る。桜の花びらが、また同様、リピート映像かのように、静かにふわり、ひらりと風に舞い落ちていた。
時が止まったかのような幻想的な花吹雪の中で、私は貴方に別れを告げる。きっと声は震え、消え入りそうになるだろう。そんな中で、私は真剣に切実に、今の想いを貴方に伝えるはずだ。その瞬間だけでいい。
私は、桜の精霊になりたい。いや、なるのだ。今日だけは、儚く美しい姿を完璧に演出してみせる。そのためならば、何だってできるし、どんな苦しみも耐え抜ける。
胸の奥には、今にも途絶えそうな赤黒い執念が、いまだ静かに燃えていた。だけど、今は関係ない。赤黒い感情では、桜になんてなれやしない。場違いだからと、感情に蓋をして無視した。大丈夫。気付かないフリは、私、すごく得意だから。
貴方の記憶の中で、私が永遠に咲き続けることはできない。そんな当たり前の事実は、情けないほどよく分かっている。ずっと変わらないものなんて、この世に存在しない。全部分かった上で、だからこそ。
どうしようもないくらい好きだから、どうか私のことを忘れないでほしい。
別に、私のことなんか、忘れてくれてもいい。どうせ私は、貴方のことを忘れられない。むしろ、きれいさっぱり忘れさせてほしいくらいだ。忘れてしまいたいことほど、ずっと脳内で余裕なほど映像化できてしまうのは、何故なのか……。
色々と思うところは、ある。でも、貴方が私を忘れてしまうなんて、そんなことあってはならない。私は絶対に、許さない。私の好きには、暗く、深淵を煮詰め、詰め込んだかのようなドス黒さだけがある。そんなどうしようもない感情だけが、搾りカスのように、しょうもなく残っている。
とんでもない矛盾と支離滅裂さを抱えている。今の私って、何なのだろうか?自分でもよく分からない。だけど人間なんて、そんなものなのだから、仕方がない。どれも本当で、でも、少しずつ違う。嘘なのか、本当なのか、今では見分けがつかない。
儚げな白いワンピースを纏い、春の訪れを告げるかのように優雅で繊細な、愛くるしくて可憐な姿。桜色のカーディガンも、今の季節にピッタリだ。必死に選んだこの装いに身を包んだ今日の私のことを、私はとても愛おしくて、好きだなって感じる。
生涯で一番、今この瞬間の私は、特別に清らかで美しいはずだ。とても綺麗だ。そう、信じている。信じるしかなかった。必死に思い込んだ。ああ、また「好き」が崩れそう。つい先ほどまでの自分が、ズレていく。嘘じゃないよ、本当なの。今日が一番のはずなのに。遠くに行かないで。ただそこに、私の信じる好きが、留まっていて欲しいだけだった。それだけなのに、いつも、何故だかこうなってしまう。
私は、桜の精霊になりたい。でも、私が頭の中で思い描いているものは、どこか悪魔的な像だと感じる。春の儚さそのものに、私はなりたくて堪まらないのかもしれない。たった今、自覚した。作り物の上っ面だけの春。イミテーションみたいな春だというのに、私は……。
別れを告げる為に、私はこれから貴方と会う。だけど、何から何まで真逆なのだ。まるで永遠の愛を誓う結婚式かのような装いと覚悟に、思わず声も殺さず、周囲のことなど忘れて、豪快に笑ってしまった。
桜の精霊には程遠い、悪役のような甲高い笑い声しか出てこないのだから、呆れる。
ふと、貴方と初めて出掛けた日のことを思い返していた。異性と二人きりで会うなんて、私の人生で起こるはずがないと思っていた、あの頃。
緊張した。貴方に可愛いと思ってほしかった。でも、「気合入ってんな、こいつ……」なんて思われたくなかった。間違いない。私は確実に、あの時、恋をしていた。貴方のことが、すごく大人に見えて、憧れで、焦っていた。追いつきたかった。この世の全ては、ここに存在していたのだ。そんな錯覚を引き起こす程度には、光で輝いていた。貴方を通して感じる世界は、綺麗に彩られていた。そんな風に見えた。楽しくて仕方がなかった。
そんな想いを胸に忍ばせ、ナチュラルだけど最高な私を演出した。あの日、貴方と初めて二人で出掛けた日、確実に私は幸せだった。だから、いつだってずっと、思い出してしまう。たとえ、遠く、眩い温かな錯覚の日々だったとしても。
私の大好きな思い出だから、記憶に、そして脳裏にまで焼き付いて離れないのは、当然だ。もはや、こびりつくあの日を、脳内で何度も振り返るのは、私の癖のひとつになっているのだから、仕方がない。
この記憶だけは、そして、これから始まる今日の瞬間だけは、たぶん私、絶対に、この先ずっと、忘れないと思う。
貴方の中で、私って何だったのだろう。私のこと、どう思っている? ちゃんと覚えている? 本当に好きだった? 好きに、永遠ってあると思う?
考え始めると止まらない。そんな自分にぞっとする。怖くて仕方がない。こんな自分に耐えられない。
だから私は今日、終わらせに向かう。
貴方はきっと、私を知らない。私だって貴方のことを多分、全然分かっていない。
尋ねたいことは、呆れ返るほどたくさん、富士山並みに大きなスケールで、山ほどある。いや、案外知りたいことは、針の穴ひとつ分だけくらいの、細くて小さなことなのかもしれない。自分でもよく分からないけれど、最後に聞いてみたい気もする。
もしかしたら、たったひとつ貴方に問いかけただけで、何かが劇的に変わるかもしれない。
もしかすると、それが功を奏して、これから先もずっと、私は「好き」という感情を、馬鹿みたいに真っ直ぐ、迷わず、宗教じみた狂気の中で敬虔に、信じ続けることができるかもしれない。
でも、もうどうだっていい。可能性なんて、見てはいけない。
別れる日の今日の私が、貴方がこれから生涯で目にするものの中で、一番美しくあれと願う。
そして、貴方にとって今日という日が、一生忘れられないほどに綺麗で、輝かしくも、二度と戻ってこない鬱屈とした地獄となりますように、と強く祈った。
春風が頬を撫で、遠くで鳥が囀る。花びらは先ほどと変わらず、静かにふわり、ひらりと舞い落ちていた。
花びらが空から地へと散っていく。
この幻想の中で、私は貴方を呪って、朽ち果てたい。
春の季節。別れという呪いを、貴方に。
どうか、お願いです。
春が来るたびに、一番美しかったあの日の私を思い出しますように。
桜を見るたびに、私を思い出せばいい。
そんな呪いを、これから貴方にかけに行く。
イミテーションの春を纏った私が、貴方にさよならを告げる時間だ。
その瞬間は、あっという間に、もう目の前にきてしまう。
終わらせに向かおう。
一枚の桜の花びらが、そっと私の頬をかすめた。それは確かに、私の呪いの証だった。舞い落ちる花びらたちは、確かに私の欠片だった。私の一部で、私の姿をしていた。
「行ってきます」
マンションの細い通路で、絞り出したかすれ声で、大事に、噛み締めるかのように、呟く。
そして、まるで舞うように、軽やかに一歩を踏み出した。エントランスを目指す。これから駅へと向かう。電車に乗って貴方に会いに行く。駅に着いたら降りて、一緒に最後の春を観に行く。電車内で私、泣いてしまうかもしれない。行きも帰りも、もしかすると、電車に乗る度に泣けてきてしまうかもしれない。いや、まずは今日この後すぐのことだけ考えていよう。むしろ、音楽でも聴いて意識を逸らしておかないと、とてもじゃないが、耐えられない。
これから起こることは、嘘なのか、それとも、私の心からの本当の気持ちなのか? でも、ちょっとずつ全部嘘で、半分本当なのだと思う。
出会いと別れの季節、春に想いを馳せる。マンションのエントランスの扉に、手を掛けた。
今年の桜は、いつまで咲き続けられるだろうか。
そんなことを考えながら、耳にイヤフォンを装着して、儚く綺麗な、そんな最強の私になる為の、御呪いの曲たちを集めたプレイリストを開く。再生ボタンを押した。まるで、自己暗示をかけるかのように、私というスイッチを切り替えていく。そう、ラジオの周波数を合わせる作業に似ているかもしれない。今日で最後の貴方に魅せるための私へと、狙いを定め、切り替えていく。曲を聴きながら、エントランスを通り過ぎていく。また一歩と確実に、次の目的地へと歩みを確実に進め、近づいていった。
貴方に会いに行こう。大好きだったよ。多分、この感情だけは偽りではないのだと、そう確信しつつ、祈った。
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