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第二章

衝突3

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 ゼーマンの発言を最後まで黙って聞いたアドルフだが、彼にとって味方に罪人がおり、それを自分の手で処刑しろという命令は到底受け入れがたいものだった。

 同時に、自分の班に罪人がいるという話も腑に落ちなかった。現に視界に入るフリーデは眉をひそめ、ディアナ、ノインのほうからもざわついた空気が感じられる。アドルフ以外の面々は、この状況に混乱するしかない様子だ。

 だとすれば解放の候補者として、値踏みをされている自分が問うしかないとアドルフは思った。そもそもゼーマンが暴れたのはこの話をするための伏線だったのだろう。ならば確かめるしかない、いったい誰が罪人で、自分が処罰する相手なのかを。

「ゼーマン主任。全体像はだいたいわかったが、肝心の罪人とは誰を指しておるのかね?」

 この期に及んでもアドルフは囚人のくせに一切へりくだる態度を見せなかったが、それを鼻であざ笑うゼーマンは、冗談のような軽さで言った。

「フン、処刑する相手は知りたいよな。大切なやつほど殺したくはない。本当はもっと葛藤させてやりたいが、時間もねぇから教えてやんよ。貴様がガス室送りにする囚人は、ヴィクトル・ニミッツの娘、ノインだ」

 思わせぶりな口から答えが洩れた。罪人はノイン。ということは、その理由は間違いなく――

「ほほう、さっそく理解できたみてぇだな。さすが頭の回転は速い。だがアドルフよ、ノインの野郎はどえらいショックを受けてるみてぇだぜ?」

 一拍遅れたゼーマンの指摘を聞き、アドルフは後ろを振り返った。そこではノインが、魂を抜かれたような顔で佇み、両手で口許を塞いでいる。よく見れば、目尻には陽光に光る涙が。

 おそらく状況を鮮明にすればするほど、彼女の心は傷つき、混乱がパニックを呼び起こすだろう。だが当然のことながら、ここで話を切り上げるわけにはいかない。アドルフにできることは、ノインをこれ以上傷つけない言葉を選び、できるだけ穏やかに話を着地させることだった。

「いま罪人の名を出されたが、意味不明だな。思いあたるふしもない。きっと本人も同じ気持ちであろ。さらなる説明を求めてもよいか?」

 そう、ノインが罪人と言われ、アドルフは瞬時にその理由を見つけたつもりになった。だがそれは当然思い込みかもしれない。

 実際のところ、真実はゼーマンしか知らない。アドルフが答えを急くように睨みつけると、ゼーマンはしたたかな表情で薄笑いを浮かべ、どこか嬉しげに返事をかえす。

「答え合わせがしたいってか? いいだろう。貴様らは知らないだろうが、三年前に法改正がおこなわれ、反体制分子の親族は皆殺しにすると評議会で決まったんだ。収容所を維持するには莫大なコストがかかる。だが看守を減らせば、いずれ反乱を起こされる危険がある。そのとき、反体制分子の親族は深い恨みを溜め込んでいるから、率先して歯向かうかもしれない。偉いさんはそう考えたのさ」

 ゼーマンの説明はさらなる新情報を含んでいた。三年前の法改正。廃棄された新聞の盗み読みを怠らないアドルフだが、相手がゴミだけに読み落しもあり、彼はその法改正についてはまったくの無知であった。

 それでも概要は理解した。重要なのは反体制分子とは院長先生のことであり、その親族であるノインが殺される運命に落ちたということ。これは先ほどうっすら予想したとおりの答えだ。

 むしろ理解できないのは、なぜ処刑が三年間も放置されていたのかである。アドルフがその点を問い質そうとした瞬間、先回りしたゼーマンが、くぐもった声で言った。

「ノインが三年間、処刑されずにいた理由がピンとこねぇようだが、答えはシンプルだ。貴様はアドルフ班の長として異例の出世を遂げ、ビュクシ収容所の稼ぎ頭だった。そういうやつの部下は生かしておくべきだと当時の上層部は判断したわけさ。けれど今回の解放が実現すればアドルフ班は解散だし、ノインに与えた特例は根拠を失う。つまり貴様が解放を得ようとする以上、ノインの処刑は確定するわけなんだよ」

 少々長い話をゆったりと語ったゼーマン。彼の明かした事情を聞き届けたアドルフは、ノインの生存がまさに偶然の産物だったことを理解した。そして同時に、取り急ぎ反論すべきことを彼は思いついたが、質問をくり出す前から答えはある程度見えてしまった。

 よってアドルフは黙り込んでしまう。ゼーマンはその沈黙を納得の証と受けとったのか、あごに手をやって頷きながら、

「ここまで話せば貴様はこう考えるだろう。解放を拒めばノインは助かるんじゃねぇかと。だがそれは浅はかな考えよ。解放の拒否はオレたち体制側の判断を踏みにじったも同然だ。遠慮だろうが何だろうが、辞退した途端、貴様は将校の地位、及びアドルフ班の長という立場を失う。だとすれば、ノインの処刑を執行しなかった理由も消失するわけさ」

 語れば語るほど、ゼーマンの声に愉悦という名の弾みがつく。そう、彼はこの不穏な会話を心から楽しんでいるのだ。色々な表情を使い分けているが、根底は一緒。

 ――我が解放を受け入れようが拒もうが、ノインの処刑はまぬがれないとは、なんてふざけた取引なのだ!

 腹の内でアドルフは盛大な舌打ちをくり返す。実際彼以外の人間でも、同じ状況に置かれたら、どんなに心優しい者でも怒りを覚えるに違いない。

 しかしアドルフが彼らと異なるのは、ノインという一人の人間のガス室送りを何とも思っていないことだった。同胞の運命を背負ったと感じるとき彼は真価を発揮するが、同時にアドルフは前世で一千万人にのぼるドイツ人の死を見てきた。たとえ院長先生の娘とて、いまさら死人が一人増えたところで彼は感傷も後悔も覚えない。

 むしろ重要なのは、ノインが少年期から付き合いのある仲間という点だ。同じ収容所で暮らして命懸けの苦労を分かち合い、アドルフの指揮に応じて成果を出せる者は現時点でフリーデにディアナ、ノインの他にいない。

 アドルフの目的はドイツの栄光をこの異世界に復活させることだが、同時にいまは囚人に貶められた状況をひっくり返すことが喫緊の課題だった。

 そしてそれをなしえたとき、アドルフ班の仲間は今後良い手駒になりうるだろう。しかし解放を得るためにノインを死なせたら、他のフリーデやディアナの信頼はどうなるだろう。間違いなく地の底まで落ちるのではないか。

 端的にいえば、ノインの死は惜しくない。だが仲間の信頼を失うのは自分が許せない。だとすれば忽然と浮上した解放の機会をどう受けとめればよいのだろうか。

 このときアドルフは収容以後、最大の迷いを感じとり、同時に迷う自分をなだめにかかった。いまはまだ手持ちの情報が少なすぎる。ここは焦らず、判断材料が揃うのを待つのが得策だと判じとったわけだ。

 そうやって彼がつくりだした沈黙は、平素の果断な彼にすればあまりに長かった。
 ゆえに沈黙に焦れたゼーマンが出し抜けに声を発したとしても、そこに訝しがる点は何ひとつなかったのである。

「おい、アドルフ。仲間を見捨てられねぇとか余計なこと考えてんじゃねぇだろうな。反体制分子の親族のみならず、今後は信仰に問題があったり評点の悪い亜人はどんどんガス室送りにする予定なんだ。ヒト族が収容されるようになると施設が溢れ出す。ノインはその第一歩に過ぎねぇんだからよ」

 このひと言は、迷いにとらわれたアドルフに死角から一撃を食らわせた。

 ――ヒト族が収容?

 反応は声にならなかったが、目つきは突然鋭くなった。おのれの変化を自覚するアドルフだが、ゼーマンは急にハッとなって表情を消した。

 いまの発言が何だったのか、アドルフは即座に結論を出した。ヒト族が収容されるという話はまったくの初耳だが、それを口にしたゼーマンにとって不用意なひと言だったのだろう。

 その証拠にこの魔人族の主任は、素知らぬ顔で静かに視線を外した。これをおいそれと見逃すアドルフではなかった。
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