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第二章

軍法会議4

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「よいか、アドルフ。私の副官となってビュクシ収容所の利益を三年で倍にしてみせよ。その条件をのむなら、ノインの命は私が預かる」

 開始したばかりの軍法会議が、瞬く間に閉廷する。その唐突に生じた流れはミシュカを驚かせ、フリーデを狼狽させた。そして彼らの反応に不穏なものを読みとったのか、傍聴席からは騒然としたざわめきが起きはじめ、囚人たちの動揺はアドルフの鼓動を速めた。

 突きつけられた条件はノインの救命と引き換えにカフカの意志に従うこと。それは事実上、彼の願望を受け入れるか否か、踏み絵を差し出されたのと同義である。

 もっともアドルフは、軽い高揚感こそ覚えたものの、この程度で動じる男ではない。ひと呼吸置いたあと、彼は即座に応じようとしたが、このとき司祭であるラグラウだけが、想定外の流れを押し止めるようなことを口走った。

「待ってほしい。この法廷はノインの罪状を検討することが目的だったはず。その是非を問うことなく、裁判を一方的に終わらせる権限は貴公にはないのではないか? 私は承諾できない」

 司祭の拒絶は鋭く、筋が通っているように聞こえた。しかしカフカは、そうした反発を織り込み済みとばかりに、司祭の非難を鼻であしらった。

「私は法を歪ませてなどいない。ゼーマンに託された指導を現場のやり方に合わせただけだ。少なくとも私にはそうする権限がある。ノインの処刑を絡めることは、王統府の指示ではなく、それを預かったゼーマンの一存だ。彼より私のほうが職位は高い。どちらの判断が正しいか、一目瞭然だろう?」

 司祭のくり出した反論はカフカの返り討ちに遭い、たちまち正当性を失った。

 しかし冷静さを保っているアドルフは、事前の予想どおりラグラウ司祭が公平性を求める権力に弱腰な人物ではないことがわかり、不安の種をひとつ潰した。
 そうなると問題は、カフカが唐突に持ち出した解決案である。

「どうするんだ、アドルフ?」

 決して焦っているわけではないのだろうが、性格の尖ったフリーデはここでついに周囲にも聞こえるような声を出した。当然その声は傍聴席にも届き、囚人や職員はその眼差しをアドルフのほうにむける。

 しかしアドルフは、あくまで落ち着き払った態度でフリーデの耳もとに低いしゃがれ声を響かせる。

「何ら問題ない。カフカが王統府の指導に従わない以上、事態はむしろ良い方向に運んでおる。先刻、我はディアナにパベル殿下を法廷に導くよう指示を与えた。我が立てたゲームプランは、彼をこの法廷に巻き込むことだ」
「王族を巻き込む? そう言えば君はディアナに……」

 アドルフに合わせ、フリーデも自分の声量を絞った。これにたいし、アドルフはさらに声量を落とす。

「そのとおり。お前は知らないだろうが、王族たちは一枚岩ではない。老いが進んだ《魔王》の後継者にだれが就くか、やつらは激しく争っておる。つまり《魔王》の意を汲んだ王統府の指導も、カフカの旗色次第ではすんなりと受け入れられるとは限らん。現にカフカは独断で解決案を出してきた。王統府の指導が必ずしも絶対的でない何よりの証拠である」

「つまり君はカフカ所長の提案を断るつもりなのか?」
「むろんだ。パベル殿下はもうすでに傍聴席へ腰をすえておるかもしれん。だとすれば、ここからは我とカフカと我の駆け引きである。どちらが説得力があるか、殿下の心次第で裁判の結果は変わるであろな」

 そう、アドルフは解放を得る以上、収容所という狭い庭に束縛されるつもりなどなかったのだ。解放は文字どおり、自由でなければならない。カフカの副官になど甘んじていては、異世界の覇権、ドイツの復興など夢のまた夢だろう。

 そこまで先読みできたとは思えないが、フリーデは首を縦に振り、アドルフの言い分に納得したことを態度で示した。

 しかし彼女は気づいてないが、アドルフとフリーデのやり取りは法廷に集った囚人や職員から俄然、注目を集めていた。そしてそれこそが、アドルフがフリーデを助手に就けた最大の理由だった。

 稀代の煽動家だったアドルフは、人の心を操ることに長けている。カフカが解決案を出したとき、法廷の流れは彼に傾いた。アドルフはその流れを、フリーデとの会話に費やすことで自分の側へと引き戻しにかかったわけだ。

 そして事実、人々はアドルフの放つ次のひと言に耳をそばだてる。そんな空気の変化を察知した彼はクマが冬眠から起き上がるような動作で片手を控え目に挙げた。

「――裁判長」

 彼は弁護人席から、発言の許可をカフカに求めた。

「どうしたアドルフ。会議はもう閉廷だぞ」

 裁判の行方を掌握していると思い込んでいるカフカは、勝ち誇った表情をこしらえ、抜け目ない視線をむけてきた。
 その動きを片隅に捉え、壇上を見つめたアドルフがカフカの思惑を打ち砕くようなことを口にした。

「勘違いをしないで頂きたい。この軍法会議は解放の可否を決めるものではなく、ノインに付された罪の是非を問うものだったはず。その答えは出ておらん」

 だがその発言は、わずかに眉をしかめたカフカによって遮られた。

「さっきも言ったが、君が私の意志をのめば、ノインの命は助かるのだ。いまさら不満に思うことは何もあるまい」

 その物言いは、アドルフが自分に従うと決めつけている発言だった。しかしアドルフの心はカフカと同じ場所を見ておらず、むしろ正反対の側をむいている。彼はそのような心のすれ違いを端的な言葉に託し、カフカに現実を教えてやることにした。
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