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第二章

軍法会議7

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 九年前に起きた院長先生の殺害時、トルナバに魔人族の軍人が飛来した。アドルフは当時のことを絵に描けるほど鮮明に覚えている。収容の実行部隊を率い、院長先生を虐殺した部隊長がいたこと。その人物こそ、いま目の前に鎮座するビュクシ収容所のカフカ所長に他ならないことを――。

「よく聞け、フリーデ。お前はどうやら忘れているようだが、院長先生を殺した魔人族は、裁判長役を務めておるカフカだ。長身で白髪をたくわえた将校。一人だけ制帽をかぶっておらず、ただでさえ印象的な髪の色が余計目立つのも少年期の記憶と一致する。そしてやつは部下からカフカの名で呼ばれておった。もはや本人に訊くまでもない」
「所長が院長先生を……?」

 アドルフの発言を聞き、フリーデは声を失った。やはり予想どおり、彼女は院長先生の死体を目にしていながらその犯人を覚えていなかったのだ。当時の子供たちは皆、動揺して記憶すら残っていないのだろう。冷静な大人の頭をもっていたアドルフを除いて――。

 いや、フリーデだけではないだろう。きょうに到るまで少年だったアドルフの存在を思い出すことなく過ごしてきたカフカもまた、当時の記憶を心の奥底にしまい込んできたと見て間違いない。先ほどトルナバで起きたやり取りに言及したときも、カフカはそれを思い出した様子さえなかった。

 つまり彼は忘れているのだろう。理由は不明だが、いくつもの町を立て続けに徴発すれば、ひと一人の死など波打ち際の砂のようなもの。まったく印象に残らなかったとしても不思議はない。

 アドルフ自身、数知れぬ人間をナチス党による支配を確立するために殺していったが、彼らの名前などいちいち覚えておらず、精々標的にした有力者だけである。

 だからカフカの無反応にも彼は腹を立てなかった。もし覚えていたとしても、軍法会議の進行は微塵も揺らがなかったからである。

「――裁判長」

 不安げなフリーデを一瞥した後、アドルフはおもむろに挙手して呼びかけた。カフカが幾度も提示した案をにべもなく一蹴するためにだ。

「何度も恐縮だが、我は貴公の提案に従う気はない。軍法会議は法により平等に裁かれる場。僭越ながら、ノインの罪状を覆す論拠がもうひとつある。そうである以上、法廷は維持されねばならん」
「論拠だと?」

 反射的に怪訝そうな声が、隣に立つフリーデと、壇上のカフカから同時に返ってきた。そのひと言は、アドルフの反撃がはじまったことを意味し、傍聴席は再びざわつきに包まれる。

「さて、ノインにかけられた嫌疑だが、三年前の法改正を理由に処罰を科すと〈遡及法〉に該当する。我はこの国の法体系全てに通暁しているわけではないが、仮にも法治国家ならば〈遡及法〉の禁止は当然、備えておいてしかるべき法だ」

 事務的に淡々と言ったが、傍聴席のざわめきは急に戸惑ったような声に変わる。それはおそらく、アドルフの口にした遡及法という言葉の意味を、多くの囚人が理解できなかったためだ。いや、囚人ばかりでない。助手であるフリーデもまた、困惑した声色でアドルフに問うのだった。

「何だ、その遡及法というのは?」

 しかしアドルフにとってその反応は望ましいものである。人々に説明する機会を自然に得られたからだ。

「いいだろう、簡単に説明しよう。遡及法というのは、喩えるなら賄賂が許されていた頃に起きた汚職は、法律で禁じられたあとになって訴えられても罪に問われない、そうした法概念である」
「つまり、どういうことだ?」
「あとで制定した法律で過去の出来事を裁くことはできんということだ」

 フリーデの疑問に答えた後、アドルフは壇上の様子をちらりと見た。すると、法律に疎そうなラグラウ司祭は事情をのみ込めない顔となり、隣のカフカを怪訝そうに眺めている。

 他方でゼーマンの検事席を見ると、彼は苦虫を噛み潰したような顔つきで押し黙っていた。アドルフはその反応から、自分が持ち出した遡及法という切り口がゼーマンに動揺を与えたと判じとる。また同時に、前世で得た法律の知識が、異世界においても通用することを悟り、彼の発言はここから俄然力を増した。

「我が収容所幹部におこなった調査によると、三年前の法改正は成人を対象にしているとのことだった。むろん現在、ノインは一七歳の成人である。だがニミッツ氏が殺された当時、彼女は未成年だった。そのように時を遡って法を適用する遡及法は、法治国家においてあるまじきことではないかね?」

 アドルフは明解きわまりない疑問を傍聴席に放ったが、呼びかけた相手はむろん、パベル殿下である。彼の姿は暗がりに隠れて見えないが、ディアナの姿が視認できた以上、どこかにはいるはずだ。

 そのとき、壇上から神経質な声が聞こえた。発言の主は副所長のミシュカであった。

「フン、お前は法を知らぬようだな。遡及法は確かに問題だが、国家反逆罪においては例外が許される」

 口ぶりは尊大で、彼はアドルフを小馬鹿にしていた。しかしアドルフは、ミシュカの発言を瞬く間に覆す。

「ふざけないで頂きたい。ノインは国家に反逆したわけではない。だとすれば依然、遡及法の対象である」

 アドルフの素早く的確な反論に、ミシュカは困り果てた顔で隣を見た。助け舟を求められた格好のカフカは、軽く咳払いをしながら、かわりに返事をよこした。

「国家反逆罪には連座制が適用される。三年前の法改正は、それを親族にまで拡大したものだ。連座制は元々あった法律だ。それを重く見れば遡及法は成立する」
「ふむ、なるほど」

 相手の切り返しにアドルフは小さく息を吐く。むろんそれは、議論の流れが想定の範囲内であることを示すものだ。

 とはいえフリーデは、アドルフが言葉に窮したと受けとったのか、心配そうな顔で彼を見つめてくる。しかしアドルフの反論にはまだ続きがあった。正確にいえば、むしろここからが本題だった。

「もし仮にだが、あくまで連座制を認めるとしよう――」

 言葉の応酬など素知らぬ顔で、アドルフは壇上へ語りかける。

「しかしながらそのときは、曖昧な理由でニミッツ氏を殺し、反体制分子の汚名を着せた者に名誉毀損の罪、及び殺人罪を着せねばなるまい」
「名誉毀損に殺人罪だと?」

 アドルフが唐突に持ち出した話に引っかかりを覚えたのか、副所長のミシュカが怪訝そうな声を出す。

「その通り」

 ミシュカの反応に淡々と応じ、アドルフは教会中を見渡しつつさらに声を張り上げた。

「遡及法が国家反逆罪にのみ適用されるなら、ニミッツ氏がそれに該当しない場合、彼を殺害したことの正当性は皆無となるからだ。そして我々は先ほどまでの議論で、ニミッツ氏の国家反逆罪はグレーという判断を得た。だとすれば、彼にたいする名誉毀損、及び殺人もまたグレーとなるはずだ」

 ここでアドルフは滑らかな陳述を区切って、決め台詞を口にするかのごとく発言を締め括った。

「諸君、驚くなかれ。ニミッツ氏殺害の被疑者は、この法廷のなかにおる!」
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