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第二章
軍法会議6
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「確かに景気は九年前から下り坂だ。弁護人の言ったとおりに推移しており、結果として不景気はとめられなかったが、収容政策が景気対策だった可能性はあるだろう。それに反体制分子と言っても、ノインの父はスパイ事件の直接の被疑者ではないんだよな?」
司祭の問いかけはアドルフにむかった。彼は弁護人として当然のことを口にした。
「むろん異なる。先ほどゼーマン検事も可能性があったにすぎぬと証言しておる」
「だとすれば疑問の余地はある。白ではなくとも限りなくグレーだ。そんなあやふやな根拠で死刑判決は下せない」
スパイ容疑はグレーだ。この発言が出たのを聞き、アドルフは心のなかで密かにほくそ笑む。
事情をのみ込めないフリーデは怪訝そうな表情を浮かべるが、アドルフはまさにこのひと言を裁判官から引き出したいと思っていた。
なぜなら、疑わしきは罰せず。それはアドルフが前世で学んだ法的な知識だ。
そして魔人族が強権的に支配するイェドノタ連邦は曲がりなりにも法治国家。その証拠に、ノインが被った疑惑にもこうして裁判の場が用意されている。だとすれば、前世と同じような概念が用いられていても不思議ではない。
「グレーということは、どうなるんだ?」
フリーデはもう周囲を憚ることなく、大きめな声でアドルフに問うた。
「どうかな。裁判長殿に答えを委ねよう」
貴重な発言を引き出したアドルフだが、役人ではないため、連邦国家の法体系に明るいわけではない。前世の知識がどこまで通じるか、彼は壇上のカフカの反応を待った。
ところが下駄を預けられたカフカは、アドルフの期待をにこりともせずに否定するのだった。
「ラグラウ司祭の言うことはもっともだ。私も疑わしきは罰せずと言いたい。だがしかし、我々はべつの判断基準をもっている。疑わしきは罰する。それが国家反逆罪の疑いをもたれた被告人にのみ適用される判断基準だ。ノインの父がスパイであったか否かは確かにグレーだが、それをもって国家反逆罪を逃れる法は連邦国家に存在しない」
疑わしきは罰する。そのような取り決め、あるいは慣習があることを囚人たちはおろか、収容所職員たちも知らなかったようだ。再び傍聴席は騒然としはじめ、援護射撃をしてくれたラグラウ司祭も言葉を失い壇上で固まっている。
そして隣に立ったフリーデは、落胆を隠さず俯きながら、
「国家反逆罪だとあやふやな罪でも通ってしまうのか。そんな理屈が許されるわけないだろ!」
ついに怒りをまとった声で叫び、カフカの顔をまっすぐ睨みつけた。しかしカフカは、冷静な態度を崩さず、フリーデではなくアドルフを見つめ、まるで彼ひとりに語りかける調子でこう言った。
「納得できないという声もあるようだが、確かに国家反逆罪の量刑は不当なまでに重い。すでに亡き者となったノインの父はいざ知らず、親族というだけでノインに同じ罪を科すのはいかがなものか。先刻言ったとおり、私はノインを許す気はないが、殺す必要はないと思っている。ゼーマンに託された指導は国家へのさらなる貢献と敬虔な信仰心だ。それらを満たすなら、三年前の法改正は私の一存で保留にする。他の裁判官の同意は求めない。私が同意を求めるのはアドルフ、君ひとりだ」
突然に呼びかけられたアドルフは、すぐさまカフカの発言の意味を読みとった。彼は冒頭で即時閉廷を求めたが、その願望を諦めたわけではなかったのだ。
――こやつめ、同じ寝言をまたくり返す気か。
腹の内で罵倒をくり出すが、さすがに二度めとあってアドルフは疑わざるをえなくなった。カフカの抱く本当の意図を。
――考えるまでもないであろな。ノインが罪に問われると我らの班活動に支障が出る。そればかりは何としても避けたいのだ。
そう心静かにつぶやきながら傍聴席に目をやると、そこにはディアナの短躯がかろうじて目に入った。そばにパベル殿下らしき人物の姿は視認できなかったが、おそらくすでに入廷を済ませていると見てよいだろう。
だとすれば、殿下の面前でカフカをやり込めれば、法を超えた力が彼を襲うことになる。少なくともそれを可能とする切り札をアドルフは事前に準備してあった。
――とっておきのカードを切ることになるとはな。もっともこれは必然だったのかもしれん。
心のなかでそう小さく声を洩らしたときだった。法廷の流れに堪りかねて怒声を放ったフリーデが、今度はアドルフのほうを厳しい目で睨みつけ、叱責するように言った。
「所長は君を懐柔しようとしているぞ。どうするんだ?」
よく見るとフリーデは、表情や声色こそ険しいものの、白い蝋人形のような顔をしていることから思いのほか冷静を保っている様子だった。だとすれば、落ち着いて話を聞く耳は持っているだろう。
「安心せよ。我はカフカの願望に従う気など毛頭ない」
「本当か?」
「当たり前だ。開廷前、ディアナにパベル殿下を連れてくるよう申しつけたことを思い出せ。彼の前で暴露すれば、カフカの立場が危うくなる事実をこちらはすでに用意しておる」
「そういうことは早く言えよ」
小声でやり取りする二人だが、アドルフに切り札があることを知ってフリーデは大きく溜め息を吐いた。しかしその様子は傍聴席の視線にさらされており、俄然興味をかき立てられた囚人と職員たちは、言葉にならない声を発しながらアドルフのことをじっと見つめてきた。
とはいえ、彼が言うとっておきのカードとはいったい何だろうか。それを知るためには時間を一瞬、過去へ巻き戻さねばならない。
司祭の問いかけはアドルフにむかった。彼は弁護人として当然のことを口にした。
「むろん異なる。先ほどゼーマン検事も可能性があったにすぎぬと証言しておる」
「だとすれば疑問の余地はある。白ではなくとも限りなくグレーだ。そんなあやふやな根拠で死刑判決は下せない」
スパイ容疑はグレーだ。この発言が出たのを聞き、アドルフは心のなかで密かにほくそ笑む。
事情をのみ込めないフリーデは怪訝そうな表情を浮かべるが、アドルフはまさにこのひと言を裁判官から引き出したいと思っていた。
なぜなら、疑わしきは罰せず。それはアドルフが前世で学んだ法的な知識だ。
そして魔人族が強権的に支配するイェドノタ連邦は曲がりなりにも法治国家。その証拠に、ノインが被った疑惑にもこうして裁判の場が用意されている。だとすれば、前世と同じような概念が用いられていても不思議ではない。
「グレーということは、どうなるんだ?」
フリーデはもう周囲を憚ることなく、大きめな声でアドルフに問うた。
「どうかな。裁判長殿に答えを委ねよう」
貴重な発言を引き出したアドルフだが、役人ではないため、連邦国家の法体系に明るいわけではない。前世の知識がどこまで通じるか、彼は壇上のカフカの反応を待った。
ところが下駄を預けられたカフカは、アドルフの期待をにこりともせずに否定するのだった。
「ラグラウ司祭の言うことはもっともだ。私も疑わしきは罰せずと言いたい。だがしかし、我々はべつの判断基準をもっている。疑わしきは罰する。それが国家反逆罪の疑いをもたれた被告人にのみ適用される判断基準だ。ノインの父がスパイであったか否かは確かにグレーだが、それをもって国家反逆罪を逃れる法は連邦国家に存在しない」
疑わしきは罰する。そのような取り決め、あるいは慣習があることを囚人たちはおろか、収容所職員たちも知らなかったようだ。再び傍聴席は騒然としはじめ、援護射撃をしてくれたラグラウ司祭も言葉を失い壇上で固まっている。
そして隣に立ったフリーデは、落胆を隠さず俯きながら、
「国家反逆罪だとあやふやな罪でも通ってしまうのか。そんな理屈が許されるわけないだろ!」
ついに怒りをまとった声で叫び、カフカの顔をまっすぐ睨みつけた。しかしカフカは、冷静な態度を崩さず、フリーデではなくアドルフを見つめ、まるで彼ひとりに語りかける調子でこう言った。
「納得できないという声もあるようだが、確かに国家反逆罪の量刑は不当なまでに重い。すでに亡き者となったノインの父はいざ知らず、親族というだけでノインに同じ罪を科すのはいかがなものか。先刻言ったとおり、私はノインを許す気はないが、殺す必要はないと思っている。ゼーマンに託された指導は国家へのさらなる貢献と敬虔な信仰心だ。それらを満たすなら、三年前の法改正は私の一存で保留にする。他の裁判官の同意は求めない。私が同意を求めるのはアドルフ、君ひとりだ」
突然に呼びかけられたアドルフは、すぐさまカフカの発言の意味を読みとった。彼は冒頭で即時閉廷を求めたが、その願望を諦めたわけではなかったのだ。
――こやつめ、同じ寝言をまたくり返す気か。
腹の内で罵倒をくり出すが、さすがに二度めとあってアドルフは疑わざるをえなくなった。カフカの抱く本当の意図を。
――考えるまでもないであろな。ノインが罪に問われると我らの班活動に支障が出る。そればかりは何としても避けたいのだ。
そう心静かにつぶやきながら傍聴席に目をやると、そこにはディアナの短躯がかろうじて目に入った。そばにパベル殿下らしき人物の姿は視認できなかったが、おそらくすでに入廷を済ませていると見てよいだろう。
だとすれば、殿下の面前でカフカをやり込めれば、法を超えた力が彼を襲うことになる。少なくともそれを可能とする切り札をアドルフは事前に準備してあった。
――とっておきのカードを切ることになるとはな。もっともこれは必然だったのかもしれん。
心のなかでそう小さく声を洩らしたときだった。法廷の流れに堪りかねて怒声を放ったフリーデが、今度はアドルフのほうを厳しい目で睨みつけ、叱責するように言った。
「所長は君を懐柔しようとしているぞ。どうするんだ?」
よく見るとフリーデは、表情や声色こそ険しいものの、白い蝋人形のような顔をしていることから思いのほか冷静を保っている様子だった。だとすれば、落ち着いて話を聞く耳は持っているだろう。
「安心せよ。我はカフカの願望に従う気など毛頭ない」
「本当か?」
「当たり前だ。開廷前、ディアナにパベル殿下を連れてくるよう申しつけたことを思い出せ。彼の前で暴露すれば、カフカの立場が危うくなる事実をこちらはすでに用意しておる」
「そういうことは早く言えよ」
小声でやり取りする二人だが、アドルフに切り札があることを知ってフリーデは大きく溜め息を吐いた。しかしその様子は傍聴席の視線にさらされており、俄然興味をかき立てられた囚人と職員たちは、言葉にならない声を発しながらアドルフのことをじっと見つめてきた。
とはいえ、彼が言うとっておきのカードとはいったい何だろうか。それを知るためには時間を一瞬、過去へ巻き戻さねばならない。
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