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第二章

晩餐会1

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 ビュクシ収容所はかつて、大富豪の邸宅であったことはすでに述べたが、なかでも敷地内にある別邸には当時の趣を残した豪奢な屋敷がある。その半分は収容所幹部が使用する区域だが、もう半分は訪問した要人に貸し出される一種の迎賓館となっていた。

 時計の針が一八時を差した頃、アドルフはその別邸に初めて入り、使用人として働く亜人族の案内で屋敷の奥にある応接間へとむかった。

 囚人の暮らす収容所とは何もかもが違い過ぎる建物だが、かつて大理石の床を敷きつめたドイツ国総統官邸を根城にしたアドルフにとって、贅を尽くした別邸も彼を圧倒するほどの威圧感はなく、

 ――ふむ、予定どおりの時間についたな。

 応接間に到着して早々、普段と変わらぬ表情で時計を眺め、食卓の下座に席を取った。

 ちなみに上座に来る人物はもう決まっている。軍法会議の場で顔をあわせたばかりで、今頃まで全体会議に出席している高位の要人、すなわちパベル殿下だ。

 ゆえに上座はいま空席で、すぐそばに冒険者姿の男が立っている。殿下の引き連れた従者に見えるが、直立不動の姿勢から判ずるに使用人ではなく軍人と思われる。

 アドルフはその軍人から視線をそらし、天井を見上げながら思い出した。つい数時間まえにくり広げたカフカとの舌戦と、それが終わったあとにかけられた殿下のひと言を。

 ――お前に興味をもった。ぜひ晩餐をともにしたいのだが暇はあるか?

 特に予定もないアドルフが承諾すると、殿下はさらに言った。

 ――ふたりきりでは肩肘も張ろう。親しい者があれば遠慮なく声をかけよ。

 そう、アドルフはいま、殿下の戻りを待つ立場だが、同時に彼が呼びかけた仲間たちの到着に首を長くしている状態でもあった。

 遅刻を嫌う彼にたいし、声をかけた者たちは少々時間にルーズだったようだ。約束の時間にぴったり合わせたアドルフは溜め息を吐いたが、それが苛立ちに変わる前に応接間のドアが開いた。

「もう居た。君は早いな?」

 真っ先に声をあげたのは、銀髪をなびかせたフリーデだった。殿下に晩餐を誘われたとき、助手だった彼女はちょうど隣にいたため、一緒に連れて行くことにしたのだ。

「我が早いのではない、お前が遅いのだ」

 冗談まじりに嫌みを言うアドルフだが、入口を目視するとフリーデの後から二人の少女が早足で入室してくる。

「よお、アドルフ。昼間の軍法会議はお疲れさん。良いモン見させて貰ったぜ」
「ちょっと何言ってんの。べつにあんたを喜ばすためにアドルフは頑張ったんじゃないんだから」

 騒がしくいがみ合いながらも、ひと塊になって姿を現したのはディアナ、そしてノインだった。

 アドルフはフリーデに言い、彼女たちを連れてくるように頼んでいた。また同時に彼は、被告人だったノインの心労を気にしていた。しかしディアナとの絡みを見る限り、それは杞憂のようである。嫌疑から解放され、むしろ普段よりテンションが高いくらいだ。

 それもこれも、軍法会議で勝利を収めたおかげであろう。ここぞとばかりに鼻を高くしてアドルフは言った。

「今晩は戦勝祝いである。殿下の労いをともに分かち合おうではないか」

 その声が応接間に響いたとき、再びドアが開かれ、収容所の平職員たちが入室してきた。彼らは両手に皿を持ち、よく見ると人数分の前菜を運んできたところのようだ。

「うまそうじゃねぇか」

 舌なめずりをして前菜を凝視するディアナ。しかしアドルフが注目したのは彼女ではなかった。

「失礼する」

 平職員の後ろから、ローブ姿の女性が入ってきた。こじんまりとした背丈で囚人にしては見慣れない格好だが、その立ち姿はアドルフの記憶に鮮明に刻み込まれている。

「……司祭様?」

 女性を見て、驚いたように言ったのはノインだ。そう、最後に入室してきたのは、軍法会議で裁判官役を務めたラグラウ司祭だったのだ。

「堅苦しい呼び方はよしてくれ。せっかくお近づきになったのだからリッドと呼んで貰って構わない」

 司祭はそう言うと、アドルフの隣に近寄ってきて、配膳された前菜に手を伸ばす。

「ほう、新鮮な魚を使っているな。さすが殿下に供される食事だ。これほどの逸品は私もなかなか口にできない」

 その子供のような盗み食いに、アドルフ以外の面々は呆気にとられて固まった。しかしアドルフだけは、全員に着席を促し、心から感謝を口にするのだった。

「軍法会議では世話になった。司祭殿の公正な裁きがどれほど心強かったことか」

 ところが司祭は、この発言を照れ臭く感じたのか、鼻の頭をぽりぽりと掻きながら小声でつぶやく。

「しつこいな、リッドでよいと言っているだろう」

 過度に恐縮するとへそを曲げる人間が世の中にはいる。アドルフは司祭を、そのような人物と見定め、発言をあらためた。

「ではリッドよ。少しばかり尋ねてもよいかね?」
「何だろうか」

 隣席に座りながら小首を傾げたラグラウ司祭。その小動物的な動きに、着席した班員の視線が自然と集まる。

 とはいえアドルフはラグラウ司祭、すなわちリッドがこの部屋を訪れた理由には察しがついており、わずかに頬を弛めながら朗らかな声で問うた。

「貴公をこの晩餐に誘ったのはパベル殿下か?」
「ああ、そうだ」

 リッドは大きなしぐさで頷き、さらに話を続ける。

「先にそのことを伝えておくべきだったな。裁判が終わった後、殿下に『魔法の腕はあるか?』と訊かれ、それなりにあると答えたらここに招かれたんだ」

 肩をすくめ事情を述べるリッドだが、そのあいだにも平職員は次々と部屋に入り、晩餐の準備を整えていく。

 だがアドルフは、その動きには目もくれず、腑に落ちない顔になった。

 ――魔法の腕?

 引っかかったのはその部分である。しかし違和感を言葉にしようと考えた直後、入口から冒険者姿の若者が姿を現した。

「やあ、アドルフ。よく来たな」

 若者はもちろん、白髪の殿下、パベルだった。柔和な笑みを湛えた彼は、部屋の奥へとまっすぐむかってくる。それを見たアドルフは、瞬時に気を利かせて周囲に言った。

「一同、起立」

 素早い号令をかけた彼は、席を立ち、上座に通ずるみちを空けた。班員たちもその動きを真似、最後に困惑した様子のリッドがぎこちなく動きを合わせた。

「もうすぐ食事だというのに畏まらずともよい。気楽にやってくれ」

 殿下のその発言を聞き、アドルフは一礼して席に着いた。他の面々もそれぞれの椅子に座り込む。

「準備もできているようだし、細かいことは後にして食事にしようか」

 快活に声を弾ませた殿下だが、彼は着席するや、まっさきにボウルの水で手を洗い、胸の前で十字を切った。

「――全ての根源たる《主》の恵みに感謝を」

 彼が捧げたのは、むろん食事の前の祈りである。だが、そのしぐさは王族としての品格に溢れており、簡略な動きに慣れているアドルフたちも気持ちを込めざるをえなくなる。

「――全ての根源たる《主》の恵みに感謝を」

 彼らの慎重な祈りを聞き届けた殿下は、ボウルの水に手を浸し着席したアドルフたちを見届けながら、笑顔で言う。

「さて、せっかくの会食だ。遠慮せずなごやかにやろう」

 殿下はひどく気さくな雰囲気だが、囚人が王族と食卓を囲む機会など皆無であり、がさつな班員たちはナイフとフォークを逆にもつなど、早くも混乱した動きを見せる。
 そんな仲間たちを尻目に物怖じしないアドルフだけが、堂々としたしぐさで前菜を口に運んでいく。

「ふむ、美味い」

 素材と料理人の腕が段違いなのであろう。普段から粗末なものを食べているアドルフは、王族向けの一皿に感嘆の声を洩らした。

 そんな彼の様子を嬉しそうに眺め、殿下は器用にも、食事に手をつけながら話しかけてきた。
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