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第三章

悪魔の転生1

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 その決定を聞いたとき、アドルフ・ヒトラーの転生担当者である天使ネーヴェはおのれの耳を疑い、あやうく声に出すところだった。

 もちろん《主》の意志に逆らうこと、その妥当性を疑うことなどできるはずもなく、躊躇はほんの一瞬で、他の天使がするように恭しく拝聴する以外とれる態度はなかった。

 人の子がもつであろうおおかたの見解に反し、《主》は忠実な手足である者たちを見透し、おのれの万能でもって心の有り様を読み取るようなまねをしなかった。その懐の広い態度を《主》は信頼と呼んだ。たとえどのような心を抱こうとも、おのれの意志を汲み、成果に結びつく行動さえ示すなら、深くは追及しないという寛大な姿勢だ。

 ネーヴェの仕えた《主》は意外にも実利主義者だったのだ。そのうえバランスを重視する立場だった。人の世を善で覆い尽くすことを目的とするような偏った考えは示さず、おのれを中心軸に世界が均衡する状態を最善と考え、その意志に沿った裁定をくだす存在だった。

 ありていにいえば、世界には善と悪が等しくあるべきで、《主》の天秤を偏りなくたもつことが重要と見なしていた。

 ゆえに天界には、人の子が聞いたら卒倒するような常識がまかり通っている。

 ネーヴェは天使という善性の守護者であったから、《主》の意志の二面性に複雑な感情を抱いていた。それは罪人に改心を求め罰を下すときもあれば、咎人の悪をあえて温存する矛盾した方針にもなるからだ。

 大まかな計算によると、善が一〇〇にたいし悪が一で人類世界は均衡する。したがって天界には一〇〇人の天使にたいし一人の対抗者が存在することになるのだった。

 その対抗者を人の子は〈悪魔〉と呼んでいる。

 ネーヴェが知った決定とは自分がアドルフ・ヒトラーの加護を任務として授かったように、みずからの対抗者である悪魔のひとりが、同じく著名な極悪人の魂を導くよう《主》が裁定したという驚くべき事実だった。

 その悪魔は名をグレアムという。

 グレアムは暴食の罪を背負っており、新たに管理すべき人の子の魂が現れるまで、ただひたすら肉をほおばっていた。執務の間であろうと常にナイフとフォークをいじりっ放しで、黒装束をまとうその表情は、目許を細く切り抜いた白い仮面の下に隠れている。

 《主》の裁定が下った悪魔が時を忘れて食事を続けるわけは、天界における時間の概念がひどく歪んでいるからであった。それは天界の住人によって〈短い永遠〉と呼ばれている。睡眠が不要なことから来るどこまでも脈絡がない間延びした時と、人の子の死を処理し続ける忙しない時が同居していることがその名の由来だ。

 時間の捉え方が歪んでいる証拠に、グレアムにとって昨日のことのように思えるアドルフ・ヒトラーの死と転生から、地上界の時間にして八年の歳月が経っていた。血の滴る肉を夢中でたいらげ、送致された魂に導きを与え続けている間に予期せぬ形で《主》の裁定が下った感覚である。

 天界の話題を独り占めしたヒトラーのような人の子の歴史に名を刻む悪人はわずかではあるが確実にいた。その管理を任されるのは重責で、面倒ごとを嫌う怠惰な悪魔たちは自分が指名されることをひどく煙たがっている。

 グレアムはしかし、そのなかでは変わり種の悪魔だった。ヒトラーに匹敵する極悪人が天界に、しかも悪魔の管轄下に置かれるべく送致されたと知ったとき、自分が担当になればいいとひそかに考え、それは《主》の裁定によって運良く叶えられた。

 生前、ときに悪魔とさえ呼ばれる生き様を貫いた点で、その人の子は天界の悪魔にも劣らぬ逸材とのふれこみだった。《主》の命である管理通達を受け取っても暴食をやめないグレアムだったが、一体どんな輩が送られてくるのか純粋に愉しみを覚えていた。

 もちろん、だからといって客人をもてなすような準備などせず、ただひたすらフォークに刺した肉片を口に運び続ける作業は変わらない。

 とはいえ悪魔の住まう区域は深い闇に包まれ、グレアムの部屋も配膳された肉を食むのに不自由しない程度の灯りしかともっていなかったから、問題の人の子が現れたとき、それは迷宮をさまよってきたかのごとき姿勢でグレアムの前にふらりとまろびでた。

「ねぇ、そこの貴方。ここはどこかしら?」

 人の子は、街なかで通行人とすれ違ったときのような眼でグレアムを見つめてきた。そこには困惑こそあれど恐怖の色はなく、むしろきわめて冷静に見えた。

 グレアムは自他ともに認める優秀な悪魔であったから、自分の放つ不気味な威圧感に怯えない人の子を物珍しく思い、咀嚼した肉を飲み込んだ後、厳かに言った。

「ここは死後の世界である」

 グレアムは、男女の区別がなく、大人とも子供とも受け取れる天界人特有な声を出し、ナイフとフォークを置いた。

「なるほどねぇ」

 グレアムの即答を受け、人の子は呆けたように天井を見あげた。
 悪魔の部屋は暗い闇に閉ざされている一方、巨大な鏡が広い空間の四面を覆っているため、ほのかな灯りがいくつもの乱反射を生じ、かろうじて互いの目視を可能にしている。

「不思議。灯りはあるけど深海にいるような錯覚を覚えるわ」

 この部屋と、グレアムを彩る真っ黒な色合いを表現するうえで、人の子の言葉は適切に思えた。

「そんなに珍しいか?」
「ええ、とても」

 人の子はなおも部屋を見まわし、明らかなる好奇心で声を弾ませる。その落ち着きがない子供のような無邪気さは、管理者であるグレアムにふと奇妙な印象を残した。
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