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第五章

リッドの内省1

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 市場が活況だったせいで気づきにくかったが、実はこのとき、連邦国家の景気はかつてないほど冷え込んでいた。子供の頃のほうが栄えていたというアドルフの指摘は的を射ていたのだ。

 したがって不況の煽りを受け、どの商店も経営は苦しいのが実情。しかしアドルフたちの入った食堂は、高騰する物価を値段に反映せず、料理の質も下げないために頑張っているらしく、客席は常に満杯のようであった。

「お薦めはこいつだぜ」

 運良く空いたばかりのテーブルに案内された途端、渡されたメニューとにらめっこをはじめたリッドを見かねて、隣に座ったディアナが指を指してくる。

 どういう料理なんだ、とリッドが訊くと、

「グリヴィ・スメタニャ。焼きたてパンをかぶせたつぼ焼きだ。熱々になったマッシュルームのクリーム煮をパンにつけて食べるのさ。キノコの濃厚な風味がやみつきになるぜ」

 ディアナが言うには、それはトルナバの名物料理だった。地元の人間が言うのだから間違いなかろうと、注文を取りに来た店員にリッドはそれを頼んだ。

「諸君、空腹に駆られて注文し過ぎるな。腹八分目が大事である」

 メニューを手にしてはしゃぎ気味の面々をアドルフがたしなめた。そこに若々しい外見とは裏腹な大人びた雰囲気を感じとったリッドをよそに、隣席に陣取るノインがおもむろに声を発した。

「そう言えばさ、あんたまだ解放許可状を申請してないの?」

 訊かれたアドルフは「申請しておるが、冒険者登録後に貰うはめになった」と答え、早速運ばれてきた赤ワインをグラスに注ぎ、それで喉を潤しはじめた。しかもお冷やを混ぜ、わざと薄めている。

 リッドは彼の動きを目をとめながら、何となく疑問を挟んだ。

「行政側の発行に遅延でも出たのか?」
「まあな。かつてない事務処理に役人も右往左往しておるのであろ」

 口調は少々愚痴っぽいものの機嫌が悪かったわけではないらしく、手にしたグラスをテーブルに置いたアドルフは全員の顔を見まわして穏やかに言う。

「どちらにせよ、解放を得ること自体はもう揺るがん。諸君らもいまのうちに羽根を休めるがよい」

 そのひと言は、注意深く聞くと意味深な発言であった。ところが文字どおり解放感に溢れた少女たちは「羽根を休めろ」という部分にのみ反応し、気になった料理を次々注文していく。アドルフが腹八分目にしろとたしなめた意味はあまりなかったようだ。

 食事を前にして落ち着けないのは人の性だが、一人だけ浮かれた雰囲気に馴染まないリッドは、自分の正面に座ったアドルフの外見を興味深く眺めていた。

 食堂に入る前から気になっていたとおり、アドルフは物珍しい口ひげを生やし、だれよりも異彩を放つ衣服を身に着けていた。何しろ彼は、普通はもっぱら政治家が着るたぐいの衣服、通称〈国民服〉に身を包んでいたからだ。

 その特徴は、軍服とスーツの良いとこ取りをしたような仕立てという一点に集約される。アクセントとして首元には愛用のマフラーが巻かれていたが、最大のポイントはそんな特別な衣服を政治家ではない、ただの一般人が身につけていることだ。

 違う世界の言葉でいえばコスプレと呼ばれる行為であるが、そんなものが一般化していないセクリタナではアドルフの格好は大道芸人にしか見えない。

 常識で身を固めたリッドも最初はそう思いかけた。しかし彼女は、命を懸けた戦闘という短いが濃密な時間をアドルフと過ごし、彼が人並みはずれた力を発揮する姿を目の当たりにしている。

 もしルアーガとの戦いを通じて精神的成長のようなものがあり、その結果が国民服につながっているとするなら、いま自分が目にしているのは何らかの目的をもった決意の現れではないか。そんな自問自答の末にリッドは、気づけばアドルフをまたしても凝視していた。

「何度もどうした。顔が少し恐いぞ。まるでフリーデのようだ」

 アドルフは軽い冗談のつもりだったのだろう。しかし名指しされたフリーデは横合いから不機嫌な声を返してきた。

「いまちょっと馬鹿にされたのは気のせいか?」
「勘違いするな。他意はない、他意は」

 両手を広げて「何も隠しておらんぞ」とばかりに芝居がかった笑みをこしらえるアドルフ。フリーデも本気で噛みつく気はなかったらしく、最後に捨て台詞を放ってピリオドを打つ。

「僕の顔を笑えた立場か。君の生やした口ひげのほうがよっぽど問題含みだ」

 リッドは最後のひと言に迷わず賛成票を投じたくなった。しかしその一方で、ほんの少し疑問も抱いた。さっきアドルフは、口ひげを自慢しながら「連中の評判もすこぶるよい」と述べていたはずで、フリーデの感想はその発言と矛盾していたからだ。

 とはいえ、この場に同席した連中の美的感覚のおかしさはもう嫌というほど味わっており、彼女は匙を投げるような気持ちで口ひげにこだわるのをやめた。それが新たな波紋を呼び起こす遠因になるとは予想すらせずに。

 ***

 ほどよい空腹感に昼食が待ち遠しくなった頃、できあがった料理が流れるような勢いで配膳されてきた。ホールを取り仕切る若い女性が両手に皿を持ち、厨房とテーブルを弾丸のように往復する。やがてその流れが一段落したのを見計らい、咳払いをしたアドルフが仲間たちを見渡し、厳かな声で言った。

「食事を摂る前に話しておきたいことがある。ここにいる者たちは生命の危機を乗り越え、解放を得た。それ自体は喜ばしいことだが、その過程で犠牲も強いられた。マクロを失ったのは、我がおかした痛恨のミスである。残りの従者たち――いまだ収容所に囚われたままのブローカー、バリュウには会わせる顔がない。よって何らかの償いが必要だと考える」

 給仕係が席を離れるタイミングを見計らっていたのだろう。それでも声を潜め、テーブルの一点に目を落としたままのアドルフ。

「唐突に真面目かよ。いまは食事が先だろ?」

 場の雰囲気に釣り合わないと感じたのか、フォークを片手にディアナが焦れた声を出す。

「そうかもしれんな。腹が満ちた頃にやり直そう」

 気持ちを切り替えたのか、アドルフは仲間たちに視線を送りながら、胸のまえで十字を切った。

「全ての根源たる《主》の恵みに感謝を」

 その言葉を発してから約一〇秒。両手を組み合わせたアドルフは黙祷を行った。リッドにとって普通の行為だが、慣れない者もいたらしく、ノインなどは皿に伸ばそうとした手を止め、何かを思い出したかのように両手を組み直す。

 いわゆる食前の祈りだったが、収容所の囚人たちは同じ行為を惰性的かつ形式的におこなう。リッドはその習慣をよく知る者として、アドルフが率先した行為を念入りで心がこもったものに感じ、その動機に思いを馳せた。

 大前提としてアドルフたちは、解放と引き換えに信仰の厳格化を受け入れた。リッドはその見届け人を任じたが、当初は信仰と解放を結びつけることに懸念を抱き、その気持ちに変化はなかった。しかしいざアドルフの態度を目の当たりにした彼女は、敬虔かどうかは一概に言えないが、慎み深くはあるだろうと心の底で感心した。

 ――ふむ。即席にしては立派なものではないか。

 すでに解放を得た以上、蔑ろにしようと思えばできた部分だ。このときリッドは改めてアドルフの心の変化に意識をむけた。
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