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第七章

ビュクシ攻防戦7

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 もっともこのときルツィエは、三〇〇メーテルほど離れた空域において、いまや遠目から高みの見物となっていた。状況は後追いで理解できたし、何しろ必要なマナは全身に満ち溢れ、機は熟している。あとは発動を待つばかりだからだ。

 悪魔がくれた悪魔を使役する召喚術。強大な魔獣に勝るとも劣らない、などとグレアムは誇らしげに語っていた。

 その威力のほどを確かめてやろうではないか。
 チェイカを静止させたルツィエは、代理の杖を片手に、召喚の言葉を口ずさんでみせた。

「――顕現せよ、妾に隷属せし悪魔よ」

 そのとき、重力に逆らったペンダントからグレアムが騒がしげに喚き立てた。

「フヒハハ。貴様に与えたのは、最大の魔力をもってすればこの空域から全てを消し去ることさえ可能な力だ。絶大な威力にひれ伏すがよい!」

 グレアムの言葉を追いかけて続く詠唱文をルツィエはとなえる。それはなぜか、記憶さえしていないはずなのにすらすら澱みなく喉の奥から湧いて出る。

 そして詠唱の文言を飛び越え、ルツィエの前方に発生した力場が階層的に連なる魔方陣を形づくった。全長は一般的な飛空挺より大きく、壮麗な意匠を散りばめた紋様は薄曇りの大気に青白い光を放つ。

 悪魔を使役する魔法。かつて政敵に悪魔と呼ばれたスターリンの思い描く世界観にぴたりと一致する概念だ。自分は悪魔のなかの悪魔である。悪魔を使役するうえで彼女ほどうってつけな存在はいない。

 パベルはついさっき、この世界にどれだけの悪があろうとそこには目的があり、正しい全体の一部であるという考えを最善説と呼び、それを否定した。

 しかし彼の立場は、ソ連の赤い皇帝だったルツィエの考えに反する。
 この世界は調和がとれているのだ。悪は必然であり、そうでなければ悪魔のくれた術で悪魔を召喚できるわけがないし、自分という悪魔が滅びずにいられた道理もない。街を焦土にせよと命じたパベルも同類だ。みんな心に悪魔を飼っている。

 いつしか詠唱文は途切れ、ルツィエは代理の杖を真上に掲げた。すると眼前の魔方陣、すなわち術式から黒い煙のような気体が立ちのぼる。それはマナを凝縮させたエネルギーの塊であると同時に、召喚した悪魔の顕現する経路にも見え、大量の暗闇が周囲の光を併呑する様が目に入った。

 やがて前方に立ちこめる黒煙は急速に形をなし、人間の背丈をゆうに超える頭部が現れはじめた。

 ルツィエは平均的な魔導師とは比較にならない量のオドを備えているが、今回の召喚術はそんな彼女の魔力を猛烈な勢いで吸いあげていき、そのことによって凝集したマナが豊富なオドをのみ込むことで、巨大な頭部から下の部分を形づくりはじめた。

 肩から上半身、腰から腹部、最後にどっしりしたサイズの太腿。
 それらは全てが、人体の一部分だった。つまりルツィエが召喚した悪魔とは、この空域全体を占める背丈を持つ、空をも突き抜けるほどの巨人に他ならなかった。

「素晴らしい。傑出した悪魔は、同じくらい傑出した悪魔を召喚できるのだな!」

 ペンダントが喚くのはグレアムの声。
 普段の人を見下したような嘲笑は止み、興奮した様子が如実に滲んでいる。ルツィエにして見れば、グレアムと知り合って以来、まったく初めての体験だ。

 ――それほどの異様を妾は召しあげたのか。

 グレアムの授けた悪魔召喚という魔法は、術者の傑出度に応じて呼び出せる悪魔の格が決まるらしい。あらゆる人類史において残虐な独裁者の頂点をきわめたスターリンだからこそ、召喚したのも最高位に属する悪魔だったようだ。

 緩やかにカーブした髪と豊かに蓄えられた髭。赤いマントを凛々しく羽織り、閃光のごとき瞳を光らせながら、古代ローマ時代の将軍衣をまとった巨躯が太腿の辺りまで地上に出る。

 太腿から下は術式のなかに埋まって見ることはできないが、それでもけた違いの迫力だ。ルツィエはおのれが生み出した驚異に目を見張り、かつてない愉悦で体を震わせた。

 しかし眼の届く範囲で最大の衝撃を浴びていたのは、彼女の長兄、パベルだったと思う。

「――――」

 声を出そうにも言葉がない。かわりに目がこれでもかと見開かれている。現実に圧倒された者の顔だ。
 そんなパベルをよそに、黒い風をまとう巨人は地鳴りのごとき名乗りをあげた。

われは召喚されし悪魔バアル。真の名をハンニバル・バルカという」

 ルツィエは巨人が述べた名前を知っていた。いや、知らない政治家などいるだろうか。人類史上でも屈指の将軍と誉れも高き、紀元前に活躍したカルタゴの王。それがハンニバルだ。

 もっともルツィエの知識はそこまで。なぜハンニバルが悪魔となったかは知らない。
 事実を言えば、彼を倒した者たちが「ハンニバルは残虐きわまりなかった」と書き残したことが彼を悪魔に変えた由来だ。やがて当時のローマにおいてハンニバルは、人々があまねく畏れる恐怖の代名詞となった。

 けれどそんな逸話は、ルツィエにとって瑣末に過ぎない。問題は死んで悪魔となった彼がどんな力を有しているかだ。

 とにかくハンニバルは、その大きさにおいてこの世界の常識すらはみ出している。何しろ彼の背丈より高い建物がビュクシには存在しなかった。

 見る者を射抜くような視線は威厳に満ちた佇まいで行政府庁舎を睥睨しており、その右手には雲をもつんざく、およそ数十メーテルに及ぶ矛が握られている。

 ここから起こることは全てが未知だ。ハンニバルはただ、術者の命令を待っているかに見えた。彼の召喚者たるルツィエの命令を。

 他方で彼女の気持ちはとうに決まっていた。

 敵指揮官を殲滅するのは言うまでもない。そのうえでルツィエは目の上にできた異物、すなわち兄であるパベルを取り除く気だった。みずからの血塗られた手で。

「突き殺せ――ハンニバル・バルカ!!」

 唄うように叫んだ途端、ハンニバルの振りあげた矛から稲光りがごぶりと轟き、放たれるまえの雷光が薄曇りの空全体を震撼させる。
 通常の〈稲妻〉がランプの火ならば、その雷光は山をも灼き払う業火に見え、一瞬のうちにパベルのいた空域を光の渦がのみ込んでいった。

 よって必然的に、パベルの着た赤い軍服も、目も眩むような光にその色を失う。

『たっ――退避っ! 退避っ!!』

 パベルは水素伝達を使い、包囲中の鉄兜団員に命令を発した。けれどそれは遅きに失したと言えるし、彼自身全てが手遅れだとわかっていたように思う。

 なぜならルツィエはそこで薄れゆくパベルの形相を見た。天界の悪魔だってもう少しは穏やかな顔をする。パベルは儚すぎる一瞬で悟ったのだ。寵愛する妹が味方に牙をむいたこと。そして自分を殺める気でいることに。

 指導部を去るときの政敵トロツキーもそういう顔をして目の前から姿を消した。憎しみを押し殺した恨みがましい顔。所詮負け犬のしぐさだ。

「人は皆悪魔だったとしても、妾のほうが断然格上のようね」

 パベルには永遠に届かない声でルツィエは哄笑した。彼女はほんの少しだけ嬉しかったのだ。最後に兄がとびきり醜い憎悪を顔に浮かべたことが。その喜びは勝者の余裕だ。ルツィエはパベルの死を確信してとめどなく笑った。

 次の瞬間、その笑い声は見事に打ち消された。尋常ならざる雷光が大気を激しく揺らし、灰色の雲を引き裂く稲妻が怒濤のごとく降り注いだからだ。街全体を包み込む激しい光、聴覚を奪い尽くす爆音をともない、それはビュクシの街に突き刺さる七本の剣となった。

 もはや攻撃と呼ぶのさえ生易しい。それはほとんど一方的な処刑と言うべきだった。

 最大の標的であるパベルはおろか、敵指揮官たちの張った結界、健在するエディッサといった対象物に七つの剣は破局的な打撃を浴びせかけ、街全体がうねり狂う波濤のように揺れ動いた。

 ルツィエが愉快げに目を細めた先で、褐色の土煙を吸った大気と膨大な塵が空の高みに舞いあがる。それらは視界を暗幕のように覆い、まるで大量の対戦車弾を投下した跡であるかのようだった。

 状況はしばらく、砂混じりのベールに包み込まれる。その下でいったい何が起きているのか、破局の程度は目視できないが、あれだけの大規模魔法をまともにくらって平気な者は皆無だろう。

 土煙はやがて朝日に溶けた濃霧のように少しずつ晴れていき、雷光の突き刺さった部分が露となった。

 雷光が直撃したとおぼしき箇所は跡形もなくなっており、商店の連なった街の一部は壊滅状況だった。そしてルツィエは、逃げそびれた民衆が折り重なる場所に灼け焦げた赤い軍服を目にすることができた。頭部は欠損しているが紛れもない。それは傷ついたパベルの遺体に他ならなかった。

 念願とも言える目標の達成は、人に喩えようもない満足感をもたらす。ルツィエは口の端をつりあげ、思わず口笛を鳴らした。

 見あげれば、上空に難を逃れた鉄兜団員が一名、身じろぎもせずチェイカを浮かべている。だが彼は、パベルの救出に向かわず、ルツィエを咎めようともしない。なぜなら敵指揮官らへの攻撃が、不運にも味方を巻き込んだと解釈する以外、方法がなかったからだ。街の破壊をめざす大規模魔法の使用許可は出ていたし、それは味方の軍勢も承知している。

 ルツィエの謀殺はいわば完全犯罪になったわけだ。
 しかしこのとき、彼女は片時も慢心しなかった。なぜなら視界が開けていくにつれ、庁舎付近の様子が明らかになったからだ。

 すぐにわかったのは、敵の結界が破れていたことである。だが破れた部分に眼を凝らすと、男が一人仰向けに倒れたまま、身動きすらしていなかった。けれどその男はすぐさま起きあがり、頭部を左右に振って自分の足で立ち上がった。

 男は若く、国民服を着ていた。つまりそれは敵指揮官に他ならなかった。しかも明らかにダメージは軽微なようだった。そう、男は生きていたのだ。しぶとく虫けらの分際で。

 渾身の一撃を浴びせたはずなのに、この結果はどう説明づければよいのか。結界はハンニバルの攻撃でちぎれ飛んだはずだ。
 しかし結界が衝撃を吸収する役目を果たしたとするなら辻褄は合う。それにグレアムは、召喚された悪魔の戦力が術者の魔力に依存するという趣旨のことを語っていた。

 一度〈爆縮〉を放った後だけに、体内のオドが目減りし、会心の一撃と呼ぶには物足りない攻撃になったと見ればよいのか。あるいは魔力の温存を無意識に図ってしまい、残らず使い切るのを避けてしまったのかもしれない。くわえて街に放った火災の影響でマナが薄くなっていたことも考えられる。

 とはいえ、そうした分析に意味はない。
 最大の標的とした兄は葬ったのだ。次は生き残った敵指揮官の番だ。
 ルツィエは頭を切り替え、すぐさま第二撃の準備に入る。民衆のざわつきになど眼もくれず、マナの凝集を再開しながら、目の前の巨人へ追加命令を発した。

「ハンニバル、あそこにいる敵指揮官たちを皆殺しになさい!」

 もっともこのとき、ルツィエは危険な賭けに出ていた。
 ハンニバルを召喚し、使役するたび、オドを消費する。先ほど撃ち放った攻撃が教えたのは、悪魔の消耗するオドは相当な量に及んでおり、もし不足が生じれば攻撃は不発に終わるか、強引に搾り取られ生命力を奪われる危険があった。

 まさに死力を尽くすことになるわけだが、彼女は瞬時にそれを良しとした。敵指揮官の殲滅が戦勝の手柄となるならば、当然討ち洩らすわけにはいかない。

 不確実な要素はあるものの、優位は絶対的に思え、ルツィエはそこからあえて慎重に呼吸を整えた。ところが、さらに集中を増そうとした矢先、彼女の目が急に鋭く細められた。

 眼下を覆う土煙が完全に晴れ、庁舎周辺の被害が露になったからである。攻撃の激しさに比し、その規模は驚くほど小さかった。多数の人間が折り重なってはいるものの、わずかな動きから生存の様子があちこちで確認できる。

 結界のもたらした効果なのは間違いない。だがルツィエはそのことに気を奪われたのではなかった。
 彼女の心が揺れたのは、そこに英雄的な行為を読みとったからである。

 偶然の要素は含まれていよう。けれど敵指揮官の働きで結界が張られ、それが結果的に民衆を救ったのは動かしがたい事実だ。彼らはきっと、その働きに〈正義〉という言葉をあてはめるだろう。たとえ真実がその真逆であったとしても。

 新たな情報はルツィエを天の邪鬼にさせた。自分を正義と言い募るつもりは毛頭ないが、相手に正義を名乗らせたくもない。とことん性格のネジ曲がった彼女は瞬く間に反発心を抱き、その劣悪な思いは一点の曇りもない殺意へと変わっていった。

「手加減は要らないわ、全員ぶち殺せ!」

 王族の高貴さに泥を塗る台詞が口をついたが、この時点で魔力の充填が終えていたのか、ハンニバルに告げた命令は即座に行動へと移された。

 表情を無くした巨人の悪魔は、結末を迎えた惨劇に幕引きすべく、雷撃の矛を高々と掲げる。異様に張りつめた体幹はハンニバルの胴体に深い割れを作り、彼を取り巻く黒い疾風が再び大気を震わせた。

 その動作を眺めやるルツィエは、幼き声でもう一度命令をくり返す。彼女の浮かべた表情はしかし、無邪気と呼ぶには醜悪過ぎ、到底この世のものとは思えないほどのものであった。(続く
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