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第七章

ビュクシ攻防戦12

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 ――くそっ、敵はまだ生きておる。

 機敏にその異変を察知するやアドルフは、顔つきの険しさを増し、独特のしゃがれ声を幕僚たちに向けた。

「諸君、警戒せよ。戦いは終わっておらん!」

 それを聞き、思わず口を利いたのはフリーデである。

「待ってくれ。いまの一撃で――」

 不可解さの滲む声だが、アドルフに驚きはない。
 彼女はきっと、予感を抱いたのだろう。何しろ巨人は傷口から順に空の藻くずとなっていたのだから、消失はすでに時間の問題だと。

 的外れとは言いがたい。けれど見るべきものはべつにある。

「あれを見よ、フリーデ。巨人の足許だ」

 足許と言われても腰から下は術式の中だ。しかし、言わんとするポイントはそこではない。巨人の真下に位置する、大量の土埃で煙った地上部分。眼を向けるべきはそこだった。

 落下したように見えた。けれど落ちはしたが、落ちきってはいなかったのだ。

 敵のチェイカである。幼女だ。操縦席にしがみつき、高度をあげている。赤い軍装を土気色に染め、威厳もくそもないが、継戦の意志は明らかだ。何という執念深さか。

「死に損ないめ」

 吐き捨てたアドルフだが、感情はこもっていない。不純物がなくなると、炎の色は真っ白になる。静かに燃えた心は、次の一手をリッドに告げる。

「すぐに翼竜を出せ。我みずからあの幼女を討つ」

 様子を窺うそぶりもなく、穏やかに言ったが、見事に説明をはぶいた命令である。冷静さを取り戻しつつあったリッドも、慌てたような声になる。

「出すのは構わないが、どうする気だ? まさかお前――」
「なに、攻撃面での支援は期待しておらん。操縦だけよろしく頼む」

 いつにも増して堂々たる口調。翼竜の生存を確認した上で、リッドは「わかった」と答えた。
 とはいえ本当のことを言えば、彼女は釈然としなかったはずである。リッドだけではない、傍観していたフリーデも同じ気持ちを抱いたと思う。周囲を取り巻く群衆に到っては、状況把握も覚束なかったであろう。

 だが、それでよいのだ。アドルフには揺るぎない自信があった。

 空域のマナはさっきよりさらに薄く、いくらオドを絞り出しても彼にはもう通常の魔導戦は無理だ。臨機応変に戦えない。

 とはいえあの幼女なら、残留する魔力を根こそぎ集めてもう一撃放つことは可能。的を自分に絞れば、消費量は最小限でいい。
 幼女の内面にみなぎる執念を、なぜかアドルフは共有した。つまりそれが自信の根拠である。

 ――ここからは決戦だ。

 彼は背中に差した剣を抜き、その重みを感じつつ右手に構えた。魔導戦が駄目なら剣戟しかない。元々飾りのためとはいえ、攻撃にも防御にも使える歴とした武器だ。

 こうなるともうフリーデなどは口を挟むことができない。マナの枯渇は彼女も感じていたからだろう。
 アドルフはそんなフリーデを振り返り、軽く笑んで、視線を前に戻しながら言った。

「戦況に応じて自由に動け。後は任せる」

 彼が背筋を伸ばしてひと息吐くと、いち早く翼竜に飛び乗っていたリッドが、「早くしろ」と言わんばかりに手招きした。アドルフは大地を蹴りつけ、跳ねるようなしぐさで彼女の後部に跨がった。

「行くぞ!」

 大声でどやしつけると、翼竜が反応良く浮きあがった。羽ばたきは突風を巻き起こし、前髪が荒っぽく舞い踊る。

 彼の目論みは、敵の巨人次第だった。その動きが敏捷なら、背後からまわり込む。しかし緩慢な動作を見せようものなら直進して、敵の幼女を屠るつもりだ。動力源であるマナの凝集には手こずるはずだし、そのぶん隙が生じれば、こちらの打撃は決定的となる。敵の意志を奪うべく〈遵守〉を使う余裕などない。体と体のぶつかり合いになるだろう。

 判断は驚くほど一瞬でついた。なぜならすでに下地があったからだ。
 戦場とは、得てしてちぐはぐな状況を生む。進むべき方向が定まっていかず、みんな自分のことしか見えない。全体を見渡せない。結果ひとは、焦ることしかできない。

 ほんの少し前、そうした現象が起きていた。けれどアドルフにとって、それは故郷のように馴染み深いものだ。

 ――不安を捨て一切を委ねよ。指導者である我に!

 幕僚や群衆に語りかける余裕でもあれば、そう言って鼓舞し、勇気づけてやれたと思う。
 あいにく時間はなく、無理ではあったが、全てを伝えられたはずだ。

 そう、アドルフはだいぶ前からわかっていたのである。「この次」は存在せず、いまが最後の分岐点に他ならないことが。

 彼自身、そんな真似ができた理由は明らかでない。だが、心の奥底では気づいていた。
 人は無意識に共感を覚えることがある。相手が敵であっても、それは起こりうる。特に死をのぞき見たときなどは、恐怖と引き換えに敵に敬意すら抱く。

 むろん独裁者は、そうした心の働きを否認して、意識すらしない。けれど、なかったことにはできないのだ。幼女の強さが彼に共鳴を生み、最優先事項を先読みさせた。

 ――我が幼女なら巨人を再稼働させる。異なる手段は検討する気もせん。

 常識的な考えに反して、根源的な思考ほど実は幼稚なものに近づく。最適な選択肢がわからないとき、原始的欲求こそが優位となるからだ。

 この戦闘において、巨人の真実の姿はすぐれた玩具だった。というか、あらゆる兵器が根源的には玩具である。使う者は、それが楽しくて仕方ないのだ。完全に壊れたのならいざ知らず、動く余地があるなら遊び尽すのが本能と言えよう。
 あまりに単純だが恐ろしく明快。アドルフが得た共感とは、敵が抱くだろう子供じみた執着心そのものだった。

 もっともこのとき、彼の心は唐突に動く。

 瞬きを止めたその眼が、巨人の鈍くて重い動きを捉えたのだ。引き上げた腕を腰だめに構えるが、そのテンポは蠅が止まりそうなほど遅く、だとすれば当初の予定どおり、判断は一択しかない。

「高速で直進せよ。あの幼女を討ち倒す!」

 巨人の第三撃に敵はこだわった。それが命取りだったことも知らず。
 いまからべつの魔法に切り替えたとしても間に合うまい。幼女の判断ミスを嘲笑い、剣の切っ先を敵のチェイカに向けたアドルフ――。

 地上で戦況を追い続けた人のうち、目端の利く者は理解したと思う。疲弊した幼女はろくな戦闘態勢をとれてない。そこに斬り込む行為はまるで、ガラ空きのゴールに球を蹴り入れるようなものだったことを。

 ところがそのその瞬間、驚くべきことが起きた。

 燃料切れを起こしていた巨人が突然躍動し、その山のごとき拳を翼竜に向けて突き出してきたのだ。
 ほとんど力任せの打撃を予測していた者は皆無だったのではないか。何しろアドルフ自身が、幼女という一点のみを視野に捉えていたがゆえに、驚く余裕さえなかったはずだ。

 いや、そうではなかった。たったひとり、不測を見逃さない女がいた。リッドである。

 彼女は操縦士であるから、常に視野を広げ、感覚を研ぎ澄ませていた。その八方に張りめぐらせた集中力が巨人の挙動を素早く捉え、くり出された正拳突きをすんでのところで回避させた。
 高速度で円弧を描く翼竜。握った手綱を引きあげ、リッドは大声で叫び散らす。

「ここからどうすればいい!?」

 将帥に命令を仰ぐ。部下の鑑のような行動だが、このときアドルフは自分が命拾いしたことにようやく気づいた有様。命を賭すのか、それとも安全策か。判断を下そうにも、思考できる状態にない。

 最適解が見出だせない状況下でやれることは限られる。たとえば、生存本能に従うこと。
 しかしアドルフは、そんな臆病な自分をソンム河における塹壕戦で熟知していた。死にたくないという思いが判断を誤らせることを。

 だから前線を外れて以降、彼は本能の逆張りを好むようになった。反射的でありながらも間違う確率を減らすために――。

「もう一度、敵のチェイカへ向かえ。今度こそ討ち果たす!」

 風圧が強過ぎて、命令は怒鳴り声になった。
 けれど、巨人が復活したことで命令の意味は大きく変化し、死の危険は倍増した。
 賢いリッドはそれを察したはずであるが、迷いは見せなかった。支えると決めた以上、アドルフに従う。心服したわけではなくても、彼女なりの身の処し方があるのだ。

 《主》は預言者を通じて世界の過酷さを説いた。酷いことだらけな世の中で、おのれを信じて生き延びよと。
 図らずも、彼女の根拠はアドルフの逆になった。けれど現実の行動は完全に一致したものとなる。
 アドルフはリッドが手綱を打ち、翼竜を加速させたのを見て、姿勢を低くした。無言で測ったのは敵との間合い。コンマ数秒の斬り合いに備え、そこで決着をつける腹だ。

 何度めかの覚悟を右手の剣にこめると、幼女との距離がみるみる縮まっていく。
 依然曇りがちな陽光を浴び、黄金色の兜がきらめいていた。短いつばから覗く未熟な顔。それでも死に物狂いで抗う、命懸けの表情に見えた。

 が、しかし――。

 それはまったくの思い違いだった。

 幼女は突然、笑いだしたのだ。げらげらと。子供のものとは思えぬ不気味さで。
 巨人の再稼働で余裕が生じたのか。だとしてもその挑発は、あまりに愚弄が過ぎる。

「腐れ幼女め! 我に勝ったつもりか!」

 腹立ちまぎれに叫ぶが、ほとんど同時に巨人の矛が閃光を発した。打撃をくり出すばかりか、第三撃まで放とうというのか。
 幼女が魔導師としてどれほど桁外れな存在なのか。もはや実力の底は窺い知れない、が――。

「戦いの手を弛める理由にはならん!」

 翼竜はチェイカの側面を狙って直進し、アドルフは剣の切っ先を幼女の額に向けた。マナの凝集速度から言って、第三撃まで時間はある。それまでに巨人を操れなくすればいい。
 とはいえ敵の側も、漫然と殺られる気はないようだった。

「ハンニバル。妾を守りなさい!」

 あまりに早口で、金切り声にしか聞こえなかった。その代わり、巨人から物凄い量の黒煙が噴き出し、幼女の体をすっぽり覆い尽くしていく。
 アドルフの突き出した剣の刃はなおも幼女に追いすがろうとするが、彼自身も黒煙にのまれ、視界は揺らめく闇に染まった。
 一転して彼は、みずからが窮地に陥ったことを悟る。

「――これは罠だ!」

 まったく共通する認識をリッドが叫んだ。
 接近戦に持ち込み、勢いでは負けてなかったから、動揺があからさまな声である。

 たいするアドルフはもう少し冷静だったが、そのぶん状況把握に意識が向く。幼女が弄した挑発は撒き餌だったのだ。つまりこの黒煙は、周到に用意された生け捕りの仕掛け――。

 おそらくこの黒煙が晴れたとき、自分は無防備な姿をさらす。敵の幼女はその瞬間をじっと待ち構えている。あの不気味な嘲笑を浮かべて。
 ろくな心構えもなく死地に追い込まれたとき、人は何を考えるだろう。思い出してしまうのではないか、似たような目に遭った日のことを。

 それはいわば、過去からの束縛。アドルフの場合、ソ連とスターリンに敗北した屈辱の記憶だ。
 しかしだからこそ、ここでは終われない。
 どうして異世界へ転生したか、彼は自分自身に問う。呪わしい過去から解き放たれるため。そして今度こそ意志の勝利を遂げるため。
 ならば戦うべきだろう。絶望に抗って。

「リッド、我が前衛に立つ」

 周囲が真っ暗闇のうちに命じた。意図は明白だった。一騎打ちの支障を排するかわりに、リスクを全部引き受けること。

「わかった、体を入れ換えよう」

 アドルフの判断をリッドは素直に受け入れた。議論の余裕などなかったからだ。
 じっと息を潜める時間がそれから瞬く間に過ぎた。時の流れが永遠に感じられた頃、黒煙の一部が晴れ、空の切れ目が見えてきた。

 とはいえ、幼女の位置取りは掴めない。ただ一心にアドルフの命を狙っていること以外何も。
 彼はいつでも戦えるよう、剣を両手で握り締めた。息づまるような沈黙の中、荒い呼吸を静めていくと、急に風が吹き、視界が広がる。
 はぎ取られた黒煙のその向こう。幼女がいた。何かを構えている。サーベルだ。

 ――こいつも魔導戦はできんか。

 最悪の状況で、歓迎すべき流れが来た。
 喜ぶ暇はないが、相手は魔導師だ。剣戟に長けているとは思いがたい。
 それでも幼女は圧倒的優位で、先手を握るのは彼女だ。後手にまわるアドルフは斬り合いに備えたが、意外なことに幼女は突撃を避けた。

 そのかわりチェイカを寄せ、操縦席に立ち、甲高く叫んだ。まるで獣の威嚇だが、その後の動きも実に粗野で、何を思ったか、翼竜の目玉に思いきり蹴りをくらわせたのである。

 翼竜は大いに暴れ、おかげで地上に振り落とされそうになるアドルフだが、変則的な攻めに幼女の警戒を感じ取る。剣戟に自信がないのだ。

 力で押し込めば、あるいは――。

 即断は即決を生むが、彼もまた綺麗な戦いをする気は微塵もなかった。
 わざわざ前衛についたのは敵との距離を縮めるため。翼竜の頭上に駆け上り、素早い挙動で剣を振るい、その一撃は幼女の兜をかすめ、飾りの一部を打ち砕いた。

「いまのは危なかったわ!」

 アドルフにとっては渾身の一振りだったが、紙一重でかわした幼女は薄笑いで言う。
 神経が図太いのか、それとも頭が――。

 どちらにせよ、体力勝負を怖じる気はないのだ。そういう大胆さが、踏み込みを強くし、攻撃の威力を増す。有利不利の問題ではない。勝負を左右するのは心の強靭さに他ならない。

 現にアドルフが踏み込んだぶん、幼女のステップは深い斬り込みを生む。短い腕を懸命に伸ばし、テンポ良く繰り出されるサーベル。その全ては彼の急所を狙っており、むろん必死に躱したが、最後の一撃はおろしたての国民服を見事に切り裂いた。

 互いに譲らず、五分五分の戦いか。勢いに乗ったぶん優勢なのは幼女にも映る。判然としているのは、二人の攻防は終わらないことだ。相手に刃を突き立て、その息の根を止めるまで。

 そのときである。空域に異物が舞い込んだ。

 塵にしては大きく、土煙にしては形をともなっていた。猛スピードで迫ってくる物体。チェイカである。重なり合う原動機の音。機体はおそらく二体ある。

 しかし剣戟に集中した二人は、それを察知できない。

 幼女の顔つきから察するに、彼女はアドルフの動きを見切り、次の一撃で内臓をひと突きにしてやろうとほくそ笑んでいたようだ。

 それゆえ、幼女の反応が遅れた。正確には、反応などできなかったと言うべきだろう。彼女が気づいたのがわずか一秒未満でも、突然舞い込んだチェイカの勢いはそれをはるかに上まわり、幼女の機体を薙ぎ払うように直撃した。(続く
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