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第八章
ドイツ1
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食糧問題は確かに危機的であった。けれどアドルフは、なぜか楽観的だった。かつて〈施設〉で目にした文書のなかに、きわめて重要なヒントが埋まっていた気がしてならなかったのである。
それが何かは思い出せない。だが、喉元まで出かかっている。キーワードさえあれば、とあごに手を添えたところで、ひと綴りの単語が脳裏をよぎった。
「……促成栽培」
口に出した言葉をきっかけに、アイデアが湧き出た。それはたんなる思いつきでなく、古い記憶と結びつき、まとまった考えとなった。遡ればそれは〈施設〉の図書館で学んだ知識だった。
「小麦にこだわるから行き詰まるのだ。べつの作物に目を向ければよい」
そう、ごく短い時間で、アドルフは状況を打開する着想を得た。対面するローゼの瞳を見据えながら、彼はその考えをやや興奮ぎみに述べていく。
「イモ類、特にジャガイモがよいな。我は少年期、ここセクリタナに促成栽培に向いた品種がある事実を新聞記事から得ておった。その種イモを手に入れれば、あるいは――」
ジャガイモは土地あたりの生産性が高く、小麦を口にできない貧農が頼りにしたことでよく知られている。もちろんそれは前世の知識だが、同じことが異世界でも通じるはずだとアドルフは考えたのだ。
「どうかね? この打開策は」
さっそく意見を求めたが、ローゼは良いとも悪いとも言わず、返事に窮したようだった。しばらく考え込んだ顔になり、その間も時計の秒針は音を刻みつける。やがてその音が耳障りに感じられた頃、彼女は思いつめた表情で口を開いた。
「他の作物で、というのは一応考えてました。なかでもジャガイモは有力な代替品だと。辺境州の痩せた土地、不安定な気候でも立派に育ちますから」
真面目くさった顔のローゼが急に口を閉ざした。けれどすぐ、何でもなかったように話を続ける。
「ここビュクシ近郊で収穫されたジャガイモは、一応外部へ売るほど豊富です。取引業者は旧知の間柄ですし、収穫期は過ぎてますが、熟成中のためまだ売却前のはずです」
なんと、最初に掘り当てた鉱脈は驚くべきことに本物のようだった。うぬぼれやすいアドルフは機嫌を良くして胸を張ったが、ついで発せられたローゼの言葉はこの場に不穏な空気を招き寄せた。
「問題は収穫されたジャガイモ、特に種イモは、転売先がすでに決まっていることです」
「支払う金を割り増しすればよい。取引も行政府の者が関わるなら融通がきくであろ」
アドルフはにべもなく言い、ローゼが示した問題点を突き放した。法的手続きを経たとはいえ、権力を力ずくで奪った男が生産品の横取りをためらう道理がない。そんなアドルフの考えは半分は正しかった。しかしもう半分は、思惑どおりにいかないことが明らかとなる。
「細かい話になりますが、これはヒトラーさんに付与された統治権の管轄外です。出荷するジャガイモは王都に納めるべき品々です。行政府は取引業者に便宜を図っているに過ぎませんし、転売先を変更させる強制力はありません」
この弁を聞き及び、アドルフが常識的な人間なら事情を察し、諦めを抱いたであろう。巨大な人口を誇る連邦国家の王都には、各地からたくさんの生産品が納められる。そしてそのうちの大半は王族をはじめとした特権階級に連なる者のためだ。
たかがジャガイモと言えど、権力者に納められるべき生産品を横取りするわけにはいかない。物腰こそ丁寧だったが、ローゼの言い分は暗に「この線は無理だ」と述べているのだ。
しかしアドルフは非常識な男だった。せっかく掘り当てた打開策をみすみす捨てるような真似はしなかった。
「ふん。諦めさせるつもりなら、どうしてこの情報を我に教えた?」
会話の二歩先を読んだ台詞に、ローゼは面食らった顔を見せたが、胸に手をやりつつ言い返してきた。
「諦めろとは言っていません。事実をお伝えしたまでです。そのうえで業者を説得をなさるのか、あるいはべつの手段を講じるのか、それを決めるは貴方の一存です。行政府の役人としては、いかなる指示にも従うまでですが」
このひと言を額面どおり受けとるアドルフではなかった。
ローゼはいっけんすると協力的で、打開策につながる情報を提供してきた。しかし動かしがたい障害があり、介入は不可能だと言う。
こうしたやり方は、役人の点数稼ぎとしては常套手段だった。自分のやるべきことだけはやり、結果に一切責任をもたない。
ナチスがドイツを支配したときも、権力が委譲されるまでの間、彼は多くの目に見えないサボタージュに遭ってきた。その最たるは、誇り高き国防軍だった。
同じ経験がここでもくり返されるのか。そういった現実は不愉快きわまりなかったが、同時に裏を返せば一度経験したことのやり直しである。だとすれば、やれることはたった一つであった。
「案ずるな、ローゼよ。明日納入業者を連れてこい。我がサシで面談をする」
そう、総統だけが責任を負う。最終的な責任の在処を示し、彼はドイツを手中に収めた。
「ですが、ヒトラーさん」
「反論は許さん。事情を伝えれば、折れるとでも思ったか? 統治権の内だの外だの、役人が従う細かい決まり事にひれ伏す我ではない。食糧問題の責任はこのアドルフ・ヒトラーがとる。お前は命令どおり、黙々と働けばよい。それ以上のことはもう期待せん」
突き放した言い方にへそを曲げたのか、ローゼは押し黙ってしまった。それどころか、その表情にはさっきまでなかった不快が滲んでいる。行政官の娘ということで特別扱いされ、甘やかされながら仕事をしてきたのだろう。要領が悪く、融通のきかない役人を嫌うアドルフだが、同じかそれ以上に忠誠心のない役人を毛嫌いしてきた。
表向き服従の意を示しながら、本心は腹黒く染まっているに違いない。当のアドルフとてローゼを信頼したわけでなかったが、その変化は一度は静まった警戒心を無性にかき立てた。
視界の片隅では、ローゼがおもむろに上着の袖を触った。まったく無意識の動作に見えたから、行動の意図は読めない。
けれどアドルフはその動作に注意を払った。たとえ文官といえどローゼは魔人族だ。戦闘力は雲泥の差でも、不意討ちで人ひとり殺せるだけの胆力は有しているだろう。
観察した限り、いま見た動作以外に、ローゼが武器を隠し持っているそぶりはなかった。しかし前世で数十回となく暗殺を企てられたアドルフは、その程度の情報で警戒を解かない。
一旦は従順さを目の当たりにしても、自分が好印象をもたれているわけがないのは明白だし、だからこそアドルフは猜疑心を膨らませ、危険な発想を思いついた。敵対人種に神経を尖らせるくらいなら、いっそこの場でローゼを謀殺してはどうかと考えたのだ。
「わかりました、ヒトラーさん」
視線を向けるとローゼは頭を深々と下げていた。むき出しになったうなじに目をやれば、唐突に湧いた殺意が具体的な形をなしていくのがわかった。
もっともこのとき、冷静な思考は打ち捨てられたわけではなく、はっきりと機能していた。行政府を乗っ取ることは難しくないが、完全に掌握するために経理部門の副官であるローゼは必要な駒と言えた。
真っ先に思いつく問題点。それはいわゆる秘密資金の管理だ。
アドルフ自身、ドイツの巨大官僚機構にナチス党幹部を登用するまでの間、旧体制を支えた役人たちを一時的に起用し続けた。
いかなる政府にも、国民の目に触れない複雑な金の流れがある。いわゆる裏金のたぐいだが、それを把握する者は前任者以外に存在せず、彼らを容易に解雇できない理由となった。
この場合同じことがローゼにたいしても言える。収容所を占拠したアドルフが事務員に金の在処を調べさせたのも、資金全体の流れと、当座の金を確保することの二つの意味があったわけだが、これはいずれ、行政府全体にたいしても実施せねばならないことである。
しかし一度はあてにしたローゼに抱く苛立ちと不安は消えなかった。おのれの直感を何より重視するアドルフは、それらを重く見て、ローゼは遠からず自分に害をなす可能性が高いと読んだのだ。
代理の役人は他にもいないとは限らないし、どうせこき使うなら反発心の少ないヒト族を登用すればよい。会計事務に通じた者が一人や二人いるはずだ。そう気持ちを割り切ってしまえば、殺戮を妨げるものは何ら存在しなかった。体内に眠るオドに意識を集中させたアドルフは、不穏な様子で佇むローゼに攻性魔法を放つタイミングを用心深く見計らった。
と、そのときである。
「――頼まれていたものが終わったぞ」
部屋の入口で声がした。殺意を練り上げ、思考に没頭していたアドルフは弾かれたように顔を上げた。その眼光の先には片手でドアを押し開け、もう一方の腕に畳んだ布を押し抱く少女の姿があった。短い銀髪を揺らしたフリーデである。大事そうに抱えた布は仕上がった軍旗だろうか。
「……うむ。ご苦労」
軍旗を作るように命じたのはアドルフだが、突然割り込まれたせいで声が裏返った。ひと言でいえば、フリーデの入室は恐ろしく間の悪いものだった。
その証拠に、隣にいたローゼも気の抜けた顔となり、長いため息を吐く姿が目に入った。そこには、さっきまで放っていた険悪な態度は見られない。
まさにはぐらかしである。フリーデの登場で室内は気の抜けた炭酸飲料のようになったのだ。
「お邪魔のようですので、私はここで」
一変した空気を読んだのか、ローゼが淑やかに席を立ち、アドルフの緊張も解けてしまった。
いくら敵とみなした相手でも、事情を知らぬ者がいる前でなぶり殺すほどアドルフは血に飢えてない。ローゼが具体的な裏切りを見せたわけでもない以上、やり過ぎは士気に関わる。速やかに考えを変えたアドルフは、この場は穏便にやり過ごす他ないと自分に納得させた。
「さっき言ったとおり、納入業者の件はよろしく頼んだ」
念を押すように短く言い放つと、ローゼは品の良い会釈を返してきた。
「了解しました、ヒトラーさん」
すでに事務的な顔つきに戻ったローゼは「お疲れ様です」という言葉を残して、フリーデの横をすり抜けた。フリーデも片手を挙げておざなりな礼をした後、その目線をアドルフへとむけた。
「何やら他人が立ち入りがたい雰囲気だったが?」
ドアの閉まるバタンという音とともにフリーデが勘の良いつぶやきを発した。それから板張りの床を踏み鳴らし、先ほどまでローゼのいたソファへと歩み寄っていく。
アドルフは黙りこくっていたが、ひと呼吸置いてから返事をかえした。
「数時間前まで敵どうしだったから、気持ちのすれ違いは否応なく生じる。その程度のことだ」
無感情きわまりない弁明だったが、フリーデは同じくらい無感動な顔で頷いた。その目つきに普段の険しい様子は見受けられず、入室前のやり取りに大して興味がないことは明らかである。ゆえに彼女が話題と表情を変えてきても、何ら不自然ではないのだった。
「それより頼まれていた軍旗を完成させたぞ。我ながら良い出来映えに思うんだが、どうだろう?」
急に早口でしゃべりだしたフリーデ。あくまで彼女基準で言えばだが、上機嫌な笑みを見せ、両腕を左右に大きく開いた。すると折り畳まれていた純白の布が勢いよく広がり、洗い立てのテーブルクロスのような白地がアドルフの視界を覆った。(続く
それが何かは思い出せない。だが、喉元まで出かかっている。キーワードさえあれば、とあごに手を添えたところで、ひと綴りの単語が脳裏をよぎった。
「……促成栽培」
口に出した言葉をきっかけに、アイデアが湧き出た。それはたんなる思いつきでなく、古い記憶と結びつき、まとまった考えとなった。遡ればそれは〈施設〉の図書館で学んだ知識だった。
「小麦にこだわるから行き詰まるのだ。べつの作物に目を向ければよい」
そう、ごく短い時間で、アドルフは状況を打開する着想を得た。対面するローゼの瞳を見据えながら、彼はその考えをやや興奮ぎみに述べていく。
「イモ類、特にジャガイモがよいな。我は少年期、ここセクリタナに促成栽培に向いた品種がある事実を新聞記事から得ておった。その種イモを手に入れれば、あるいは――」
ジャガイモは土地あたりの生産性が高く、小麦を口にできない貧農が頼りにしたことでよく知られている。もちろんそれは前世の知識だが、同じことが異世界でも通じるはずだとアドルフは考えたのだ。
「どうかね? この打開策は」
さっそく意見を求めたが、ローゼは良いとも悪いとも言わず、返事に窮したようだった。しばらく考え込んだ顔になり、その間も時計の秒針は音を刻みつける。やがてその音が耳障りに感じられた頃、彼女は思いつめた表情で口を開いた。
「他の作物で、というのは一応考えてました。なかでもジャガイモは有力な代替品だと。辺境州の痩せた土地、不安定な気候でも立派に育ちますから」
真面目くさった顔のローゼが急に口を閉ざした。けれどすぐ、何でもなかったように話を続ける。
「ここビュクシ近郊で収穫されたジャガイモは、一応外部へ売るほど豊富です。取引業者は旧知の間柄ですし、収穫期は過ぎてますが、熟成中のためまだ売却前のはずです」
なんと、最初に掘り当てた鉱脈は驚くべきことに本物のようだった。うぬぼれやすいアドルフは機嫌を良くして胸を張ったが、ついで発せられたローゼの言葉はこの場に不穏な空気を招き寄せた。
「問題は収穫されたジャガイモ、特に種イモは、転売先がすでに決まっていることです」
「支払う金を割り増しすればよい。取引も行政府の者が関わるなら融通がきくであろ」
アドルフはにべもなく言い、ローゼが示した問題点を突き放した。法的手続きを経たとはいえ、権力を力ずくで奪った男が生産品の横取りをためらう道理がない。そんなアドルフの考えは半分は正しかった。しかしもう半分は、思惑どおりにいかないことが明らかとなる。
「細かい話になりますが、これはヒトラーさんに付与された統治権の管轄外です。出荷するジャガイモは王都に納めるべき品々です。行政府は取引業者に便宜を図っているに過ぎませんし、転売先を変更させる強制力はありません」
この弁を聞き及び、アドルフが常識的な人間なら事情を察し、諦めを抱いたであろう。巨大な人口を誇る連邦国家の王都には、各地からたくさんの生産品が納められる。そしてそのうちの大半は王族をはじめとした特権階級に連なる者のためだ。
たかがジャガイモと言えど、権力者に納められるべき生産品を横取りするわけにはいかない。物腰こそ丁寧だったが、ローゼの言い分は暗に「この線は無理だ」と述べているのだ。
しかしアドルフは非常識な男だった。せっかく掘り当てた打開策をみすみす捨てるような真似はしなかった。
「ふん。諦めさせるつもりなら、どうしてこの情報を我に教えた?」
会話の二歩先を読んだ台詞に、ローゼは面食らった顔を見せたが、胸に手をやりつつ言い返してきた。
「諦めろとは言っていません。事実をお伝えしたまでです。そのうえで業者を説得をなさるのか、あるいはべつの手段を講じるのか、それを決めるは貴方の一存です。行政府の役人としては、いかなる指示にも従うまでですが」
このひと言を額面どおり受けとるアドルフではなかった。
ローゼはいっけんすると協力的で、打開策につながる情報を提供してきた。しかし動かしがたい障害があり、介入は不可能だと言う。
こうしたやり方は、役人の点数稼ぎとしては常套手段だった。自分のやるべきことだけはやり、結果に一切責任をもたない。
ナチスがドイツを支配したときも、権力が委譲されるまでの間、彼は多くの目に見えないサボタージュに遭ってきた。その最たるは、誇り高き国防軍だった。
同じ経験がここでもくり返されるのか。そういった現実は不愉快きわまりなかったが、同時に裏を返せば一度経験したことのやり直しである。だとすれば、やれることはたった一つであった。
「案ずるな、ローゼよ。明日納入業者を連れてこい。我がサシで面談をする」
そう、総統だけが責任を負う。最終的な責任の在処を示し、彼はドイツを手中に収めた。
「ですが、ヒトラーさん」
「反論は許さん。事情を伝えれば、折れるとでも思ったか? 統治権の内だの外だの、役人が従う細かい決まり事にひれ伏す我ではない。食糧問題の責任はこのアドルフ・ヒトラーがとる。お前は命令どおり、黙々と働けばよい。それ以上のことはもう期待せん」
突き放した言い方にへそを曲げたのか、ローゼは押し黙ってしまった。それどころか、その表情にはさっきまでなかった不快が滲んでいる。行政官の娘ということで特別扱いされ、甘やかされながら仕事をしてきたのだろう。要領が悪く、融通のきかない役人を嫌うアドルフだが、同じかそれ以上に忠誠心のない役人を毛嫌いしてきた。
表向き服従の意を示しながら、本心は腹黒く染まっているに違いない。当のアドルフとてローゼを信頼したわけでなかったが、その変化は一度は静まった警戒心を無性にかき立てた。
視界の片隅では、ローゼがおもむろに上着の袖を触った。まったく無意識の動作に見えたから、行動の意図は読めない。
けれどアドルフはその動作に注意を払った。たとえ文官といえどローゼは魔人族だ。戦闘力は雲泥の差でも、不意討ちで人ひとり殺せるだけの胆力は有しているだろう。
観察した限り、いま見た動作以外に、ローゼが武器を隠し持っているそぶりはなかった。しかし前世で数十回となく暗殺を企てられたアドルフは、その程度の情報で警戒を解かない。
一旦は従順さを目の当たりにしても、自分が好印象をもたれているわけがないのは明白だし、だからこそアドルフは猜疑心を膨らませ、危険な発想を思いついた。敵対人種に神経を尖らせるくらいなら、いっそこの場でローゼを謀殺してはどうかと考えたのだ。
「わかりました、ヒトラーさん」
視線を向けるとローゼは頭を深々と下げていた。むき出しになったうなじに目をやれば、唐突に湧いた殺意が具体的な形をなしていくのがわかった。
もっともこのとき、冷静な思考は打ち捨てられたわけではなく、はっきりと機能していた。行政府を乗っ取ることは難しくないが、完全に掌握するために経理部門の副官であるローゼは必要な駒と言えた。
真っ先に思いつく問題点。それはいわゆる秘密資金の管理だ。
アドルフ自身、ドイツの巨大官僚機構にナチス党幹部を登用するまでの間、旧体制を支えた役人たちを一時的に起用し続けた。
いかなる政府にも、国民の目に触れない複雑な金の流れがある。いわゆる裏金のたぐいだが、それを把握する者は前任者以外に存在せず、彼らを容易に解雇できない理由となった。
この場合同じことがローゼにたいしても言える。収容所を占拠したアドルフが事務員に金の在処を調べさせたのも、資金全体の流れと、当座の金を確保することの二つの意味があったわけだが、これはいずれ、行政府全体にたいしても実施せねばならないことである。
しかし一度はあてにしたローゼに抱く苛立ちと不安は消えなかった。おのれの直感を何より重視するアドルフは、それらを重く見て、ローゼは遠からず自分に害をなす可能性が高いと読んだのだ。
代理の役人は他にもいないとは限らないし、どうせこき使うなら反発心の少ないヒト族を登用すればよい。会計事務に通じた者が一人や二人いるはずだ。そう気持ちを割り切ってしまえば、殺戮を妨げるものは何ら存在しなかった。体内に眠るオドに意識を集中させたアドルフは、不穏な様子で佇むローゼに攻性魔法を放つタイミングを用心深く見計らった。
と、そのときである。
「――頼まれていたものが終わったぞ」
部屋の入口で声がした。殺意を練り上げ、思考に没頭していたアドルフは弾かれたように顔を上げた。その眼光の先には片手でドアを押し開け、もう一方の腕に畳んだ布を押し抱く少女の姿があった。短い銀髪を揺らしたフリーデである。大事そうに抱えた布は仕上がった軍旗だろうか。
「……うむ。ご苦労」
軍旗を作るように命じたのはアドルフだが、突然割り込まれたせいで声が裏返った。ひと言でいえば、フリーデの入室は恐ろしく間の悪いものだった。
その証拠に、隣にいたローゼも気の抜けた顔となり、長いため息を吐く姿が目に入った。そこには、さっきまで放っていた険悪な態度は見られない。
まさにはぐらかしである。フリーデの登場で室内は気の抜けた炭酸飲料のようになったのだ。
「お邪魔のようですので、私はここで」
一変した空気を読んだのか、ローゼが淑やかに席を立ち、アドルフの緊張も解けてしまった。
いくら敵とみなした相手でも、事情を知らぬ者がいる前でなぶり殺すほどアドルフは血に飢えてない。ローゼが具体的な裏切りを見せたわけでもない以上、やり過ぎは士気に関わる。速やかに考えを変えたアドルフは、この場は穏便にやり過ごす他ないと自分に納得させた。
「さっき言ったとおり、納入業者の件はよろしく頼んだ」
念を押すように短く言い放つと、ローゼは品の良い会釈を返してきた。
「了解しました、ヒトラーさん」
すでに事務的な顔つきに戻ったローゼは「お疲れ様です」という言葉を残して、フリーデの横をすり抜けた。フリーデも片手を挙げておざなりな礼をした後、その目線をアドルフへとむけた。
「何やら他人が立ち入りがたい雰囲気だったが?」
ドアの閉まるバタンという音とともにフリーデが勘の良いつぶやきを発した。それから板張りの床を踏み鳴らし、先ほどまでローゼのいたソファへと歩み寄っていく。
アドルフは黙りこくっていたが、ひと呼吸置いてから返事をかえした。
「数時間前まで敵どうしだったから、気持ちのすれ違いは否応なく生じる。その程度のことだ」
無感情きわまりない弁明だったが、フリーデは同じくらい無感動な顔で頷いた。その目つきに普段の険しい様子は見受けられず、入室前のやり取りに大して興味がないことは明らかである。ゆえに彼女が話題と表情を変えてきても、何ら不自然ではないのだった。
「それより頼まれていた軍旗を完成させたぞ。我ながら良い出来映えに思うんだが、どうだろう?」
急に早口でしゃべりだしたフリーデ。あくまで彼女基準で言えばだが、上機嫌な笑みを見せ、両腕を左右に大きく開いた。すると折り畳まれていた純白の布が勢いよく広がり、洗い立てのテーブルクロスのような白地がアドルフの視界を覆った。(続く
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