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第八章
ドイツ2
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「ふむ。これは悪くない」
アドルフは即座に声を洩らし、顔を傾けた。目の前に広げられた作り立ての軍旗は、控え目に言って期待どおりの出来だし、むしろそれ以上の代物と彼の眼には映った。
「ところでアドルフ」
布地の上部から顔を覗かせ、フリーデは物問い顔で言った。
「頼まれたとおりやったが、このデザインの意味は何なんだ?」
彼女が目を落とした布地には、真っ黒なインクで大きく「×」印が描かれている。
その意匠に関心を抱かれるとは思っていなかったが、作製を担ったからこそ素朴な疑問を抱くのかもしれない。もちろんアドルフが指示したデザインや文言には意味があり、フリーデがそれを知りたがる気持ちも理解できた。よって少々面倒に感じつつも説明をくわえることにした。
とはいえ注文した軍旗に関していえば、アドルフの前世を知る人間ほど理解が早かったはずだ。彼が率いたナチス党のシンボルはいわゆる〈鉤十字〉だ。それは後にドイツ国旗となったから、当時の世界でも多くの者が目にしたはずだろう。
しかし今日、アドルフがフリーデに命じたデザインはたんなる十字架だった。しかも赤地ではなく、白地である。唯一類似点があるとすれば、その十字架は「×」印と同じで右に傾いていたことだった。そして十字架というシンボルは、ここセクリタナでは聖隷教会を象徴する記号と同一である。
したがってフリーデの質問を正確に言い直すと、なぜ聖隷教会のシンボルを軍旗に採用したのか、になる。アドルフもそれを理解したから、口ひげをひと撫でしてからそっけなく応じた。
「簡単な答えだ、フリーデよ。いかに国家機関に堕したとはいえ、聖隷教会ほど諸人種にとって中立的組織はない。今後ヒト族の力を吸収する過程で十字架ほど拒絶心を抱かせぬ記号はないわけだ。それに我々亜人族は政治の表舞台から弾き出された期間が長く、特定のシンボルを持っておらん。結果としてこのデザインこそが最適であると判断したのだ」
息も切らさず説明を述べたアドルフにたいし、フリーデは頷きながら相槌をうった。
「なるほど。では十字架が右に傾いている理由は何だ?」
ぶらさげた軍旗を動かし、彼女はアドルフを見た。純粋な疑問はまだ続きがあるようだが、回答する手間を彼は惜しまなかった。
「十字架がまっすぐでは聖隷教会との差別化ができんし、むろんここにも意図はある。十字架を四五度回転させることでそこには勢いが生まれる。またこの×印は、二本の剣が交差した姿でもある。これは軍旗であり、我々はいまや軍隊だ。戦闘的なシンボルを用いねば、士気を高めることにつながらん、と考えた結果、このようなデザインを選んだ」
「全部意味があったんだな。僕には想像もつかなかった」
淀みのない解説はフリーデを感心させたようだが、彼女はそこに微妙な嘘が含まれていると気づくそぶりはない。
嘘というのはいくらか大げさだが、このときアドルフは自分の考えを一〇〇パーセント正確に伝えたわけではなかったのだ。
結論からいうと、彼はこの軍旗を未完成だと思っている。斜めに傾いた十字架と白地の布を使わせ、愛着の深い〈鉤十字〉と赤地の布というナチス党の意匠をなぜ採用しなかったか。それらの理由には、いま述べた説明以外に明確な狙いがあったのだ。
まず白地の軍旗だが、それは今後戦争を重ねて行くことで真っ赤な血に彩られていくだろうというイメージがあった。いまはまだ無垢な処女が、返り血を浴びて一人前の兵士へと成長していく。そんな変化をこめたうえで、現時点でもっとも使いやすい純白の布をアドルフは採用したのである。
もちろん、斜めに傾けた十字架もそうである。より軍旗にふさわしいものを選んだとはいえ、そこにも大胆な変化が予告されている。
アドルフはこの後、開かれる戦勝式典で四つの綱領を述べるつもりでいた。それは現在、欠損となっている四つの鉤爪に対応していた。つまりこれ以降、アドルフの軍隊が目的を達成するにつれ、この軍旗は意匠を追加していき、たんなる「×」印の十字架から鉤十字へと、つまりナチスの党旗というあるべき姿へと変貌していく予定なのだ。
フリーデに話してもおそらく混乱させるだけだし、異世界の人間とバレてもまずいことになる。よって彼は真意を隠したのだ。嘘を吐いたというのは、いわばやむなき方便である。
とはいえここまでは、アドルフの前世を知っていれば想定の範囲内だ。もっとも意外な要素はデザインでなく、一緒に採用された文言にあり、フリーデもまた同じ点に着目したようだった。
「そうなると、アドルフ。この文言にも明確な意味があったりするのか?」
何気ないふうに言って、彼女は軍旗の下部を指差す。そこにはゲルト語で〈ドイツ〉、すなわち融和を意味する言葉がインクで描かれていた。
「確か埋葬式のとき、君はヒト族との融和を説いたよな。同じメッセージを選んだということは、敵対人種を討ち滅ぼしていくに際して、ヒト族と手を結び、連携していく意図がこめられているのか?」
大人しい態度で話すフリーデだが、言葉を選ばぬ発言からは血なまぐささが滲み出る。
アドルフはこれに思わず苦笑したが、今後の大方針が刻まれた文言が幕僚の関心を引くのは当然でもあったから、少々勿体つけた様子で、その真意を腹を割って述べた。
「半分あっている、しかし半分は間違っておる。確かに取り急ぎ融和を深めねばならない相手はヒト族である。その正当性は、幼き頃院長先生が授けてくれた教えどおりだ。ただし――」
ここで言葉を切り、彼はフリーデを見すえた。そこからアドルフの両手は宙を悠然とさまよいだし、何か大事なものを練り上げる動きを見せた。むろん目に見えるものではないが、それこそがアドルフがこれから語ろうとする核心に他ならなかった。
「戦勝式典の場で明らかにするつもりはないが、お前だけには言っておこうか。我々は今後、魔人族の打倒をめざしていく。とはいえそれは真の目的ではない。本当の目的は亜人族の地位を高めつつ、政治の大権を、国家指導の正統性を奪っていくことにある。あえて融和という文言を選んだのは、目的に適うならだれとでも手を結ぶ用意があることの表れだ。それにソフトな文言を選べば、不用意な敵を増やさずに済む――」
静かに息を吐いたアドルフは、さらにゆったりと言葉を継いだ。
政治の要諦は何か。それは敵の敵と手を結ぶことにあると。そのとき相手の警戒心を高めないことはきわめて重要であると。
思い返してみれば、彼はまさに同じ考え方をもって、西欧諸国に敵対していたスターリンと結託し、狙いどおりポーランドを攻め滅ぼした。おまけに反発したイギリスとはいずれ和睦をする気でいたし、そのとき真にのみ込むべき敵は、一旦は友好を深めた味方、すなわちソ連であった。
めまぐるしく動く関係図において一貫しているのは、敵や味方のあり方は目的次第で姿を変えるという点だ。そして同一の指導者が率いるなら、今後アドルフの軍勢は目的優位の、ときに道義さえないがしろにするマキャベリズムで運営されていくことを彼の姿勢は意味していた。
そうした考えをわかりやすい喩えに置き換えながら、やがて結論めいた言葉をフリーデに告げる。
「ようするにだ。もしも軍旗の文言に亜人族再興の狙いをわずかでもこめてみよ。相手はこちらの下心を見透かし、信頼を十分に置くことはなくなる。政治は必ず敵味方を分けるものであればこそ、味方となるべき相手の信頼を得ておかねばならん。なぜなら我々は恐ろしく簡単に互いを裏切る生き物なのだ」
アドルフの饒舌な語りにフリーデが「なるほど」と息をあわせた。それはどこか感服しきった声色だ。
もっともいま口にした説明がアドルフの全てではない。
彼の心のどこかには、愛してやまなかった〈ドイツ〉という響きを、セクリタナ制覇の傍らに置いておきたい感情があったし、それは本人も薄々自覚していた。
むろん前世への思い入れは決して公言できない思惑であったし口の端にものぼらせなかったが、それ以外の事柄に関しては随分口を弛めたと思う。最初フリーデ〈だけに〉と断りを入れたとおり、自分の腹の内をアドルフは無防備なほど包み隠さず語っていた。
そうなると普通、疑問が湧くものだ。なぜ自分にだけは、ここまで本音を話したのだろうと。いくら信認を得ているとはいえ、フリーデはあくまで幕僚の一人だ。不可解に感じてもおかしくない。
実際話を聞き終わると、彼女は明らかに思案げな表情に変わっていった。そして顔を少しだけ俯かせ、前髪の隙間から虚ろな視線を床に落とす。思いつめたと言うのは大げさだが、フリーデにしては珍しい反応を見せた。
アドルフは自分が少し喋りすぎ、彼女を困惑させたのではないかと思った。何かその場を取り繕う言葉でもかけてやろうと考えたその瞬間、切れ長の目を細め、こわもての顔を眠たそうにしたフリーデの体が突然、前に倒れ込んだ。
「何をやっておる、大丈夫か?」
咄嗟に声をあげ、手を差し伸べるアドルフ。その手をすり抜け、フリーデは床に突っ伏した。
いきなり気を失ったとしか思えないが、それにしても唐突過ぎた。ぼんやりした様子に見えていたが、体調不良を思わせる前兆はどこにもなかったからだ。
「しっかりしろ、フリーデ」
さすがのアドルフも驚きを隠せず、席を立ち、床板に膝をついた。そしてフリーデの体を抱きかかえ、転げ落ちたソファへと引っ張り上げようとする。
まるで眠るように意識を失ったフリーデ。重すぎる人形のような彼女を力ずくで抱きあげれば、ようやく腰が床板を離れた。
「いったいどうしたのだ、我の声が聞こえるか?」
どうにかソファに押し込めたフリーデに、同じ台詞を何度もくり返すアドルフ。
それでも反応がないと見るや、右側の頬に平手を叩きつけた。失った意識を取り戻そうとしたわけだが、焦りを覚えるほど力は強まり、白い肌は赤く染まりはじめる。
それを見てアドルフはやむなく手加減し、軽く舌打ちをする。そんな苛立ちを浮かべる彼にむかって、フリーデの声がぴしゃりと言い放った。
「この大ばか者めが! お主の張り手は痛いのじゃ!」
怒りを爆発させたその叫びを聞き、アドルフは一瞬目を丸くした。そして反射的に声を洩らした。
「待ってくれ。何なんだ、いまのは……?」
疑問を口にするはずがただのつぶやきになった。しかし茫然としている間にも、その声は騒がしく叫び続ける。
「いい加減にせい。もうやめろと言っているのじゃ。その手を離せその手を!」
気がつけば、アドルフはフリーデの肩を握り締めていた。慌てて手を離し、一歩後退るが、その動作はむしろ混乱に拍車をかける。
「えらくびっくりしているようじゃが、タイミングはいましかなかった。儂とて不本意じゃ」
体の自由を取り戻したことで、フリーデは淀みなく早口になった。しかしこの頃になると、アドルフの脳裏に大きな疑問が浮かび、それは自然と口からこぼれ出た。
「何があったのだ、フリーデよ。気でも触れたのか?」
まったくお前らしくない、と言いかけて彼は口をつぐむ。そう、いまアドルフを翻弄するフリーデは、どこからどう見てもフリーデ本人に思えなかったのだ。
声色が違う、口調が違う、表情や態度も全然違う。たった数秒ほどで彼女は別人だった。
その証拠にフリーデは、この場に不釣り合いな哄笑を急にあげ、ソファにどっかり座り直す。そして出会って以来、一度も目にしたことがない陽気さで、怪訝に染まったアドルフを見あげつつ言う。
「不審者を見るような目はよせ。儂は正気じゃ。それより覚えはないのか、この儂の声に聞き覚えは?」
もはやフリーデに見えない何者かが、今度は憮然とした声を出す。口調にあわせ、表情もころころと変わり、妙に愛嬌を感じさせる。しかしアドルフが注目したのはその点ではなかった。
――聞き覚えはないか、だと?
その言葉をのみ込むと、記憶の扉が素早く開いた。
はたしていつ聞いた声なのか、と彼は考えたのだ。声質はフリーデのものであるが、雰囲気はまったく異なるだれかの声。そんな声の持ち主と自分はいつ出会ったのだろうかと。
「うひゃはは、やっと思い出しつつあるようじゃな?」
同じ声が無邪気に笑い、再びアドルフに浴びせられる。それは男性と女性の区別がつけづらく、大人と子供の区別も曖昧な声。馴染みがあるとは言えないが、一度は耳にこびりついた印象があった。
――人間と思えないような不思議な声。
ふと胸に浮かんだひと言がきっかけとなった。そこから記憶が芋づる式に湧いて出た。最初はおぼろげだったイメージが、たちまち確信へと変わっていく。
方法は見当もつかないが、フリーデはだれかに乗っ取られているのだ。そんな答えが瞬時に割り出され、アドルフは自分の確信をぶつけるように問うた。
「お前、まさか、あのときの天使か?」
彼が口にしたのは、異世界に転生する際、天界で出会った忘れがたい存在のこと。はたして正解か否か。判定を待つ心持ちのアドルフに、邪気のない返事が戻ってきた。
「そのとおり、儂は天使ネーヴェじゃ。わけあってこの女の体を借り受けた」
図星をつかれたわりに、その声は水を得た魚のように、意気揚々と返事を続ける。
「やれやれ。てっきり失念されたかと思いカチンときたが、気が動転しただけのようじゃな。さすれば無礼には思わぬ、快く許そう」
フリーデの体のまま、天使は上から目線で言い、斜め横にあるソファを指差した。「座れ」という合図なのは明白だ。
「いちいち指図するな、何様のつもりだ」
腹立たしげに言い返すアドルフだが、少なくとも異変の理由がわかったことで短い息を吐き、冷静さを取り戻すように端的な疑問を口にする。
「どうして我の前に現れた。しかもすこぶる婉曲な方法で。用があるなら直接訪ねてくればよいであろ」
ソファに腰を沈めながら、ぶつくさと不満混じりに言った。頭の中身をひっくり返されたような状態だったものの、このときアドルフは早くも立ち直りかけている。
そしていつもの聡明な思考で、話の論点を絞っていたのだ。挙げていけばきりのない疑問を次々と切り捨て、もっとも重要なことを問い質すために。
ところが、会話の主導権を握ろうとした矢先である。
「やはりお主、なかなかに順応性が高いのう。もうしばらく、慌てふためく顔を拝んでいたかったわい」
天使は出し抜けに、意地悪っぽい声を出した。話の邪魔をしたいわけではないだろうが、どうも先ほどから全般的に言動が幼い。
以前天界で会ったときはもっと威厳や神秘性を感じさせたものだが、思えばそのときネーヴェは仮面をつけ、表情は一切見えなかった。
――仮面の下にこんな素顔を隠しておったか。それともこやつ、職場以外では羽目を外すタイプか?
気が散りかけたアドルフだが、意識の脱線に気づき、話を本筋へと引き寄せていった。
アドルフは即座に声を洩らし、顔を傾けた。目の前に広げられた作り立ての軍旗は、控え目に言って期待どおりの出来だし、むしろそれ以上の代物と彼の眼には映った。
「ところでアドルフ」
布地の上部から顔を覗かせ、フリーデは物問い顔で言った。
「頼まれたとおりやったが、このデザインの意味は何なんだ?」
彼女が目を落とした布地には、真っ黒なインクで大きく「×」印が描かれている。
その意匠に関心を抱かれるとは思っていなかったが、作製を担ったからこそ素朴な疑問を抱くのかもしれない。もちろんアドルフが指示したデザインや文言には意味があり、フリーデがそれを知りたがる気持ちも理解できた。よって少々面倒に感じつつも説明をくわえることにした。
とはいえ注文した軍旗に関していえば、アドルフの前世を知る人間ほど理解が早かったはずだ。彼が率いたナチス党のシンボルはいわゆる〈鉤十字〉だ。それは後にドイツ国旗となったから、当時の世界でも多くの者が目にしたはずだろう。
しかし今日、アドルフがフリーデに命じたデザインはたんなる十字架だった。しかも赤地ではなく、白地である。唯一類似点があるとすれば、その十字架は「×」印と同じで右に傾いていたことだった。そして十字架というシンボルは、ここセクリタナでは聖隷教会を象徴する記号と同一である。
したがってフリーデの質問を正確に言い直すと、なぜ聖隷教会のシンボルを軍旗に採用したのか、になる。アドルフもそれを理解したから、口ひげをひと撫でしてからそっけなく応じた。
「簡単な答えだ、フリーデよ。いかに国家機関に堕したとはいえ、聖隷教会ほど諸人種にとって中立的組織はない。今後ヒト族の力を吸収する過程で十字架ほど拒絶心を抱かせぬ記号はないわけだ。それに我々亜人族は政治の表舞台から弾き出された期間が長く、特定のシンボルを持っておらん。結果としてこのデザインこそが最適であると判断したのだ」
息も切らさず説明を述べたアドルフにたいし、フリーデは頷きながら相槌をうった。
「なるほど。では十字架が右に傾いている理由は何だ?」
ぶらさげた軍旗を動かし、彼女はアドルフを見た。純粋な疑問はまだ続きがあるようだが、回答する手間を彼は惜しまなかった。
「十字架がまっすぐでは聖隷教会との差別化ができんし、むろんここにも意図はある。十字架を四五度回転させることでそこには勢いが生まれる。またこの×印は、二本の剣が交差した姿でもある。これは軍旗であり、我々はいまや軍隊だ。戦闘的なシンボルを用いねば、士気を高めることにつながらん、と考えた結果、このようなデザインを選んだ」
「全部意味があったんだな。僕には想像もつかなかった」
淀みのない解説はフリーデを感心させたようだが、彼女はそこに微妙な嘘が含まれていると気づくそぶりはない。
嘘というのはいくらか大げさだが、このときアドルフは自分の考えを一〇〇パーセント正確に伝えたわけではなかったのだ。
結論からいうと、彼はこの軍旗を未完成だと思っている。斜めに傾いた十字架と白地の布を使わせ、愛着の深い〈鉤十字〉と赤地の布というナチス党の意匠をなぜ採用しなかったか。それらの理由には、いま述べた説明以外に明確な狙いがあったのだ。
まず白地の軍旗だが、それは今後戦争を重ねて行くことで真っ赤な血に彩られていくだろうというイメージがあった。いまはまだ無垢な処女が、返り血を浴びて一人前の兵士へと成長していく。そんな変化をこめたうえで、現時点でもっとも使いやすい純白の布をアドルフは採用したのである。
もちろん、斜めに傾けた十字架もそうである。より軍旗にふさわしいものを選んだとはいえ、そこにも大胆な変化が予告されている。
アドルフはこの後、開かれる戦勝式典で四つの綱領を述べるつもりでいた。それは現在、欠損となっている四つの鉤爪に対応していた。つまりこれ以降、アドルフの軍隊が目的を達成するにつれ、この軍旗は意匠を追加していき、たんなる「×」印の十字架から鉤十字へと、つまりナチスの党旗というあるべき姿へと変貌していく予定なのだ。
フリーデに話してもおそらく混乱させるだけだし、異世界の人間とバレてもまずいことになる。よって彼は真意を隠したのだ。嘘を吐いたというのは、いわばやむなき方便である。
とはいえここまでは、アドルフの前世を知っていれば想定の範囲内だ。もっとも意外な要素はデザインでなく、一緒に採用された文言にあり、フリーデもまた同じ点に着目したようだった。
「そうなると、アドルフ。この文言にも明確な意味があったりするのか?」
何気ないふうに言って、彼女は軍旗の下部を指差す。そこにはゲルト語で〈ドイツ〉、すなわち融和を意味する言葉がインクで描かれていた。
「確か埋葬式のとき、君はヒト族との融和を説いたよな。同じメッセージを選んだということは、敵対人種を討ち滅ぼしていくに際して、ヒト族と手を結び、連携していく意図がこめられているのか?」
大人しい態度で話すフリーデだが、言葉を選ばぬ発言からは血なまぐささが滲み出る。
アドルフはこれに思わず苦笑したが、今後の大方針が刻まれた文言が幕僚の関心を引くのは当然でもあったから、少々勿体つけた様子で、その真意を腹を割って述べた。
「半分あっている、しかし半分は間違っておる。確かに取り急ぎ融和を深めねばならない相手はヒト族である。その正当性は、幼き頃院長先生が授けてくれた教えどおりだ。ただし――」
ここで言葉を切り、彼はフリーデを見すえた。そこからアドルフの両手は宙を悠然とさまよいだし、何か大事なものを練り上げる動きを見せた。むろん目に見えるものではないが、それこそがアドルフがこれから語ろうとする核心に他ならなかった。
「戦勝式典の場で明らかにするつもりはないが、お前だけには言っておこうか。我々は今後、魔人族の打倒をめざしていく。とはいえそれは真の目的ではない。本当の目的は亜人族の地位を高めつつ、政治の大権を、国家指導の正統性を奪っていくことにある。あえて融和という文言を選んだのは、目的に適うならだれとでも手を結ぶ用意があることの表れだ。それにソフトな文言を選べば、不用意な敵を増やさずに済む――」
静かに息を吐いたアドルフは、さらにゆったりと言葉を継いだ。
政治の要諦は何か。それは敵の敵と手を結ぶことにあると。そのとき相手の警戒心を高めないことはきわめて重要であると。
思い返してみれば、彼はまさに同じ考え方をもって、西欧諸国に敵対していたスターリンと結託し、狙いどおりポーランドを攻め滅ぼした。おまけに反発したイギリスとはいずれ和睦をする気でいたし、そのとき真にのみ込むべき敵は、一旦は友好を深めた味方、すなわちソ連であった。
めまぐるしく動く関係図において一貫しているのは、敵や味方のあり方は目的次第で姿を変えるという点だ。そして同一の指導者が率いるなら、今後アドルフの軍勢は目的優位の、ときに道義さえないがしろにするマキャベリズムで運営されていくことを彼の姿勢は意味していた。
そうした考えをわかりやすい喩えに置き換えながら、やがて結論めいた言葉をフリーデに告げる。
「ようするにだ。もしも軍旗の文言に亜人族再興の狙いをわずかでもこめてみよ。相手はこちらの下心を見透かし、信頼を十分に置くことはなくなる。政治は必ず敵味方を分けるものであればこそ、味方となるべき相手の信頼を得ておかねばならん。なぜなら我々は恐ろしく簡単に互いを裏切る生き物なのだ」
アドルフの饒舌な語りにフリーデが「なるほど」と息をあわせた。それはどこか感服しきった声色だ。
もっともいま口にした説明がアドルフの全てではない。
彼の心のどこかには、愛してやまなかった〈ドイツ〉という響きを、セクリタナ制覇の傍らに置いておきたい感情があったし、それは本人も薄々自覚していた。
むろん前世への思い入れは決して公言できない思惑であったし口の端にものぼらせなかったが、それ以外の事柄に関しては随分口を弛めたと思う。最初フリーデ〈だけに〉と断りを入れたとおり、自分の腹の内をアドルフは無防備なほど包み隠さず語っていた。
そうなると普通、疑問が湧くものだ。なぜ自分にだけは、ここまで本音を話したのだろうと。いくら信認を得ているとはいえ、フリーデはあくまで幕僚の一人だ。不可解に感じてもおかしくない。
実際話を聞き終わると、彼女は明らかに思案げな表情に変わっていった。そして顔を少しだけ俯かせ、前髪の隙間から虚ろな視線を床に落とす。思いつめたと言うのは大げさだが、フリーデにしては珍しい反応を見せた。
アドルフは自分が少し喋りすぎ、彼女を困惑させたのではないかと思った。何かその場を取り繕う言葉でもかけてやろうと考えたその瞬間、切れ長の目を細め、こわもての顔を眠たそうにしたフリーデの体が突然、前に倒れ込んだ。
「何をやっておる、大丈夫か?」
咄嗟に声をあげ、手を差し伸べるアドルフ。その手をすり抜け、フリーデは床に突っ伏した。
いきなり気を失ったとしか思えないが、それにしても唐突過ぎた。ぼんやりした様子に見えていたが、体調不良を思わせる前兆はどこにもなかったからだ。
「しっかりしろ、フリーデ」
さすがのアドルフも驚きを隠せず、席を立ち、床板に膝をついた。そしてフリーデの体を抱きかかえ、転げ落ちたソファへと引っ張り上げようとする。
まるで眠るように意識を失ったフリーデ。重すぎる人形のような彼女を力ずくで抱きあげれば、ようやく腰が床板を離れた。
「いったいどうしたのだ、我の声が聞こえるか?」
どうにかソファに押し込めたフリーデに、同じ台詞を何度もくり返すアドルフ。
それでも反応がないと見るや、右側の頬に平手を叩きつけた。失った意識を取り戻そうとしたわけだが、焦りを覚えるほど力は強まり、白い肌は赤く染まりはじめる。
それを見てアドルフはやむなく手加減し、軽く舌打ちをする。そんな苛立ちを浮かべる彼にむかって、フリーデの声がぴしゃりと言い放った。
「この大ばか者めが! お主の張り手は痛いのじゃ!」
怒りを爆発させたその叫びを聞き、アドルフは一瞬目を丸くした。そして反射的に声を洩らした。
「待ってくれ。何なんだ、いまのは……?」
疑問を口にするはずがただのつぶやきになった。しかし茫然としている間にも、その声は騒がしく叫び続ける。
「いい加減にせい。もうやめろと言っているのじゃ。その手を離せその手を!」
気がつけば、アドルフはフリーデの肩を握り締めていた。慌てて手を離し、一歩後退るが、その動作はむしろ混乱に拍車をかける。
「えらくびっくりしているようじゃが、タイミングはいましかなかった。儂とて不本意じゃ」
体の自由を取り戻したことで、フリーデは淀みなく早口になった。しかしこの頃になると、アドルフの脳裏に大きな疑問が浮かび、それは自然と口からこぼれ出た。
「何があったのだ、フリーデよ。気でも触れたのか?」
まったくお前らしくない、と言いかけて彼は口をつぐむ。そう、いまアドルフを翻弄するフリーデは、どこからどう見てもフリーデ本人に思えなかったのだ。
声色が違う、口調が違う、表情や態度も全然違う。たった数秒ほどで彼女は別人だった。
その証拠にフリーデは、この場に不釣り合いな哄笑を急にあげ、ソファにどっかり座り直す。そして出会って以来、一度も目にしたことがない陽気さで、怪訝に染まったアドルフを見あげつつ言う。
「不審者を見るような目はよせ。儂は正気じゃ。それより覚えはないのか、この儂の声に聞き覚えは?」
もはやフリーデに見えない何者かが、今度は憮然とした声を出す。口調にあわせ、表情もころころと変わり、妙に愛嬌を感じさせる。しかしアドルフが注目したのはその点ではなかった。
――聞き覚えはないか、だと?
その言葉をのみ込むと、記憶の扉が素早く開いた。
はたしていつ聞いた声なのか、と彼は考えたのだ。声質はフリーデのものであるが、雰囲気はまったく異なるだれかの声。そんな声の持ち主と自分はいつ出会ったのだろうかと。
「うひゃはは、やっと思い出しつつあるようじゃな?」
同じ声が無邪気に笑い、再びアドルフに浴びせられる。それは男性と女性の区別がつけづらく、大人と子供の区別も曖昧な声。馴染みがあるとは言えないが、一度は耳にこびりついた印象があった。
――人間と思えないような不思議な声。
ふと胸に浮かんだひと言がきっかけとなった。そこから記憶が芋づる式に湧いて出た。最初はおぼろげだったイメージが、たちまち確信へと変わっていく。
方法は見当もつかないが、フリーデはだれかに乗っ取られているのだ。そんな答えが瞬時に割り出され、アドルフは自分の確信をぶつけるように問うた。
「お前、まさか、あのときの天使か?」
彼が口にしたのは、異世界に転生する際、天界で出会った忘れがたい存在のこと。はたして正解か否か。判定を待つ心持ちのアドルフに、邪気のない返事が戻ってきた。
「そのとおり、儂は天使ネーヴェじゃ。わけあってこの女の体を借り受けた」
図星をつかれたわりに、その声は水を得た魚のように、意気揚々と返事を続ける。
「やれやれ。てっきり失念されたかと思いカチンときたが、気が動転しただけのようじゃな。さすれば無礼には思わぬ、快く許そう」
フリーデの体のまま、天使は上から目線で言い、斜め横にあるソファを指差した。「座れ」という合図なのは明白だ。
「いちいち指図するな、何様のつもりだ」
腹立たしげに言い返すアドルフだが、少なくとも異変の理由がわかったことで短い息を吐き、冷静さを取り戻すように端的な疑問を口にする。
「どうして我の前に現れた。しかもすこぶる婉曲な方法で。用があるなら直接訪ねてくればよいであろ」
ソファに腰を沈めながら、ぶつくさと不満混じりに言った。頭の中身をひっくり返されたような状態だったものの、このときアドルフは早くも立ち直りかけている。
そしていつもの聡明な思考で、話の論点を絞っていたのだ。挙げていけばきりのない疑問を次々と切り捨て、もっとも重要なことを問い質すために。
ところが、会話の主導権を握ろうとした矢先である。
「やはりお主、なかなかに順応性が高いのう。もうしばらく、慌てふためく顔を拝んでいたかったわい」
天使は出し抜けに、意地悪っぽい声を出した。話の邪魔をしたいわけではないだろうが、どうも先ほどから全般的に言動が幼い。
以前天界で会ったときはもっと威厳や神秘性を感じさせたものだが、思えばそのときネーヴェは仮面をつけ、表情は一切見えなかった。
――仮面の下にこんな素顔を隠しておったか。それともこやつ、職場以外では羽目を外すタイプか?
気が散りかけたアドルフだが、意識の脱線に気づき、話を本筋へと引き寄せていった。
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真祖竜に転生したけど、怠け者の世界最強種とか性に合わないんで、人間のふりして旅に出ます
難波一
ファンタジー
"『第18回ファンタジー小説大賞【奨励賞】受賞!』"
ブラック企業勤めのサラリーマン、橘隆也(たちばな・りゅうや)、28歳。
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「世界を見たい。自分の力がどこまで通じるか、試してみたい——」
人間のふりをして旅に出た彼は、貴族の令嬢や竜の少女、巨大な犬といった仲間たちと出会い、
やがて“魔王”と呼ばれる世界級の脅威や、世界の秘密に巻き込まれていくことになる。
——これは、“怠惰が美徳”な最強種族に生まれてしまった元社畜が、
「自分らしく、全力で生きる」ことを選んだ物語。
世界を知り、仲間と出会い、規格外の強さで冒険と成長を繰り広げる、
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※小説家になろう様にも掲載しています。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
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つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
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アルフレッドは平穏に過ごしたい 〜追放されたけど謎のスキル【合成】で生き抜く〜
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※画像はAI作成しました。
※現在毎日2話投稿。11時と19時にしております。
※2026年半ば過ぎ完結予定→七月に完結(決定)
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