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第八章

亜人族解放

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 収容所の所長であるカフカは逃走を図った後であった。

 軍法会議でアドルフを苦しめた許されざる男ではあったが、顔見知りではあったし、誇り高い魔人族という認識をもっていたから、カフカの行動はアドルフにとって予想の斜め上をいった。

 ともあれそうなると、現場の責任者を相手取る以外なく、職員の執務室に踏み込んだアドルフは、その場にいた副所長のミシュカを見つけだし、彼に〈遵守〉をかけた。
 収容所は軍と同じく上意下達のシステムで運営されているから、一番地位の高い者を手なずければ他の職員はおのずと軍門に下る。

 この目論みは驚くほどの威力を発揮し、本来徹底抗戦してもおかしくなかった収容所職員たちは、アドルフの思惑どおりの行動をとった。あっさり投降を決めたミシュカの判断に従い、牢獄を管理するための鍵束をアドルフたちに手渡したのだ。

「抵抗するな。こいつらの言うことを聞け。どんな些細な命令もだ」

 他者を思いどおりに操る魔法〈遵守〉は、ミシュカをアドルフの言うことにどこまでも従順な男に変え、そんなミシュカは部下たちに次々と命令を発する。

「亜人族は全員解放だ。最後の一人が牢を出るまで完璧にフォローしろ。お前たちにできることはこの場から一歩も動かないことか、こいつらの希望を全て叶えることの二点だけだ」

 あまりに徹底した服従ぶりに職員の一部は怪訝な様子を垣間見せたが、マナ不足により魔導戦が困難になったのは彼らとて同じ状況である。魔法を奪われた魔導師が軍人として無力なのは鉄兜団で証明済みであり、どちらにしろ命令系統の中枢を押さえたことで彼らの組織はアドルフ軍の支配下に入った。

 こうなると後は、迅速な行動あるのみだ。

 切り込み隊長役を任せたのはディアナとノインだ。特にノインは、かつての従者であるブローカーとバリュウに格別な想いを寄せているだろうし、意欲の高い者に重責を預けるのは理にかなっている。

 二人には同じ数の兵士をサポートにつけ、鍵束を渡して解放の導き手を命じた。命令と言っても彼女らは打てば響くような態度をとり、ディアナは「任せとけ」と親指を立て、ノインは複雑な感情に襲われ押し黙ってしまったが、牢獄棟へ向かう二人の背中はとても頼もしいものに見えた。

 とはいえ行動がこれだけなら、迅速と呼ぶにはまだ不足がある。アドルフが指導者向きの性質をもっているとすれば、その真骨頂は複数の職務を並列的に処理できる点だった。

 どういうことかと言えば、これと前後して、アドルフはすでに三つの命令を発していた。
 ひとつめは副所長であるミシュカの身柄の拘束だ。彼はそれをリッドに命じていた。〈遵守〉の持続時間は一定ではないが、数時間続くものでもない。ミシュカという駒には明確な使い途があったため、彼を逃がさないことには重要な意味があったし、有能なリッドなら安心して任せられると考えたのだ。

 ふたつめの命令は、役人にしかできない仕事であり、行政府を代表するローゼに告げた。可能なら組織の長であるヴァインベルガーを動かすべき局面だったが、体調不良が著しいとのことで、やむなく代理のローゼを使うはめとなった。

 もっとも彼女は停戦協定の仕切りを見る限り、実務能力の確かさはあるようで、またあらためて面談をしても強い反抗的意志は感じられず、行政機能を魔人族から完全に奪うまでの間、利用することに不安はなかった。

 最後の命令だが、これは少々込み入っている。しかし簡潔にまとめると、軍旗の作製だ。頼んだ相手は消去法的にフリーデである。

 もちろんアドルフの画才はプロ並みであり、断られたら自分でやる気だった。

「……軍旗?」

 半ば予想どおりというか、フリーデは「今ごろこいつは何言ってるんだ?」という顔になった。しかしアドルフにも言い分はある。

「ビュクシの住民が味方につくか不透明であったが、現状、最善の道をたどっておる。ならばその状況に即して最適のデザイン、最適の文言を用いねばならん」

 ようするに腹案はあったが、事前に決められなかった事情を説き、想定していた複数のアイデアから一つだけ選びとって、手近な紙に図案を描いてみせた。

「意外とシンプルなんだな。これなら僕にも描けるかもしれない」

 ふむふむと頷くフリーデだが、同時に彼女はまっとうな疑問を呈した。デザインを形にするための道具と、軍旗の材料となる布地の調達だ。

「案ずるに及ばん。有り合わせの物で可能だ」

 芸術家の卵であったアドルフには、すでに解決策はあった。布地となるのは収容所職員の着る白シャツだ。誰しも替えがあるため、更衣室を覗くと、そこには備品があった。

「シャツの後背部を正方形に切り取り、それらを縫い合わせて大きな一枚の布地を作るのだ」

 事務用のハサミを手にしたアドルフはやり方の手本を見せる。その様子を眺めながら、フリーデは要領を得たようで「これも問題ない」と頷きながら言った。

 次は図案を形にする筆だが、切り取ったシャツを丸めてインクを吸わせれば、即席の筆になる。今度は実演しなくても支障はないと判じ、アドルフは口ひげをぬぐった。

「なお布地を縫い合わす裁縫道具は行政府職員に持ってこさせる。更衣室へ届けるよう言い含めるから、ここで待機しておるがよい」

 セクリタナは近代産業が発展しておらず、ボタンが外れた程度では自分たちで修繕するのが普通だ。アドルフの時代でさえ、事情は酷似している。

「しかし手際が良いな。僕は君の言いなりだ」

 特に皮肉も意味もなく、フリーデは少しだけ笑った。
 てきぱきと指示を終えたアドルフは、そんな彼女の肩に手を置き、「頼んだぞ」と言い残して更衣室を後にした。

 組織を動かすことは乗用車の運転に似ていると、廊下を歩きながら彼は思った。コツさえつかめばエンジンを入れるだけで各機能が自動的に働きだし、それぞれ結果を出す。全体の連携は運転手が握っている。かつてなら、総統がドイツという自動車を操り、国を導いた。規模こそ小さいが、組織運営の基本はそう大差ない。

 ――問題はエンジンの入れ方だが、いまは戦勝がそれを可能としておる。

 運転手としての仕事をひと通りやりきったアドルフは、急に紅茶が飲みたくなった。すでに所長の執務室を占領しており、おそらく事務員もいるだろうから、彼らに命じて一服するのも悪くない。

 そんなことを考えながらドアを開け、執務室に入った途端、馴染み深い人影が二つ見えた。

「――アドルフ!?」

 二つの人影が同時に叫び、振り返った。ノインの従者だったオークが二人。道化師のブローカーと、オペラ男優のバリュウ。彼らは猛然と突進し、アドルフの体に抱きついてきた。

「よく来てくれたんやんで! めっちゃ待っとったんやで!」

 訛りをむき出しにしてはしゃぐブローカー。口ひげを生やしても、おそらく目許の特徴からすぐにアドルフだとわかったのだろう。
 思わず一歩たじろいだアドルフにむかって、バリュウも負けじと、声高らかに歌いあげる。

「解放されたのは知ってたけど、全員無事か心配してたんだよ~!」

 よく聞けば、二人とも涙声である。

「泣くほどのことか? たかがひと月ほどであろ、我らと顔を会わせなかったのは」

 一人だけ冷静なアドルフは、このとき少々驚いた。二人が自分たちの身を案じつつ、再び収容所に舞い戻ると考えていたことに。
 熱烈な歓迎を全身で受けとめた後、彼はその暑苦しい抱擁を解きながら言った。

「とはいえよくわかったな、我がお前たちを解放しに来ると」
「そんなん当然やで」

 名残惜しそうに左腕を引っ張るブローカーが、意外なことを口走る。

「夢に見たんやで。お嬢やアドルフたちと別れたワイらは、夢のなかでお告げを聞いたんやで。天使様のお告げを」

 そこまで言うとブローカーは、急に悄気た顔で俯きだす。怪訝に眉を寄せたアドルフを尻目に、たちまち大粒の涙を浮かべ、鼻水をすすりあげる。

「ワイら、そこでマクロの死も知ったんや。あれは紛れもない正夢やったんやで……」

 しゃくりあげるブローカーを介抱し、真顔のバリュウもつぶやくように言った。

「解放に来たお嬢を掴まえて、さっき確認をとったよ。マクロは戻らないの、お嬢はそう悔しげに言って泣いてた。仲間を失うのはとても悲しいことだよね」

 逸らした視線を戻して、艶のない瞳をバリュウが向ける。

「ただ、夢のお告げがあったから心構えはできていた。それに少なくとも、お嬢やアドルフたちは生きている。それはとても嬉しいことだよね」

 オペラ男優の彼が、落ち着いた声で話すのをはじめて聞いた。しかもなかなか味のあることを言う。
 不謹慎を承知で感心したアドルフだが、マクロの名誉を重んじて、彼女のために立派な埋葬式を執り行ったこと、今回の戦がその敵討ちでもあったことを告げる。

「ありがとうやで、ほんまありがとうやで。マクロもきっと喜んでいるはずやで……」

 深々と頭を下げ、バリュウに支えられながらブローカーが落涙を続ける。二人の反応を見て、冷静だったアドルフもわずかに心を動かされた。もっともそれは長続きするものではなく、

「ほら、行くぜ。お二人さん?」

 見れば、執務室の奥からすたすた歩いてくる者がいた。牢獄の解放に向かったディアナである。ブローカーたちをここへ連れてきたのは彼女なのだろう。

「感動の再会はそんくらいにしておこうぜ。これから戦勝記念式典もあるっていうのに、いまからぐしゃぐしゃに泣かれちゃ目もあてらんねぇだろ?」

 ディアナのひと言に反応し、ブローカーたちはきょとんとした顔になる。どうやら感激のあまり、自分の置かれた立場がわかっていないらしい。
 アドルフは気を引き締める意味もこめて、心臓をひと刺しするような勢いで言った。

「式典ではマクロの友人代表としてお前たちにもコメントして貰う。発言内容をいまから考えておけ」
「なんやて!?」

 目を点のようにして声を裏返らせたブローカー。バリュウも「嘘だと言ってよ~!」ときれいなテノールを響かせ、膝から崩れ落ちた。

「大げさすぎである。お前たちのマクロへの弔意はその程度だったのか?」

 腰に手をあて、アドルフはトドメを刺した。彼にとっては埋葬式同様、人心を掴むために必要な駒として二人の存在はあったが、同時に古い顔なじみがへたれでは困るという思いもあった。

「しばらく会ってない間にアドルフが鬼軍曹になったんやで……」
「やるしかないよ、やるしか」

 先に観念したバリュウが、アドルフにむかって「依頼の件、了解したよ」と言い放ち、こめかみに手をやりながら、「けどほとんどアドリブになるから、そこんとこ大目に見て欲しいんだな~!」と涙目で歌いあげる。
 こうなると根はめっぽう明るいブローカーも気持ちを入れ換えたのか、

「ああもうしゃーなし! こうなったら一世一代の演説、見せてやるんやで!」

 大声でわめき、勢いよく敬礼する。収容所は職員にたいし敬礼が必須だったから、二人の動作は年季が入っている。ともあれ、街の統治者になったことをすんなり受け入れ、アドルフにおのずから敬意を示したことは彼の心証を良いものにした。

 しかし他方で、地位の上昇を望み、古いつながりを盾に高い官職を要求されるやもしれない、との考えは捨てきれなかった。アドルフの辛口の態度は一種の自己防衛であったが、ひとまず二人は危うい兆候は見せていない。

「良い心構えだ。我の期待を裏切るなよ」

 姿勢の良いアドルフはそのまま返礼を送り、ブローカーたちはディアナに連れられ、執務室のドアから出ていった。

 遠ざかる背中に眼をむけていると、「よし、やってやるんやで!」と気勢を上げる声が聞こえた。想定の範囲内とはいえ、相変わらずのにぎやかさに彼は「やれやれ」と鼻息を吐いた。

 そこから、おもむろに部屋を見まわせば、室内は空っぽである。ついさっきまで所長の管理する資金を調べさせていたが、事務員の姿はどこかへ消えている。
 彼らに命じて紅茶を淹れさせるあてが外れた。

 ――やむをえん。自分で淹れるか。

 総統時代ならいざ知らず、まだ人々を臣下のごとく扱える身分ではなかろう。そんな認識があればこそ、とにかく紅茶が飲みたかったのも手伝い、彼は給湯室を探そうと考え、部屋のドアへと向かう。

 しかし、そのタイミングがあまりにも悪かった。

「……きゃっ!」

 執務室を出ようとした瞬間、衝撃が走ったのだ。出会い頭にだれかと正面から鉢合わせたと思われる。甲高い悲鳴からして、相手は女性のようだ。

「ごめんなさい!」

 女はぶつかった非礼を詫び、勢いよく頭を下げた。よく見ると、女は行政官の娘、ローゼであった。

「謝らずともよい。いまのは我も悪かった」

 高圧的な態度に出ることなく、アドルフは額のあたりをさすりながら言った。

「こちらこそ、注意不足でした」

 さらなる謝罪を重ね、もう一度お辞儀をするローゼ。その姿にアドルフは異なる感情を同時に抱いた。
 ひとつめの感情は、彼女が示す模範的態度への満足感だ。ビュクシの統治権を握った後、ほとんど何の障害もなく移管作業は進んでいる。それらを遂行するうえで、一番忠実に動いているのがこのローゼだ。

 ただし、そこへもうひとつの感情が忍び寄る。
 頭に生やした短角が物語るとおり、彼女は魔人族なのである。魔導師としての力はなく、たんなる文官とはいえ、敵対人種の示す従順さは鵜呑みにできない。

 だからこそ、二人きりになることへ警戒心が湧いた。もっとも戦闘力に歴然とした差があるため、アドルフの用心は不必要と言えば不必要だ。

 事実、頭を抱えたローゼは覚束ない足どりで彼のほうへ歩いてくる。その様子は演技でも何でもなく、単純に目を回しているだけに見え、キツそうな外見とのギャップで間抜けさが際立った。

 仕方なくアドルフは、彼女の肩を押し、ソファのほうへ誘導した。

「座れ。話はここで聞く」

 短く言い放って、彼自身も反対側に腰をおろす。ローゼは「すみません、ヒトラーさん」と謝りつつ、着席した。そこで彼女はようやく苦笑を浮かべたが、突然ハッとなって顔を曇らせた。

 その表情変化は何を意味しているのだろう。訝しむアドルフに、ローゼは言った。

「思い出しました、良い知らせと悪い知らせがあったのです。まずは悪い知らせから――」
「良い知らせから話せ、馬鹿者」

 憮然とした面持ちでアドルフは言い返したが、発言の意図を瞬く間に理解した様子でローゼは口を開く。

「フリーデさんに頼まれたので、裁縫道具をお貸し致しました。もちろん迅速に」
「ほう、それはご苦労」

 依然、仏頂面のアドルフだが、声色は普段の落ち着きを取り戻した。片手を軽く振り、ローゼの発言を促す。

「で、悪い知らせとは?」
「ああ、そうでしたね、それなんですけども」

 再び泡を食ったようになるローゼ。もっとも、彼女に調査を命じたのはアドルフであり、その意味ではどんな答えが突きつけられるか、薄々想像はついていた。

「大変お伝えしづらいのですが、小麦の備蓄が一ヶ月ぶんしか残されていません。これでも、住民に配給する量を抑えめに計算した数字です。なので、正直申しあげて、非常に動かしがたい部分かと」

 ひと息に語られた情報は、確かにアドルフの期待を下まわっていた。穀物倉庫が灼かれたと知ったとき、危惧したことが現実となったわけだ。

「正味、三〇日か。短いな、あまりにも短い」

 不満を述べたところで、状況が好転するわけではないと彼もわかっている。それでも、くり返しつぶやかないわけにはいかなかった。

 たった三〇日でビュクシの街が飢えはじめる。そんな状況、どうすれば打開できようか?
 閃きと直感にすぐれたアドルフだからこそ、その課題は容易に解決できないと判じられた。瞬時に対応策を講じられるほど生易しいものではなく、現時点では時間稼ぎが必要とさえ思われたほどだ。

 しかしアドルフは弱みを見せない。統治に着手して早々、慌てふためく様子など見せれば、相手につけあがる隙を与える。そんな真似を、彼は自分に許さなかった。

「三〇日は短い、きわめて短い。だが、攻略可能な問題でもある。我の頭脳をもってすれば」

 余裕すら湛えた表情を浮かべ、自分のこめかみをコツンと叩く。
 その動作をまじまじと見つめたローゼは、一瞬唖然とした顔になった。ついで後を追いかけるように

「……ご冗談ですよね?」と細い声を洩らした。

 何を根拠に解決できると断言したのか、押し隠せない疑問がその口調には色濃く滲んでいる。けれどアドルフは、すべてが想定内だと言わんばかりに、なおも不敵な笑みを浮かべ続けるのだった。
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