氷剣の皇子は紫水晶と謳われる最強の精霊族を愛でる

梶原たかや

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1話◆白皙の紫水晶

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 雨は次第に霧雨の様相を呈し、周囲は仄かに霞がかって見える。簡素な外見の小さな馬車はひっそりと夜の城下町を抜けて郊外を走っていた。ともすれば方向すら見失いそうな靄が立ち込めるが、御者は慣れているのかさして問題もせずに馬を走らせる。醜悪な宴が行われていた古城からどのくらい離れただろうか。夜が明けるにはまだ遠いが、草木までもが寝静まるには少々早い。馬車は小気味良い車輪と蹄の音を響かせながら人気の無い雨の中をひた走る。やがて馬車は目の前に現れた馬の丈よりも高い堅固な門を抜け、煉瓦造りの道が走る林の中へと入っていった。道の左右は下草が整然と揃えられ、庭とまではいかずともそれなりに手入れが入っていると思われる。車輪が小石に当たって車体が跳ねるということも無い。街道や郊外の土を固めただけの道を走っていたときとは格段に揺れが違う。車輪の音すら雨に搔き消されそうになりながら、ほどなくして馬車は林を抜けた。
 林の向こうには一面の芝が敷き詰められた丘が有り、煉瓦の道は丘の上に佇む小振りの城ほどの規模の邸宅へと続いていた。雨の夜にも存在感を放つ白亜のカントリーハウス。その入口手前で馬車はゆっくりと止まる。御者が台を降りる微かな振動が有って、すぐに馬車の扉が開かれた。
「着いたよ。……降りようか」
 目の前の精霊族にそっと声を掛けると、俯いていた貌がゆっくりと持ち上がる。カイは両手を延べてローブのフードを雨除けとして被せてやった。次いで開けられた扉から先に出ると、御者をしていた初老の男が開いた傘をすぐに主人へと傾ける。有難う、とカイはマルクに謝辞を述べると、馬車を振り返って自然な動作で片手を差し伸べた。馬車の扉から今にも段を降りようとしていたイルは、まるで貴婦人をエスコートするかのようなカイの所作にフードの奥で眉を潜めてその場で止まる。暫しの逡巡を挟んでからイルは自身の手を差し伸べられた手に重ねた。
「足元に気を付けて」
 万が一体勢を崩しても転ぶ前に引っ張り上げられるように、カイの指先に軽く力が籠められてイルの手を握り込む。掛けられた言葉も声音も、そして一連の所作も全く嫌みの無い極々自然なもの。息をするように向けられる洗練された紳士然とした振る舞いに、この目の前の男は騎士でありつつ生粋の貴族なのだと精霊族の青年は推知する。馬車を降りても相手には手を放す気が無いのか、イルは手を引かれる形で建物の扉へと導かれる。マルクによって扉が開かれると、カイはイルの手を引いたまま邸宅の中へと入った。邸宅の玄関には抑えられた照明が灯り、三人のメイドが控えている。彼女達の一人に差し出された布で、マルクは雨に濡れた衣服などを拭う。その様子にカイは口を開いた。
「湯を用意してくれないか。マルク、貴方も風邪を引かないように浴びるといい。その後はもう休んでくれ」
「有難うございます」
 マルクは主人に丁寧に一礼してメイド達にてきぱきと指示を出していく。その慣れた言動を鑑みるに恐らく彼はただの御者ではなさそうだ。イルは改めて薄暗いエントランスホールを視線で見回す。照明が落とされ、暗がりが目立つが、壁も柱も天井に至るまで何もかもが格調高い丁寧な造りであると見受けられる。宮殿ほどの豪奢な印象は無いが、派手な主張をしないが故の格式の高さを感じさせる。外観やエントランスの内装だけでもこれほどの規模の秀麗な邸宅に住まい、使用人に指示を出すような男に主人と呼ばれ、闇オークション会場に難無く潜入出来る男。何となく想像はつくが、それはそれで一つの結論しか思い浮かばず、イルは鬱積のあまりフードの奥で目を細める。
「旦那様、湯の用意が出来てございます」
 然程間を置かずに、奥から戻って来たメイドから報告を受けたマルクがカイに会釈する。浴びるほどの湯を沸かすには、掛かった時間が短過ぎる気もするが、恐らく邸宅の主人がいつ雨の中から戻っても対応できるように、あらかじめ或る程度の準備がされていたのだろう。
「有難う。……さ、行ってきてくれ。冷えた体を温めておいで」
「…………」
 カイはフードを被った黒尽くめを改めて見遣る。繋いだままの手をそっと離し、その手で案内役のメイドを示す。イルはフードの奥からじっとカイを見据えていたが、やがて踵を返すとランタンを手にしたメイドの後について、暗がりの廊下を進んでいった。後ろ姿が完全に闇に鎔けて暫し。マルクが呟きともとれる声音でぽつりと口にする。
「旦那様。……あの方が、件の」
「ああ。……やっと、……やっと見付けた」
 険しい顔で肯くと、カイは口を引き結んだ。



 自らも湯浴みを済ませ、眠る前提の部屋着を纏い、柔らかな生地の紫紺のストールを羽織って、カイは片手にランタンを下げて暗い廊下を歩む。馬車で到着した時も含め、館の主であるカイが邸内を歩き回るのだから、本来は明かりを煌々と灯しているべきなのだが、カイ自身がそれを控えさせていた。イルを連れ帰ったことを少しでも大事にしたくないというのもあるが、いつもなら疾うに寝静まっている時間帯に、館の者達を巻き込んで騒ぎ立てるようなことは避けたかった。実際、自分がイルやマルクを伴って戻ってきたときに対応したメイド達以外は、殆どが既に就寝している。いつも夜間を任されている見回り以外の使用人達はほぼ寝入っているだろう。静まり返った邸内を、カイはとある目的の部屋に向かってスリッパの小さな足音を立てながら進んだ。
 目的の部屋は二階の端に位置している。カイが普段使いしている部屋からは少々離れた場所で、ゲストルームの様相を呈していた。ベッドやテーブルは勿論、ワードローブや書棚といった調度品も揃いのデザインで誂えられており、長期滞在に対応出来る部屋となっている。とはいっても、今部屋にいる筈の人物に関してはこのまま滞在するかどうかは相手次第なのだが。
 該当の部屋の前まで辿り着くと、カイは軽く扉をノックした。暫し待ってみるが内からの返事は無い。もう一度ノックしてみるも、やはり何の反応も無い。色々有ったのだから疲労で既に寝入ってしまったか、それともまさかとは思うがもしや部屋には誰も居ないのか、と不安になりつつカイはそっと扉を開ける。内側は天井の照明は点けられておらず、机と枕元に置かれた小さな照明がそれぞれ仄かに灯されるのみで、廊下ほどではないが薄暗さが目立った。窓側が微かに明るいのはカーテンが少し捲られ、そこから月明かりが差し込んでいるからだろう。古城から邸宅に至るまでの道のりで降っていた雨はすっかり止んで、月明かりが窺えるまでになっていた。そして居ないのではないかと案じた件の人物その人がカーテンの裾を少し捲って、じっと窓の外を眺めている。返事こそしないが、彼がずっと部屋にいたことにカイは安堵の息を小さくついた。
「……良かった。ノックをしたけど返事が無いから、寝ているのかもう発ってしまったのかと思ったよ」
 後ろ手に扉を閉めて、カイは部屋中央寄りの一人掛けソファに挟まれたテーブルの上にランタンを置く。そこに灯された明りを消して天井の照明を点けても良かったのだが、イルが故意に照明を抑えているのであればそれに倣おうと思った。窓辺の彼はカイが部屋に入っても依然として窓の外を見つめていたが、言葉を掛けられ流石に視線をこちらに寄越した。
「…………」
 暖色の小さな照明がぽつぽつと少し距離を置いて三つばかり灯っているだけの部屋では、彼の眼の色すらカイにはよく判らない。表情は真顔に近いが、カイが部屋に入ってきても返事どころか自身の立場に関しての質問すら未だ無いままであることを鑑みれば、相当訝って警戒されているというのだけは理解出来る。
「座らないか。これからのことを話そう」
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