氷剣の皇子は紫水晶と謳われる最強の精霊族を愛でる

梶原たかや

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2話◆ノヂシャに愛を捧ぐ

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 気を抜くと倒れそうだったが、少女はふらつきながらも何とか一歩一歩、ゆっくりと石段を上がっていく。部屋を抜け出し、向かうはいつもの塔の屋上へと。塔の螺旋階段は毎回長いと思うが、今宵は一段と苦しく感じられる。歩けはするが、体力が尽きているのを感じる。背の小さな翼は、本調子ならば多少飛ぶことも出来るが、それでも渡り鳥のような持久力は無いし、猛禽のような力強さも無い。精霊族の中でも殺傷能力の乏しい非力な一族で、集落が人間に見付かったときには碌な抵抗も出来ずに同胞たちは皆捕まってしまった。鳥の翼は自由の象徴にも喩えられるけれども、これほど自由になれない翼が有るだろうか。少女は悲しくなってしまう。石段を上がる足が止まるが、涙を堪えて再びゆっくりと歩を進め始める。夜も更けて暫し、もしかしたら少年はもう屋上に居ないかもしれない。それでも行かずにはいられなかった。少年が少女に会うことを一番の目的として塔を上るなら、少女もまた、少年に会えることを心の拠り所としていた。雰囲気が柔らかく、博識でいろんなことを教えてくれて、寒さに耐えてでも自分に会いに来て僅かな楽しみを共有してくれる人。苦痛ばかりのここの生活の中で、たった一つの少女の慰め。多少回復したといっても階段を休み休み上るのが精一杯だったが、それを押してでも少女は屋上を目指した。
 漸く最上階まで石段を上りきり、少女は石造りの壁に手を付きながらふらふらと奥に向かう。空中庭園とは名ばかりの小さな庭。花の乏しい蔦が伸び、木製のベンチ以外には特に何が有るというわけでもない殺風景な屋上。庭園というよりは簡素な広場と言った方がしっくりくるが、少女にとっては少年との逢瀬の場所はどんなに手入れされた精緻な庭よりも煌めいて見えた。視界に入った後ろ向きの木製のベンチには、誰も座っていないようで、少女は肩を落とす。待ち合わせていたわけではないといっても、期待して上ってきた先に目当ての人物が居ないのはとても悲しかった。少女はのろのろとベンチに歩み寄る。背凭れに手を置いて空を見上げた。頭上には満点の星。最初はこの景色だけを求めてここに来ていただけだった。それがいつの間に少年との時間が目的になったのだろう。
「……綺麗ね」
 たった一人で見上げる星空は、以前も今も全く変わらない筈なのに、ほんの少し物悲しく硬質に見える。寂しく思う気持ちがそう見せるのだろうか。少女には分からないけれども、今、とても彼に会いたかった。少女がぽつりと少年の名を口にしたとき、小さな靴音が耳に届いて少女ははっと後ろを見遣った。夜闇の中、階段を上りきり石垣を抜けて現れた人物。片足を引き摺る微かな音を伴うその相手に、少女は破願して呼び掛ける。少女に名を呼ばれた少年は、口元を綻ばせて片手を上げた。
「こんばんは。最近ずっと入り口に鍵が掛かってて……。開いてるのに気付いて上ってきたけど、今夜はもう居ないかもって思ってたんだ」
「私もよ。こんなに夜も遅いもの。でも、来て良かった!」
「もしかして、ずっと待ってた?」
 申し訳なさそうに問う少年に、少女はにこりと笑んで首を振った。
「ううん、私もすっかり遅くなっちゃって、たった今来たところだったの」
「……それなら、よかった」
 ほっとして微笑む少年の腕を引いて、少女は並んでベンチに座る。見上げる夜空のなんと綺麗なことだろう。ついさっきと変わらない筈なのに、一つ一つの星の瞬きが輝いて見える。隣に彼が居るというだけで、世界はこんなにも美しい。どちらともなく息をつけば、ほわりと白く浮かんで消えた。
「ねぇ、今日は何を教えてくれるの?」
 少女はくりくりの愛らしい瞳を少年に向ける。好奇心旺盛な彼女に小さく笑って、少年は懐から本を取り出した。今までに持ってきた物と同様、薄汚れて四隅の角が丸くなった古本である。読み倒され、年月を経た本だったが、造りは上等なもので、中は色彩豊かな印刷で様々な植物や動物が描かれている。少年は小さな図鑑を広げて、彼女に説明文を読んでやりながら相槌や感想を受け止める。それがどんなに拙く単純な言葉でも、少年は真摯に耳を傾け、少女に微笑んでくれる。少女は少年との静かな時間が好きだった。
「私もまたたくさん練習したの。見て!」
 図鑑に記された動植物を学んで満足した少女は、ベンチから立ち上がると少し離れ、すうと深呼吸してからゆっくりと歌い始めた。鈴の音に似た澄んだ声は高音も低音も自由自在で、軽やかに伸びやかに世界を紡ぐ。少年は息を飲む。幾年も経験を積んだ歌姫のような、洗練された完成度の高い歌曲。少女は歌と共に舞い始め、その小さな体躯はさながら熟練の舞姫然として迷いなく動く。少年は圧倒された。大金を積んでもそうそうお目に掛かれない幻の舞台を目にしているかのようだった。身体を大きく動かしても声や息遣いが全くぶれることのない美しい歌声。少女は少年に見せるのが楽しかった。あれだけ消耗して、この庭園に上ってくるのすらやっとだったのに、そんなことも忘れて彼の前で唯々歌い踊るのが楽しかった。少女が一通り歌い、ゆっくりと体の動きを止めると、少年は惜しみない拍手を捧げた。
「凄い……凄く素敵だったよ……!」
 それなりに本を読み、少女よりも遥かに言葉を知っている筈なのに、肝心な時に彼女を称える語彙が出てこなくてもどかしい。足が痛むのも忘れて少年は立ち上がり、いつまでも拍手を送る。たった一人のスタンディングオベーションが嬉しくて、少女ははにかんで舞台女優めいた一礼をした。
「有難う。喜んでくれて嬉しい……!」
 少年の足は支えが無ければしっかりと立ち続けることも出来ず、ふらついてしまう。少女は咄嗟に駆け寄って彼を支え、そんなことすら二人には何だか楽しくて、小さく噴き出すみたいに笑った。二人はベンチに腰を下ろすと、満点の星を見上げる。お互いに一人ぼっちのときはあんなに味気ない夜空が、不思議なことに虹に劣らず彩豊かに見えた。一息ついた少年は隣に座る少女に話し掛ける。
「とても素晴らしかった……。もしかしてお芝居を見に行ったのかい」
「ええ、一昨日観劇をしたの。これが、あなたがいつも教えてくれるウタというものなんだって思ったら、あなたにも見せてあげたくなったの」
 少女は屈託なく目を細める。自分が教えた歌など古い童謡に過ぎず、少年は少し恥ずかしくなってしまう。少女が観劇をしたなら、連れて行ったのは間違いなく彼女の主人であるオルワーズ伯爵。そうなると彼女が見たものは流行最先端の歌劇の筈。古い童謡などとは比べるべくもない。けれども、内容や流行りなど関係なく彼女が自分に見せたいと思ってくれたことが少年には嬉しかった。
「ねぇ、あなたはここに来ていないときは何をしているの」
 何の気なしに少女は問い掛ける。少年は暫し思案した。
「ここに来られない夜は……本を読んだり字の練習をしたりしてるかな。……灯りを長く点けていると怒られるから、あんまり出来ないんだけど……。そんな時は、眠くなるまで少し散歩したりしてるよ」
 少年は小さく笑う。灯りを長々と点けていられないから、暇潰しに外を散歩するようになってこの塔に辿り着いたのだ。そういう意味では、仕方なく始めたとはいえ散歩も悪くはなかった。希望の見えない生活に、彼女という光を与えてくれたから。
「夜はそんな風に過ごしているのね。お昼はどうしているの?」
「昼間は働いているんだ。野菜や果物の皮を剥いたり、お皿を洗って拭いたり……。簡単な掃除とか……」
「大変そうね」
「慣れないうちは大変だったけど、大分出来るようになったよ」
 伯爵邸の隅に住まわせてもらっている少年は、館の家事の手伝いをしている。母親と暮らしていた頃の劣悪な環境に比べれば、きょうだいの食事に出す野菜を洗い、きょうだいが過ごす部屋を這って掃除することくらい、何でもなかった。足の悪い少年を気遣い、料理人やメイドは洗い場に椅子を置いてくれたりと皆優しかった。今は本を読んで計算式を幾つも学んでいる。算術が出来るようになれば外で経営の手伝いなどの職を見付けられるかもしれない。足が悪くて、体を使う仕事で出来ることは限られているが、頭を使う仕事ならやってみたいと思う。そうして金を貯めて、いずれはきちんとした場所で学び直すというのが少年の目標だった。そんな風に将来を考えられるようになったのも、彼女と出会ったお陰だと思う。
「君は日中はどんな風に過ごしているの」
 自然な流れで少年は問うたつもりであったが、少女の方は面食らった。まさか自分が同じ問いを投げられるとは思っていなかった。少女は逡巡する。果たして正直に言って良いものだろうか。僅かな迷いの末に、少女はにこりと微笑んだ。
「歌の練習をしたり窓の外を眺めたり。あなたに教えてもらったことを思い返したりしているわ。……私も人の文字が読めたら、本を読むことが出来るかしら……」
「文字を知りたいなら、教えてあげるよ。きっと世界が広がると思う」
 少年は図鑑を広げると、絵に添えてある文字を示しながら丁寧にゆっくりと少女に伝えていく。それを聞きながら、少女は少し心苦しかった。
(あなたは私を天使と言った)
 思い出すのは初めて出会った夜。見知らぬ人間に怯えて震える自分の姿を見て、彼は呆けたようにそう呟いた。
(ごめんなさい。……私はそんな、綺麗なものじゃない)
 天の御使い、神の使途という人間が信奉する概念は、主人である伯爵に連れられて赴いた観劇や豪奢な聖堂などで見知った。描かれた絵画や舞台はどれも崇高で美しく、自分のようなちっぽけな存在とは似ても似つかない。それでも少年が自分をそんな綺麗で尊いものとして見てくれたことが嬉しく、同じくらい申し訳なかった。自分がこの館の主にされていること、していることを知ったなら、少年はどんな反応をするのだろう。汚らしいと蔑むだろうか。もうこの塔の屋上に来てくれなくなるかもしれない。優しくしてもらえる資格など無いのだろうし、幻滅して見捨てられても何も言えない。けれども、願ってしまうのだ。この静かで穏やかな二人の時間がずっと続いてくれればと。
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