また、恋をする

沖田弥子

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モールス信号

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 借りた本を分担して読むことにして、図書館を出る。庭園に据えられた時計の時刻はすでにお昼を指していた。

「お昼ごはん、食べに行こうか」

 さっくりと告げられた西河くんの言葉に、私は時計の文字盤から彼の顔に視線を移動させる。

「そ、そう?」

 この時間なら一緒にお昼ごはんという流れになるかもしれないことは頭を掠めたけれど、バスで家に帰ることも想定していたので、まるで予定どおりとでも言いたげな自信のある西河くんに少々驚いてしまう。

「相原さんは何食べたい? 俺は焼き肉」
「それ、選択肢が焼き肉しかないよね?」

 好き嫌いはないので、なんでもいいのだけれど。
 西河くんは笑いながら並木道を通り過ぎる。夏の眩い木漏れ日が、彼の黒髪を撫でた。

「焼き肉ランチしよう。俺の知ってる店でいいよね」
「いいよ」

 再びバス停の前に並んで立つ。バスがやってくるまで、少々時間があるようだ。沈黙を縫うように、蝉の合唱が蒼穹の空に届く。
 私は先程見た本に描かれた、村のイラストを思い起こした。
 どこかで見かけたことがあるような景色だ……。
 あの、神社の前の太い線はなんだろう。どこか禍々しいものを連想させる。
 奇妙な既視感が過ぎり、喉奥に黒いものが痞えるような気がした。嘔吐感が込み上げる。

「そういえば、暗号は解けた?」

 西河くんの声に、意識が引き戻される。
 私の体を支配していた黒い靄のようなものは瞬時に消え去る。

「ううん。モールス信号がわからなくて」

 結局、暗号は中途半端になっている。ネットで調べないことという西河くんの課したルールを、私は律儀に守っていた。そうすると暗号解読は全く進まない。

「教えてあげるよ。焼き肉食べながら」
「西河くんは、モールス信号に詳しいの?」
「アマチュア無線の資格持ってる。趣味で取得したんだけどね」
「へえ、すごいね」

 アマチュア無線資格を所持していることが、どれほどすごいことなのかはわからないけれど、なんだか難しそうだ。
 蜃気楼のむこうからバスがやってきたので、私たちは会話を中断して冷房の効いた車内に乗り込んだ。



 駅前の焼き肉屋に入ると、西河くんは私の意見を全く聞かずにAランチをふたつ頼んでしまう。とはいえ、昼の時間帯なので選択肢はAランチとBランチしかないようだ。
 そして西河くんは運ばれてきた肉を次々に焼いては、焼き上がった肉を私の小皿に乗せていく。もちろん彼は自分の小皿にも乗せているけれど、その割合は私が八・西河くんが二くらいである。
 食べるのが追いつかず、私の肉の山はなかなか減らない。 

「ちょっと、ストップ」
「焼きすぎたかな? じゃあ野菜にしよう」

 焼きすぎたと言いつつ、今度はトングで取ったピーマンやタマネギを網に並べている。
 必死にカルビを食す私の向かいで、野菜の焼き加減を見ていた西河くんは、唐突にぽつりと投げた。

「そういえばさ、暗号のペナルティどうする?」
「……んぅ?」

 もぐもぐと咀嚼していた私は妙な声を出してしまった。
 なんのことかと思ったけれど、そういえば西河くんは始めに、暗号が解けなかったらペナルティを課すなどと無茶なことを言っていた。
 ごくんとカルビを呑み込んだ私はコップの水を飲む。

「モールス信号のこと、教えてくれるんだよね? そしたら正解するから、ペナルティはつかないよ」

 モールス信号は点と線で構成された符号で、和文はイロハに当てはめている。イは・-である。……というところまではメールで聞いた。
 私は自分のノートを取り出して、書き写したものを見せる。

「これが暗号文だよね?」

 -・-・ --・-・ ・-・・ -・- ・-・ -・-・・・・

 西河くんが記述したノートから抜き出したものだ。
 つまり、これをイロハに当てはめれば正解がわかる。どの部分がイなのかどうかは、今のところ全く判別できないけれど。
 西河くんは器用にトングを操りながら、ノートを見て頷いた。暗号の記述は合っているらしい。

「正解すると決まったわけじゃないからさ、ペナルティを何にするかは決めておきたいね」
「……一応聞くけど、そのペナルティって、もう決まってたりするの?」

 選択肢のなかった焼き肉のように、もしかしてすでに決定事項ではないだろうか。
 ノートを仕舞いながら、私は引き攣った笑いを頬に刻む。西河くんは、にこりと微笑んだ。

「正解できなかったときは、名前で呼んでいい?」
「えっ」
「相原さんの、名前のほうで呼んでもいいかな」

 さっと、私の顔が青ざめるのが自分でわかった。 
 私の、名前。
 母親しか呼ばない、大嫌いな名前。

「だめ」
「どうして?」

 名簿などで、当然西河くんは私の名前を知っているはず。
 彼は私の手のひらの痣についても、先日知った。
 それなのに、なぜ、この烙印を連想させる私の名前を呼びたいなんて言うのだろう。
 私は、ぎゅっと左の手のひらを握りしめた。テーブルの下で。
 微妙な空気の中、やってきたウェイターがテーブルに食後のデザートを置いていった。硝子の器に入れられた赤紫色のシャーベットが艶々とした輝きを放っている。

「食べよう。溶けるよ」
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