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ニエ
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もしかして、休みなのだろうか。
「おはよー」
後ろから沙耶に声をかけられる。
「おはよう、沙耶」
「聞いてよ。他校なんだけど、バスケ部の人でね……」
バスケ部の試合を見に行ったときの話を滔々と聞かされながら、私は目の端で西河くんが来ないか確認する。
授業時間まで、あと数分しかない。
今日はもう、登校しないのだろうか。
『ありがとう』というメールに返信しておけばよかった。竜の鱗を返すことは別にして、西河くんと『おはよう』と、なんでもない挨拶を交わしたい。
なぜか、彼に二度と会えないかもしれないという恐怖感に似た感情が、突然雷雲のように私の心を支配する。
どくどくと嫌なふうに鼓動が脈打つ。
喉元が締めつけられるような息苦しさに喘いだ。
そのとき、数学の先生が入室してきて声を張り上げた。
「おい、みんな席に着け」
授業が始まってしまう。生徒たちは慌てて席に戻った。
「あっ」
私は小さく声を上げた。
鞄を携えた西河くんが、何食わぬ顔をして教室に入ってきたから。
教壇に立った先生は教科書を捲る。西河くんも他の生徒と同じように着席した。
チャイムの音色と共に、私は安堵の息を吐く。
なぁんだ。西河くんは遅刻しただけ。
どうして彼に二度と会えないなんて焦燥に囚われたのだろう。そんなわけないのに。
西河くんの背中を窺えば、いつもどおり平然として数学のノートを捲っている。私はポケットに手を入れて、巾着袋をそっと探った。スエードの柔らかな感触が指先に伝わる。
あとで返そう。
先生の淡々とした声が教室に流れる。
ノートに鉛筆を走らせていた私は、ふと異変に気がついた。
ふわりと、冷涼な気配が体に忍び寄る。
なんだか涼しい。日が陰っただろうか。窓の外に目をむけるが、相変わらず夏の陽射しはきつかった。
体の内側から、冷たい感覚が広がっているようだ。
もしかして……
そっとポケットに手を差し入れた私は確信した。スカートのポケットに入れた巾着袋から、冷感が漂っている。
仕組みはわからないけれど、巾着袋には冷却効果があるらしい。それともまさか、鱗から冷えているのだろうか。
ちらりと西河くんをうかがうけれど、彼は背中を向けているのでこちらは見えない。
教室では何も変わらない光景が繰り広げられている。先生が黒板にチョークで書いた記号が、ぐにゃりと歪む。
私は下を向いて眼を擦るけれど、ノートに書いた数字までもが、ぐるりと回転した。
なに、これ。
渦の中に呑み込まれていく。誘われるように、私は瞼を閉じた。
突然全身に襲いかかる冷たい感触に、一気に意識は引き戻される。
「う……げほっ、ごほっ……」
息が継げず、水を思い切り飲んでしまう。激しい咳き込みと共に手足をばたつかせて、私はその場に立ち上がった。
「……え?」
さらさらと、水の流れる音が鼓膜を撫でていく。剥き出しの両脚は水に浸されていた。
驚いて振り仰げば、生い茂る樹木の枝葉が頭上高く幾重にも重なっている。萌葱色の葉からは、煌めく木漏れ日が降り注いでいた。
茫然とする私の顔や手足から無数の雫が流れ、足許の川に滴り落ちていった。
汗ではない。
川の水だ。
私は今、川に顔を突っ込んで溺れかけたらしい。
どうして。
教室にいたはずなのに。
いつのまに外にいて、川の真ん中に立っているのか。
授業はどうなったのか。みんなはどこに?
唖然として佇んでいると、川辺に甲高い子どもの笑い声が響き渡った。
「イケニエが川におっこちた、おっこちた! まだニエになるのは早いぞ」
わけのわからないことを囃し立てる子どもたちは古風な着物を着ている。今日はお祭りでもあるのだろうか。
「イケニエ……?」
ふと自らの着衣を見下ろせば、私も着物姿だった。赤い絣の着物に、濃茶の帯を締めている。こんな衣服には、まるで見覚えがない。
「え……なんで? 制服だったよね?」
はっとしてポケットのある腰の辺りを探るが、そこに巾着袋はなかった。それどころか着物なので、ポケットすらない。
袂や胸の袷を調べてみるけれど、今の私は何も所持品がなかった。
いつのまに着替えたのだろう。全く記憶がない。
それよりも、ここは一体どこなのか。川を覆うように木々は連なり、遠くの山々は稜線を描いている。見渡す限り森林しか見えない。
学校の校舎は住宅地にある。このような山奥は訪れたことすらなかった。
子どもたちの笑い声が遠くなる。
私は着物から雫を滴らせながら、ただ茫然として川の流れを見つめていた。
川底に転がる硬い石の感触が、足裏から伝わる。足を撫でていく水は冷たかった。
「いつまでもそうしていたら、流されてしまうぞ。上がれ」
突如かけられた低い声音に振り向くと、川縁にひとりの男が立っていた。やはり和装で、白練の着流しに袖無しの羽織を纏っている。
彼の顔を見た私は、驚きの声を上げた。
「西河くん……!?」
教室で席に座っていたはずの西河くんは、どこか不機嫌そうに眉根を寄せている。人当たりが良く、不快感を表したことなどない彼にしては珍しい表情だった。
なぜ西河くんも着物姿なのだろうか。
他のクラスのみんなもいるのだろうか。
辺りを見回す私に、舌打ちをひとつ零した着物の西河くんはざぶりと川に入った。川は膝丈くらいまでの深さなのだが、入れば裾が濡れてしまう。
「来い」
ぐい、と手を引かれて川縁へ引っ張られる。
初めて触れた西河くんの手は、とてもひんやりしていた。
川縁へ上がればそこは雑草が生い茂っていた。人の手が入っていないことが窺い知れる。整地された公園のようなところとは全く違っていた。ここは本当に山奥のようだ。
まずは西河くんにぜひとも報告しなければならないことが口を突いて出る。
「あの……西河くん。私、巾着袋なくしちゃったみたいなの」
着物の西河くんは振り向くと、私の手を解放した。まっすぐに、ひたむきな双眸を私にむける。
「おはよー」
後ろから沙耶に声をかけられる。
「おはよう、沙耶」
「聞いてよ。他校なんだけど、バスケ部の人でね……」
バスケ部の試合を見に行ったときの話を滔々と聞かされながら、私は目の端で西河くんが来ないか確認する。
授業時間まで、あと数分しかない。
今日はもう、登校しないのだろうか。
『ありがとう』というメールに返信しておけばよかった。竜の鱗を返すことは別にして、西河くんと『おはよう』と、なんでもない挨拶を交わしたい。
なぜか、彼に二度と会えないかもしれないという恐怖感に似た感情が、突然雷雲のように私の心を支配する。
どくどくと嫌なふうに鼓動が脈打つ。
喉元が締めつけられるような息苦しさに喘いだ。
そのとき、数学の先生が入室してきて声を張り上げた。
「おい、みんな席に着け」
授業が始まってしまう。生徒たちは慌てて席に戻った。
「あっ」
私は小さく声を上げた。
鞄を携えた西河くんが、何食わぬ顔をして教室に入ってきたから。
教壇に立った先生は教科書を捲る。西河くんも他の生徒と同じように着席した。
チャイムの音色と共に、私は安堵の息を吐く。
なぁんだ。西河くんは遅刻しただけ。
どうして彼に二度と会えないなんて焦燥に囚われたのだろう。そんなわけないのに。
西河くんの背中を窺えば、いつもどおり平然として数学のノートを捲っている。私はポケットに手を入れて、巾着袋をそっと探った。スエードの柔らかな感触が指先に伝わる。
あとで返そう。
先生の淡々とした声が教室に流れる。
ノートに鉛筆を走らせていた私は、ふと異変に気がついた。
ふわりと、冷涼な気配が体に忍び寄る。
なんだか涼しい。日が陰っただろうか。窓の外に目をむけるが、相変わらず夏の陽射しはきつかった。
体の内側から、冷たい感覚が広がっているようだ。
もしかして……
そっとポケットに手を差し入れた私は確信した。スカートのポケットに入れた巾着袋から、冷感が漂っている。
仕組みはわからないけれど、巾着袋には冷却効果があるらしい。それともまさか、鱗から冷えているのだろうか。
ちらりと西河くんをうかがうけれど、彼は背中を向けているのでこちらは見えない。
教室では何も変わらない光景が繰り広げられている。先生が黒板にチョークで書いた記号が、ぐにゃりと歪む。
私は下を向いて眼を擦るけれど、ノートに書いた数字までもが、ぐるりと回転した。
なに、これ。
渦の中に呑み込まれていく。誘われるように、私は瞼を閉じた。
突然全身に襲いかかる冷たい感触に、一気に意識は引き戻される。
「う……げほっ、ごほっ……」
息が継げず、水を思い切り飲んでしまう。激しい咳き込みと共に手足をばたつかせて、私はその場に立ち上がった。
「……え?」
さらさらと、水の流れる音が鼓膜を撫でていく。剥き出しの両脚は水に浸されていた。
驚いて振り仰げば、生い茂る樹木の枝葉が頭上高く幾重にも重なっている。萌葱色の葉からは、煌めく木漏れ日が降り注いでいた。
茫然とする私の顔や手足から無数の雫が流れ、足許の川に滴り落ちていった。
汗ではない。
川の水だ。
私は今、川に顔を突っ込んで溺れかけたらしい。
どうして。
教室にいたはずなのに。
いつのまに外にいて、川の真ん中に立っているのか。
授業はどうなったのか。みんなはどこに?
唖然として佇んでいると、川辺に甲高い子どもの笑い声が響き渡った。
「イケニエが川におっこちた、おっこちた! まだニエになるのは早いぞ」
わけのわからないことを囃し立てる子どもたちは古風な着物を着ている。今日はお祭りでもあるのだろうか。
「イケニエ……?」
ふと自らの着衣を見下ろせば、私も着物姿だった。赤い絣の着物に、濃茶の帯を締めている。こんな衣服には、まるで見覚えがない。
「え……なんで? 制服だったよね?」
はっとしてポケットのある腰の辺りを探るが、そこに巾着袋はなかった。それどころか着物なので、ポケットすらない。
袂や胸の袷を調べてみるけれど、今の私は何も所持品がなかった。
いつのまに着替えたのだろう。全く記憶がない。
それよりも、ここは一体どこなのか。川を覆うように木々は連なり、遠くの山々は稜線を描いている。見渡す限り森林しか見えない。
学校の校舎は住宅地にある。このような山奥は訪れたことすらなかった。
子どもたちの笑い声が遠くなる。
私は着物から雫を滴らせながら、ただ茫然として川の流れを見つめていた。
川底に転がる硬い石の感触が、足裏から伝わる。足を撫でていく水は冷たかった。
「いつまでもそうしていたら、流されてしまうぞ。上がれ」
突如かけられた低い声音に振り向くと、川縁にひとりの男が立っていた。やはり和装で、白練の着流しに袖無しの羽織を纏っている。
彼の顔を見た私は、驚きの声を上げた。
「西河くん……!?」
教室で席に座っていたはずの西河くんは、どこか不機嫌そうに眉根を寄せている。人当たりが良く、不快感を表したことなどない彼にしては珍しい表情だった。
なぜ西河くんも着物姿なのだろうか。
他のクラスのみんなもいるのだろうか。
辺りを見回す私に、舌打ちをひとつ零した着物の西河くんはざぶりと川に入った。川は膝丈くらいまでの深さなのだが、入れば裾が濡れてしまう。
「来い」
ぐい、と手を引かれて川縁へ引っ張られる。
初めて触れた西河くんの手は、とてもひんやりしていた。
川縁へ上がればそこは雑草が生い茂っていた。人の手が入っていないことが窺い知れる。整地された公園のようなところとは全く違っていた。ここは本当に山奥のようだ。
まずは西河くんにぜひとも報告しなければならないことが口を突いて出る。
「あの……西河くん。私、巾着袋なくしちゃったみたいなの」
着物の西河くんは振り向くと、私の手を解放した。まっすぐに、ひたむきな双眸を私にむける。
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