また、恋をする

沖田弥子

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血文字

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 まさか、そんなことをするなんて。
 物の怪として悪者扱いされる蛟だけれど、竜神の社にいる蛟たちは人間に何の害も及ぼさなかったはずだ。
 那岐が大事にしていた眷属は死に絶えてしまったのか。
 私は茂蔵を始めとした村人の良心を信じていた。
 けれど、彼らはどこまでも利己的だったのだ。
 竜神の嘆きにより雨が降るという伝承があると茂蔵は語っていた。那岐の大切なものを奪い去ることにより、雨を降らせるという手段に出たのかもしれない。
 項垂れた五平は話を続ける。

「旦那様は、状況を見守ると言っていた。茂蔵に任せるつもりらしい。ひどいことじゃ。だがわしらが異を唱えようものなら、鍬で叩かれる。どうすることもできん」
「じゃあ、那岐は木に縛られたままなんですか!?」
「うむ……。なんと恩知らずで恐ろしいことじゃ。この村は竜神様に見放されてしまうじゃろう」

 状況は変わらないどころか悪化している。茂蔵たちは蛟を皆殺しにして、反対する村人にまで暴力を振るっているのだ。見れば、五平の手の甲は赤く腫れていた。茂蔵の一派に暴行されたのだろうか。その手を返して、五平は膳を勧める。

「さあ、食べなされ。わしの嫁が作ったんじゃ。菓子もついとる」

 膳には大盛りの白米に菜の汁物、それから沢庵。和紙に乗せられた練り菓子もあった。

「このお菓子……キヨノさんにもらったのと同じものですね」

 白い粉の塗された細い練り菓子には見覚えがある。母屋に上がり、サヤに冷たくされて落ち込んだとき、キヨノに持たせてもらった菓子だ。

「わしの嫁がキヨノじゃ。菓子も手作りしていてな。……おまえさまのことを案じておった」

 私の目に涙が浮かぶ。
 竜神信仰が崩壊しつつある村で、私の存在など虫けらのようなものであるはずなのに、五平とキヨノは私の身をこんなにも労ってくれるのだ。
 私は深く頭を垂れた。

「……ありがとうございます。いただきます。キヨノさんにも、よろしくお伝えください」
「また明日も持ってこよう。腹一杯食べなされ」

 門番に促され、五平は蔵から出て行った。頑丈な鉄の扉は重い音を立てて閉ざされる。
 私は箸を手に取ると、白米を口に含んだ。美味しい御飯は乾いた喉を、塩辛い涙と共に流れていった。



 箸を置いたあと、私は勿体なくて食べられない練り菓子を和紙に包んで取っておいた。
 袂に菓子を入れる代わりに、香り袋を取り出す。紐を解いて袋の口を開ければ、那岐の分身とも言える逆鱗が袋の中で凜然と輝いていた。
生涯、私以外の女を妻に娶らないと那岐は言ってくれた。
 私への想いを示してくれた逆鱗を、手のひらにそっと包み込む。

「那岐……どうか、無事でいて」

 逆鱗に想いを込めて、ひたすら祈る。
 那岐が雨を降らせたら、彼はこの村の神をやめてしまうかもしれない。たとえ茂蔵たちが手のひらを返して那岐に感謝したとしても、蛟を殺した茂蔵を那岐は許さないだろう。五平が危惧したとおり、村を見放して、どこか知らない土地へ行ってしまうと考えられた。
 そのときは、私も那岐についていこう。
 那岐とふたりで遠いところへ行って、そこで静かに暮らそう。
 ただの那岐と、生贄をやめた名もない娘として。
 格子窓を見上げれば、そこから垣間見える小さな空には薄い雲がかかっていた。雨が近いのかもしれない。
 もうすぐだ。空を見た茂蔵が那岐の拘束を解いてくれればきっと、雨を降らせることができる。
 私の期待に応えるように、静寂を破り、羽音が耳に届く。
 雀よりも大きな影が、格子窓に降り立った。

「あ……!」

 純白の翼を持った白鳩だ。
 あの鳩はもしかして、竜神の社にいた白鳩ではないだろうか。私は庭園でよく鳩たちに餌をやっていた。
 社での騒ぎで居場所を失った鳩が、ここまでやってきたのかもしれない。私は和紙に包んでいた練り菓子を掲げて、鳩を呼び寄せた。

「鳩さん、おいで」

 格子の隙間を通り抜けた白鳩は、羽ばたいて蔵の中に降り立つ。練り菓子を小さく千切って差し出すと、鳩は嘴で突いた。

「ごめんね……社にはもう、食べ物がないんだね」

 今頃、那岐はどうしているだろう。
 翼があれば、那岐のもとまで飛んでいけるのに。
 那岐は好いていると告げてくれたのに、何も返せなかった。
 どうして、那岐に伝えなかったのだろうか。
 私の胸を激しい後悔が押し寄せる。
 いつでも言えるのだと思っていた。
 いつも傍に那岐がいる。ふたりを包む平穏は永遠であるかのように錯覚していた。
 けれど今は、傍に那岐がいない。たったのひとことを、伝えることができない。 
 大切なことは、躊躇わず相手に伝えなくてはいけないのだ。
 それを痛感した私は項垂れて、手許に目を落とした。手の中には、練り菓子に敷いていた和紙がある。

「そうだ……これに文字を書けないかな」

 この和紙に文字を書いて、鳩の足に結び、那岐のもとへ運んでもらえないだろうか。
 社にいた白鳩は、樫の木の周囲に降りることもあるかもしれない。鳩は頭を前後に動かしながら、私の周りを歩いた。
 でも、書くものがない。
 墨や筆などはもちろん置いていない。何か代用になる物はないだろうか。
 周囲を見回した私はふと、手許を見た。
 血だ。
 血で書ける。
 迷ってはいられなかった。私は歯で指先を噛み千切った。鋭い痛みが指に走り、じわりと鮮血が滲む。
 広げた和紙に指先を押しつけて、「ス」と血文字を書き込む。切れた皮膚が和紙で擦れて、ひどく痛む。
 あと一文字。
 そのとき、扉の錠前が外される音が蔵に鳴り響いた。
 誰かが入って来る。那岐に連絡を取ろうとしているこの姿を見られたら、和紙を取り上げられてしまうことは必至だ。
 私は急いで和紙を畳み、鳩の足に結いつけた。飛び立った鳩が格子窓に辿り着いたのと同時に、扉が開け放たれる。
 入ってきた人物は、意外な人だった。

「サヤ様……」

 サヤは仏頂面を浮かべて、戸口に佇んでいた。中に入って来ようとはしない。
 白鳩が格子窓から飛び立っていったことを、私はこっそりと目の端で認めた。サヤがそれに気づいた様子はなく、私を睨みつけている。

「竜神様は喉にお怪我をされている。あそこには逆鱗があったはず。おまえが持っているのではないの?」

 出し抜けに問われたので咄嗟に答えられないでいると、サヤは急かした。
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