また、恋をする

沖田弥子

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最期

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「どうなの。答えなさい」
「……持っています」
「やはり。おまえが逆鱗を奪ったせいで、竜神様は神通力が発揮できずに大変困っているのよ。私がお返しするから、渡しなさい」

 逆鱗がないと雨雲を呼べないのだろうか。那岐はそのようなことは、ひとことも語っていなかった。それに那岐が本来の力を発揮できずに困っていたのは、私に逆鱗を授ける前からのことだ。
 けれど、那岐を助けるためなら何でもしたい。
 私は袂から逆鱗の入った香り袋を取り出した。
 那岐が授けてくれた大切な宝物。私を花嫁にするという証。
 サヤは手のひらを差し出しているが、渡すことを躊躇する。
 逆鱗を渡してしまえば、私の心のよすがが何もなくなってしまうという心許なさを覚えた。

「どうしたの? 早くしなさい」

 サヤは苛立たしげに紅鼻緒のついた草履で足踏みをした。私がすぐに逆鱗を渡さないので、焦っているように見える。

「あの……本当に那岐に渡してくれますよね?」
「当たり前でしょう。盗人が盗んだ物を返す心配などしなくてよい」 
「盗んだわけじゃありません。これは那岐が婚姻の証にと、私に授けてくれたんです」

 サヤは目を見開いた。彼女は大きな衝撃を受けたようだった。

「竜族は生涯を誓う相手に逆鱗を授けるということを、なぜおまえが知っているの?」
「那岐がそう言ってたんです」

 逆鱗を授けるのは、竜族に伝わる風習らしい。サヤも村長のように、村に伝わるという書物を紐解いて知ったのだろうか。

「黙れ! おまえのような穢れた生贄が竜神様の花嫁になるなどと、決して許さぬ!」

 激昂したサヤは蔵の中に踏み込むと、私の手から奪うように香り袋を攫った。

「あっ……」

 突き飛ばされた勢いで尻餅をついてしまう。身を翻したサヤは蔵を出て、走り去っていく。見張っていた門番がすぐに扉を閉めた。
 あとには、静寂が広がる。
 私は尻餅をついた体勢のまま、茫然としていた。
 サヤは那岐に好意を抱いている。それなのに、生贄の私が逆鱗を持っていることが許せなかったのだろう。
 サヤは本当に逆鱗を那岐に返してくれるのだろうか。
 那岐のことが好きなら、サヤだって那岐を救いたいはずだ。逆鱗が神通力の源だとしたら、那岐に渡してすぐに雨を降らせてくれるだろう。
 けれど、彼女の態度には不審を覚える。那岐を助けたいというより、逆鱗を自分のものにしたいという執着のほうが勝っている気がしたのだ。
 私は首を振った。疑念を抱いてはいけない。サヤの良心を信じるしかない。 
 白鳩が飛び去っていった格子窓を見上げた。
 格子窓は高いところにあり、手を伸ばしてもとても届かない。
「ス」と書かれた、一文字だけの手紙。
 たとえ那岐が見てくれても、なんのことかわからないだろう。血文字なので不気味に思われるかもしれない。でも、どうしても伝えたかった。
 どうか、那岐に届きますように。
 そしてもう一度だけ、鳩さんが来てくれますように。
 あと一文字だけ、手紙に託したい。

「逆鱗も、手紙もきっと那岐のところに届くよね。鳩さんもまた来てくれるよね」

 私は明るい声を出して、希望を胸に抱いた。



 それから数度の昼と夜が過ぎた。
 五平は日に一度だけ膳を運んでくれる。その度に彼に状況を窺うが、始めに聞いた話から改善は見られなかった。
 相変わらず那岐は樫の木に縛りつけられ、食事も水も与えられずに衰弱しているということを聞かされて、私の胸は千切れそうに痛む。
 そのような環境で雨を降らせることなどできるはずがない。五平は異議を唱えたくても、茂蔵の暴行を恐れて訴えかけることができないようだ。村長もまた静観の姿勢を崩していないという。

「サヤ様は、那岐の逆鱗を届けてくれたんじゃないんですか?」

 あの日以来、サヤは蔵にやってこない。無事に逆鱗を那岐に返せたのかは不明だ。五平は首を捻った。

「わからんのう……。サヤ様は竜神の社に行こうとしていない。茂蔵が見張っていて、危ないからじゃろう」
「そうですか……」

 まだ返せていないようだ。鳩も訪れていないので、那岐に手紙を届けられたのかわからない。そのことを五平に訊ねるわけにもいかなかった。
 今日の五平はなぜか落ち着きがなく、しきりに背後を気にしているようだった。私の顔を直視しようとせず、視線を彷徨わせている。

「五平さん……? どうかしましたか?」

 その瞬間、目を見開いて私の姿を眼に焼き付けた五平は、がばりと額ずいた。 

「すまなんだ! 許してくだされ!」
「……え?」

 体を起こした五平は逃げるように蔵から走り去った。扉が閉められる刹那、複数の男たちが蔵の外にいる姿を目撃する。彼らは薪や藁束のようなものを抱えていた。
 なんだろう。
 何が行われるのだろう。
 不安を覚えた私は、膳に置かれた練り菓子を敷いた和紙を咄嗟に手にした。
 あと一文字。
 噛み痕の残る指先は未だじくじくと痛んでいたが、また歯で噛み千切る。

「うぅ……」

 痛みに耐えながら、和紙に血の滴る指先を滑らせる。白い紙に、真紅の血でどうにか文字を綴った。
 余計な血が付いて汚れないよう、左手に乗せた和紙を乾くまで掲げる。右手の人差し指を血止めのため唇に銜えれば、鈍い鉄錆の味が口の中に広がった。
 格子窓から、外にいる複数の男たちの声が漏れてくる。「そっちだ」「もういい」など、短く作業の指示を出しているようだった。がさり、がさりと木が擦れるような音がする。
 男たちが手にしていた、薪や藁の音だろう。蔵の外に積んでおくのだろうか。
 物音は蔵を一周すると、やがて止んだ。
 男たちはどこかへ行ってしまったようで、何の気配もしなくなった。
 不気味な静寂が広がる蔵の中で、ぽつりと佇んだ私は左手に乗せた血文字に目を落とす。
 留めの部分で溜まった血は凝固したようだ。慌てたので文字が歪んでしまったけれど、読めるだろうか。
 和紙を畳もうとしたとき、パチパチと火花が弾けるような音が耳を突いた。
 無機質なその音は次第に大きくなる。続いて鼻を突く、焦げ臭い匂い。

「え、なに?」

 格子窓のむこうには漆黒の煙が上がっていた。外に置かれた薪と藁が燃えているのだ。
私は和紙を握りしめて、出口の扉へ駆けた。頑丈な扉は外から錠が掛けられたままで、押しても引いてもびくともしない。外に門番がいるはずだ。

「火事です! ここを開けてください!」

 だが返答はない。
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