また、恋をする

沖田弥子

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竜の涙

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「すいません、ラムネふたつください」

 西河くんが戸口から声をかけると、「はいよ」という店番のお婆さんらしき返事が届いた。
 ラムネを二本持ってきたお婆さんの顔をふと見た私は、息を呑む。

「きっ……キヨノさん……!?」

 刻まれた皺を笑みに形作ったお婆さんは、村長の屋敷で女中をしていたキヨノだった。母屋に上がり込んだ私に練り菓子をくれて、蔵に閉じ込められた際にも私の食事を作ってくれた人だ。
 彼女は、まるで自分の孫を見るような愛おしい眼差しで私に目をむけた。

「はい、清乃ですよ。お嬢さんは水池村の観光に来たの?」
「ええ……竜神伝説があるそうなので……知りたいと思いました」

 清乃の優しげな顔つきは、厳しい環境に置かれた村の人が見せる特有の険しさとはかけ離れていた。やはり彼女も鑓水さんと同じで、夢の中の人物とは別人だ。
 西河くんは一本のラムネを私に手渡し、隣に腰を下ろす。
 シュッ、と開栓した音が小気味よく響いた。
 清乃は手を後ろに回して、懐かしむように虚空を見つめる。

「竜神伝説はね、何百年も前の話ですよ。村人は竜神と恋仲だった娘を人柱として、焼き殺してしまった。嘆き悲しんだ竜神は娘の亡骸を抱えて天に還ってしまう。そうしたら七日七晩、雨が降り続いて、村は水の底に沈んでしまったんだよ」

 私の体験とあまりにも酷似した内容が清乃の口から語られる。冷たいラムネの瓶から流れる雫がひんやりと手のひらに纏わりつき、体の芯を冷やしていく。

「その竜は……どうしたんでしょう。もう地上に降りてこなかったんでしょうか」
「さあねえ。この話は私のばあさんから聞かされた話ですよ。もう水池村は廃村になってしまったし、知る人もいなくなってしまったね」

 茫然とした私は砂利を踏む足音に、ふと我に返った。
 首にタオルを巻いたお爺さんが店にやってきた。彼の顔を見た私はまた驚かされる。

「やあ、お客さんかい」

 お爺さんは、五平だった。那岐と私を気遣ってくれた村人で、キヨノの旦那さんだった。畑仕事の最中らしい彼は水を飲んでひと息ついた。

「竜神伝説はわしらの祖先からの言い伝えだよ。まあ、今じゃ竜なんているわけないと、お伽話扱いだけどもね。わしらが子どもの頃は、竜族は存在すると信じていたんだ」
「今も、いるんでしょうか?」

 私の問いに、お爺さんは首を振る。

「いんや。もう絶滅したんでないかな。人間に利用されて、死に絶えてしまったんだろう。哀しいことだ」

 西河くんは何も言わず、ラムネを飲んでいた。
 休憩したあと、ふたりにに見送られて店をあとにする。

「いってらっしゃい。気をつけてね」

 清乃は私の手のひらに、包みを握らせてくれた。
 手のひらを開けてみるとそこには、のど飴がふたつ。

「ありがとう、清乃さん。いってきます」

 キヨノにもこうして菓子をもらったことが、切なく胸を過ぎる。
 込み上げるものを呑み込み、見送るふたりに笑顔で手を振った。
 山道の途中にある深い森林に囲まれた場所に、神社の跡地があった。移転する前の竜宮神社は、ここにあったのだろう。高台で足場が悪いけれど、水が上がってくる心配のないところだ。

「水池村は、この辺りかな?」
「そこに川が流れてるね。地図によれば、そのむこうだよ」

 川のせせらぎが耳に届く。沢から降りたところを川が流れているらしい。

「あっ……」

 私は顔を上げて、山の景色を凝視する。
 蛇行した川の流れ、川から見た山の稜線。
 ここは、那岐とふたりで毎日通った川にとてもよく似ていた。
 やがて山道が開けた。
 山間に忘れられた廃村の全貌が見渡せた。

「ここが……水池村……」

 山に囲まれた小さな盆地には、荒野が広がっていた。そこかしこに点在する家屋の土台がひっそりと佇んでいる。
 扇状に広がる地形。川沿いの土手から見渡せる、山々のなだらかな稜線。一際高くそびえる山の尾根まで一緒だ。
夢の中で見た村の景色と、全く同じだった。
 西河くんと共に道を下り、村の跡地へむかう。
 この道も、幾度も那岐と歩いた道と同じように、やや左に曲がっている。
 道を下りるとすぐに村長の屋敷があったはずだけれど、そこには何もなかった。ただ草が生い茂っているだけ。

「水が引いたあとは人が住んでいたそうだけど、今はもう誰もいないね」
「そうだね……あ、あそこ……」

 とある位置へ目をむけて、ぎくりとする。
 長方形に切り取られたように黒い土が剥き出しになり、草一本生えていない場所がある。そこに、小さな墓石が建てられていた。
 あそこは私が閉じ込められた蔵があった辺りだ。

「あれは慰霊碑だね。手を合わせていこうか」
「う、うん」

 おそるおそる足を運び、慰霊碑の前に立つ。
 石は年月が経過したため、角が欠けて丸くなっていた。蔵があったと思しき敷地は、そこだけが焦げた跡のように黒ずんでいる。辺りには静かな慟哭が漂っていた。
 私たちは慰霊碑に手を合わせて、目を閉じる。
 村人の誰かが、人柱になった娘の死を悼んで建ててくれたのだろう。蔵のあった地面の黒ずみは、まるで罪の証のようであった。
 ふと、鳥の羽ばたきの音が耳を掠める。上空を見上げれば、白鳩が山のほうへ飛来していった。この辺りに、鳩が巣を作っているらしい。
 竜神の社があった方角へ目をむける。ここからは対極の位置だ。

「向こう側が、樫の巨木があったところだね。行ってみよう」

 那岐と過ごした、穏やかな日々が脳裏に蘇る。
 けれど、胸を喘がせながら赴いたそこには、澄んだ色をした湖が広がっていた。
 今はもう何もないと鑓水さんが語っていたとおり、竜神の社も、樫の巨木も、過去の彼方に消え去っていた。
 すべてが浅葱色をした水面に覆われている。
 茫然として佇む私は、湖の畔に巨木の株があることに気がついた。
 これが、樫の木の跡だ。腐ってしまった木を切り倒したのだろう。
 西河くんは哀しげな微笑を浮かべて、深みのある色の湖を眺めた。

「この湖は、『竜の涙』と呼ばれているんだ」
「竜の涙……? 涙が溜まって、湖になったの?」 
「樫の木に縛り付けられた竜神は、人型から竜に変身した。そのときの衝撃でこの場所は大地が抉れて、そこに雨が溜まって湖になったんだ」

 雨は、竜の涙なのだ。
 雨が降るときは、竜が泣いている。
 この澄んだ湖が悲劇の終わりの形だなんて、なんて哀しいことなのだろう。
 西河くんが、まるで私の夢を覗いてきたかのように詳しい理由を、私は疑問にしなかった。
 竜の涙と名付けられた静かな湖を、ただ沈痛な面持ちで眺めた。
 西河くんはナップザックを下ろして、パーカーを脱ぎ捨てる。

「さあ、泳ごう。冷たくて気持ちよさそうだよ」

 ざぶりと豪快に飛び込んだ西河くんはクロールをして湖を泳いだ。私も木陰に身を隠して、用意してきた水着に着替える。
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