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姫の不貞 4
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アレクは鷹揚に頷いて、玉座に戻る。
「それを訊けただけで充分だ。婚約解消の理由は不貞によるものではない。噂は事実無根である。理由は、互いの心が離れたことによる不一致とする。瑠璃国への慰謝料は充分に支払おう。それを持参して国へ帰るとよい」
身に余る気遣いに頭を下げる。アレクは紗綾姫が謗りを受けないよう配慮してくれたのだ。
「お金など要りません。私の器が足りなかったのです」
「気にする必要はない。両国の友好は永劫のものであると、瑠璃王への書簡に記した。もし次に婚姻する際にも、貴女に不利な条件は皆無だ。安心してほしい」
紅宮殿から退去して、瑠璃国へ帰らなければならない。アレクの元を去らなければならない。いずれこうなることは分かっていたはずなのに、心のどこかが鈍く軋んで別れを拒む。
ロマンシアを去ることが急速に現実味を帯びて、煌は思わず口にした。
「あの……キラ・ハルアはどうなるのでしょう?」
ミハイルと文官が、ちらりと咎めるような目線をこちらにむけた。この期に及んで恋人の心配かと軽蔑されたかもしれない。だがアレクは動じなかった。彼は淡々と言葉を紡ぐ。
「キラ・ハルアの処遇はこの件とは無関係である。後日、騎士団にて処理する。以上だ」
アレクが席を立つと、最後の言葉を記した文官はペンを置いて立ち上がり、ミハイルと共に腰を折る。謁見は終了した。
煌は茫然として、立ち上がることも出来ずにいた。志音に手を取られて、ようやく腰を上げる。
この瞬間から、紗綾姫は皇帝の婚約者ではなくなった。
故郷へ帰れるのに、喜ばなくてはいけないのに、どうして落胆しているのだろう。
重い足取りで扉へ向かえば、アレクは背に穏やかな声をかけてきた。
「紗綾。ふたりだけで少し話をしても良いか。二言ほどだ。すぐに済む」
「はい……。何でしょうか」
アレクは掌を水平に切る。従者は退出せよという合図だ。志音とミハイルは扉の向こうに控えた。
何を言われるのか予想がつかず、鼓動が嫌なふうに鳴り響く。アレクは公式としては不問にしたが、皆は不貞があったと確信しているのだ。紗綾姫とキラ・ハルアの双方から、皇帝としての尊厳を傷つけられたことになる。
罵倒されても受け止めなければ。
震える心を叱咤して、煌は毅然と向かい合った。
けれどアレクの口から発せられた台詞は、意外なものだった。
「私には、想いを寄せる人がいる」
「え……?」
「それは、貴女ととても近しい人物だ。私は彼に接するうちに心を奪われていることに気がついた。不貞はないという貴女の言葉を信じるが、しかし貴女を責めることなどできない。なぜなら私自身が罪を犯したのだから」
「それは、まさか……?」
アレクが想いを寄せる相手とは、まさか。
僕なのか。
衝撃的な予想が駆け巡り、煌は唇を震わせる。
アレクは是非もなく言葉を紡いだ。
「君たちの間には他者が入り込めない秘密があるのだと察する。だがそれを暴くことはしない。私に言えないということは、明らかにしたところで誰も幸せにならないという答えが出ているからだ。大切なのは真実を確かめるよりも、私の愛した人が幸せになることだ。……キラ・ハルアの処遇は本人の意向を尊重しよう。彼が瑠璃国へ戻りたいと告げれば、彼の地で貴女と再会できるだろう」
心遣いに胸を打たれる。そして己の邪な恋心に制裁が加えられたことを痛感した。
キラ・ハルアは、あなたの目の前にいます。本当は、瑠璃国に帰りたくない。ずっとロマンシアに、アレクの傍にいさせてください。
胸に溢れる想いを口にすることはできなくて。
既に婚約は破棄された。特別侍従のキラ・ハルアも辞職して瑠璃国へ戻ることが、すべて丸く収まる道なのだ。アレクもそれを望んでいる。
「……そうですか」
それしか言えなかった。最後に深く礼をして、謁見の間を辞する。
前を見据えながら廊下を歩き、煌はベールの下で人知れず涙を零した。
数日後、荷物の積み上げられた紅宮殿の部屋で、煌は茫然自失の態でソファに座っていた。婚約解消の話は宮廷内に伝わり、ロマンシア国民にも瞬く間に知れ渡った。ベールに包まれた異国の姫君との結婚を期待していた国民は、落胆してお祝いの計画を中止したという。
ぼんやりと窓の外に目をむければ、温室には大輪の薔薇が咲き誇っている。手の中にはアレクに返された、古びた氷の花。
「煌さま……元気出してください。いずれ瑠璃国に帰ろうって言ってたじゃないですか。煌さまのお帰りを紗綾さまも喜んでくれますよ」
「それを訊けただけで充分だ。婚約解消の理由は不貞によるものではない。噂は事実無根である。理由は、互いの心が離れたことによる不一致とする。瑠璃国への慰謝料は充分に支払おう。それを持参して国へ帰るとよい」
身に余る気遣いに頭を下げる。アレクは紗綾姫が謗りを受けないよう配慮してくれたのだ。
「お金など要りません。私の器が足りなかったのです」
「気にする必要はない。両国の友好は永劫のものであると、瑠璃王への書簡に記した。もし次に婚姻する際にも、貴女に不利な条件は皆無だ。安心してほしい」
紅宮殿から退去して、瑠璃国へ帰らなければならない。アレクの元を去らなければならない。いずれこうなることは分かっていたはずなのに、心のどこかが鈍く軋んで別れを拒む。
ロマンシアを去ることが急速に現実味を帯びて、煌は思わず口にした。
「あの……キラ・ハルアはどうなるのでしょう?」
ミハイルと文官が、ちらりと咎めるような目線をこちらにむけた。この期に及んで恋人の心配かと軽蔑されたかもしれない。だがアレクは動じなかった。彼は淡々と言葉を紡ぐ。
「キラ・ハルアの処遇はこの件とは無関係である。後日、騎士団にて処理する。以上だ」
アレクが席を立つと、最後の言葉を記した文官はペンを置いて立ち上がり、ミハイルと共に腰を折る。謁見は終了した。
煌は茫然として、立ち上がることも出来ずにいた。志音に手を取られて、ようやく腰を上げる。
この瞬間から、紗綾姫は皇帝の婚約者ではなくなった。
故郷へ帰れるのに、喜ばなくてはいけないのに、どうして落胆しているのだろう。
重い足取りで扉へ向かえば、アレクは背に穏やかな声をかけてきた。
「紗綾。ふたりだけで少し話をしても良いか。二言ほどだ。すぐに済む」
「はい……。何でしょうか」
アレクは掌を水平に切る。従者は退出せよという合図だ。志音とミハイルは扉の向こうに控えた。
何を言われるのか予想がつかず、鼓動が嫌なふうに鳴り響く。アレクは公式としては不問にしたが、皆は不貞があったと確信しているのだ。紗綾姫とキラ・ハルアの双方から、皇帝としての尊厳を傷つけられたことになる。
罵倒されても受け止めなければ。
震える心を叱咤して、煌は毅然と向かい合った。
けれどアレクの口から発せられた台詞は、意外なものだった。
「私には、想いを寄せる人がいる」
「え……?」
「それは、貴女ととても近しい人物だ。私は彼に接するうちに心を奪われていることに気がついた。不貞はないという貴女の言葉を信じるが、しかし貴女を責めることなどできない。なぜなら私自身が罪を犯したのだから」
「それは、まさか……?」
アレクが想いを寄せる相手とは、まさか。
僕なのか。
衝撃的な予想が駆け巡り、煌は唇を震わせる。
アレクは是非もなく言葉を紡いだ。
「君たちの間には他者が入り込めない秘密があるのだと察する。だがそれを暴くことはしない。私に言えないということは、明らかにしたところで誰も幸せにならないという答えが出ているからだ。大切なのは真実を確かめるよりも、私の愛した人が幸せになることだ。……キラ・ハルアの処遇は本人の意向を尊重しよう。彼が瑠璃国へ戻りたいと告げれば、彼の地で貴女と再会できるだろう」
心遣いに胸を打たれる。そして己の邪な恋心に制裁が加えられたことを痛感した。
キラ・ハルアは、あなたの目の前にいます。本当は、瑠璃国に帰りたくない。ずっとロマンシアに、アレクの傍にいさせてください。
胸に溢れる想いを口にすることはできなくて。
既に婚約は破棄された。特別侍従のキラ・ハルアも辞職して瑠璃国へ戻ることが、すべて丸く収まる道なのだ。アレクもそれを望んでいる。
「……そうですか」
それしか言えなかった。最後に深く礼をして、謁見の間を辞する。
前を見据えながら廊下を歩き、煌はベールの下で人知れず涙を零した。
数日後、荷物の積み上げられた紅宮殿の部屋で、煌は茫然自失の態でソファに座っていた。婚約解消の話は宮廷内に伝わり、ロマンシア国民にも瞬く間に知れ渡った。ベールに包まれた異国の姫君との結婚を期待していた国民は、落胆してお祝いの計画を中止したという。
ぼんやりと窓の外に目をむければ、温室には大輪の薔薇が咲き誇っている。手の中にはアレクに返された、古びた氷の花。
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