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第二章 マリアの涙を盗め
屋根上の決闘
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夜気にのって芳しい花の香りが流れてくる。
天空には銀色の弦月。冷たくも気高い星々が夜という天鵞絨に散りばめられている。今宵は乙女怪盗の舞台に相応しい。
「月よ、華よ、きらめく星の夜、乙女怪盗ジョゼフィーヌ参上」
乙女怪盗ジョゼフィーヌは漆黒のマントを翻す。長い銀髪が風に散る。羽根飾りは貴婦人が微笑むように揺れた。
目線を下げれば、路いっぱいに溢れる人々が押し合っていた。
警官隊と消防隊が入り乱れ、どこから現れたのか野次馬や記者たちが混ざっている。皆は空を仰ぎ、現れた乙女怪盗を指差していた。
「乙女怪盗ジョゼフィーヌだ!」
「コメントを下さい! 貴女の正体は何者なんです?」
「邪魔だ、警察を通せ!」
「先に消防を通してくれ!」
計算通りだ。
混乱した現場の人々に微笑みをひとつくれて、ジョゼフィーヌは細い指先を掲げた。
手にしているのは、マリアの涙。
月明かりに煌めく青を目にして、驚嘆の声が現場に轟く。
「マリアの涙、確かに頂戴いたしましたわ。では皆様、ごきげんよう」
涼やかな声音を残し、ブーツの踵を蹴り上げて屋根から飛び移ろうとした刹那。
「待てよ。もっとゆっくりしていったらどうだ」
行く手を塞ぐように、漆黒の影が屋根の上に佇んでいた。
いつの間に。
保管庫の前で二の足を踏んでいるかと思ったのに、素早い男だ。
「こんばんは、アラン警部。随分びしょ濡れね。風邪を引かないよう気をつけたほうが良くてよ」
「ご心配なく。俺の名を知っているとは嬉しいな」
にやりと口端を引き上げて、アランは髪から雫をぽたぽたと滴らせた。
ジョゼフィーヌは一瞬で彼の全身に目を走らせる。
靴は通常の軍靴ではない。厚みがあり、底に鉤が付いている。ジョセフィーヌの履いているブーツと同じく、屋根などの滑りやすい場所で使用することを想定して作られたものだ。
彼の背後には梯子の突端が見えた。
始めから屋根で対決することを見据えていたらしい。
けれど。
「武器がないのね。私を捕まえたいなら、拳銃くらい抜いておくべきじゃない?」
挑発的な物言いにもアランは動じない。
「マドモアゼル相手にぶっ放すほど下衆じゃないんでね。これで充分だ」
構えた手錠は月明かりを受けて銀色に煌めく。
魅力的な輝きだ。今は欲しいとは思わないけれど。
腰に佩いたレイピアを意識する。
間合いは充分にあるが、逃げたところを飛びつかれたら厄介だ。できればアランに怪我を負わせるようなことはしたくない。どうする。片付けるか。
一瞬の迷いの隙間を縫って、アランは足を蹴り上げた。
「うっ」
きらりと走る閃光を目にして、咄嗟に身を躱す。手錠を掲げていたので油断していた。軍靴に小型のナイフを忍ばせていたなんて。
体勢を立て直そうとしたほんのわずかの隙に、一気に間合いを詰められる。手錠を振り上げるアランの腕を押さえ、仮面を毟り取ろうとしたもう片方の掌も掴む。
ぎり、と凄まじい力で手袋越しの細い指を握り返された。
しまった……!
ナイフは囮だった。完全に動きを封じられてしまった。この状態で警察の援護があったらどうにもならない。
アランの眸が間近で炯々と光る。
「投降しろ。手荒なことはしない」
「く……っ」
まずい。こんなに近づけば正体がバレてしまう。その前に、力で押し切られる。あと数秒しか持たない。
三、二、一……。
ジョゼフィーヌの体が押し倒された瞬間、屋根の上を煙幕が覆った。
激しく咳き込むアランを残して、乙女怪盗は華麗に屋根を伝い逃走していく。
「わあああ、アラン警部~。大丈夫ですかゲフッフ」
今頃梯子を登ってきたバルスバストルは、わざわざ煙幕を吸い込んでいる。
「バルス! 何故俺が食い止めたときに援護しない!」
「だって警部が使った梯子を記者の方が使用してるんですよお。やっと別のを見つけたんですうゲフゲフ」
「さっさと下りろ! 乙女怪盗は二ブロック先で屋根から下りた。警官を急行させるんだ」
難を逃れたジョゼフィーヌは、するりと屋根からバルコニーを伝い、裏路へ下りた。記者らしき男が待ち構えていたように傍へ寄る。
「ご無事で何よりです。予備の煙幕が功を奏しましたね」
記者がよく持っているような手提げ鞄からローブを取り出し、怪盗装束の上に着せかけられた。自身もローブを被り、杖を手にする。記者の格好をしていたフランソワは、瞬く間に老婆に変身した。
「ありがとう。優秀な執事のおかげだよ」
「さあ、参りましょう。風邪を引くといけません」
身をぴたりと寄せ合い、しずしずと裏路を進む。目抜き通りは警官たちが押し寄せて俄に騒がしくなった。閉店している店の扉を叩き、通りかかる辻馬車を検問している。
ふたりが歩く石畳の行く手を、軍靴が遮った。
「こんな夜更けにどこへ行くんですか? ンフフゥ」
老婆に扮したフランソワは頭を下げて、嗄れた声音を絞り出した。
「孫娘がひどい熱を出しまして、お医者さまのところに連れて行くのでございます」
ゲホゲホと苦しそうな咳を出す娘を気遣わしげに窺う。
「それは大変ですね。同行しましょうか? ンフゥ」
「いえいえ、警察の方々はお仕事中でございますから、お構いなく。お気遣い感謝いたします」
腰の曲がった老婆も小さな孫娘もローブを深く被っているので顔は見えない。バルスバストルに快く見送られ、乙女怪盗と執事は悠々と屋敷へ戻った。
天空には銀色の弦月。冷たくも気高い星々が夜という天鵞絨に散りばめられている。今宵は乙女怪盗の舞台に相応しい。
「月よ、華よ、きらめく星の夜、乙女怪盗ジョゼフィーヌ参上」
乙女怪盗ジョゼフィーヌは漆黒のマントを翻す。長い銀髪が風に散る。羽根飾りは貴婦人が微笑むように揺れた。
目線を下げれば、路いっぱいに溢れる人々が押し合っていた。
警官隊と消防隊が入り乱れ、どこから現れたのか野次馬や記者たちが混ざっている。皆は空を仰ぎ、現れた乙女怪盗を指差していた。
「乙女怪盗ジョゼフィーヌだ!」
「コメントを下さい! 貴女の正体は何者なんです?」
「邪魔だ、警察を通せ!」
「先に消防を通してくれ!」
計算通りだ。
混乱した現場の人々に微笑みをひとつくれて、ジョゼフィーヌは細い指先を掲げた。
手にしているのは、マリアの涙。
月明かりに煌めく青を目にして、驚嘆の声が現場に轟く。
「マリアの涙、確かに頂戴いたしましたわ。では皆様、ごきげんよう」
涼やかな声音を残し、ブーツの踵を蹴り上げて屋根から飛び移ろうとした刹那。
「待てよ。もっとゆっくりしていったらどうだ」
行く手を塞ぐように、漆黒の影が屋根の上に佇んでいた。
いつの間に。
保管庫の前で二の足を踏んでいるかと思ったのに、素早い男だ。
「こんばんは、アラン警部。随分びしょ濡れね。風邪を引かないよう気をつけたほうが良くてよ」
「ご心配なく。俺の名を知っているとは嬉しいな」
にやりと口端を引き上げて、アランは髪から雫をぽたぽたと滴らせた。
ジョゼフィーヌは一瞬で彼の全身に目を走らせる。
靴は通常の軍靴ではない。厚みがあり、底に鉤が付いている。ジョセフィーヌの履いているブーツと同じく、屋根などの滑りやすい場所で使用することを想定して作られたものだ。
彼の背後には梯子の突端が見えた。
始めから屋根で対決することを見据えていたらしい。
けれど。
「武器がないのね。私を捕まえたいなら、拳銃くらい抜いておくべきじゃない?」
挑発的な物言いにもアランは動じない。
「マドモアゼル相手にぶっ放すほど下衆じゃないんでね。これで充分だ」
構えた手錠は月明かりを受けて銀色に煌めく。
魅力的な輝きだ。今は欲しいとは思わないけれど。
腰に佩いたレイピアを意識する。
間合いは充分にあるが、逃げたところを飛びつかれたら厄介だ。できればアランに怪我を負わせるようなことはしたくない。どうする。片付けるか。
一瞬の迷いの隙間を縫って、アランは足を蹴り上げた。
「うっ」
きらりと走る閃光を目にして、咄嗟に身を躱す。手錠を掲げていたので油断していた。軍靴に小型のナイフを忍ばせていたなんて。
体勢を立て直そうとしたほんのわずかの隙に、一気に間合いを詰められる。手錠を振り上げるアランの腕を押さえ、仮面を毟り取ろうとしたもう片方の掌も掴む。
ぎり、と凄まじい力で手袋越しの細い指を握り返された。
しまった……!
ナイフは囮だった。完全に動きを封じられてしまった。この状態で警察の援護があったらどうにもならない。
アランの眸が間近で炯々と光る。
「投降しろ。手荒なことはしない」
「く……っ」
まずい。こんなに近づけば正体がバレてしまう。その前に、力で押し切られる。あと数秒しか持たない。
三、二、一……。
ジョゼフィーヌの体が押し倒された瞬間、屋根の上を煙幕が覆った。
激しく咳き込むアランを残して、乙女怪盗は華麗に屋根を伝い逃走していく。
「わあああ、アラン警部~。大丈夫ですかゲフッフ」
今頃梯子を登ってきたバルスバストルは、わざわざ煙幕を吸い込んでいる。
「バルス! 何故俺が食い止めたときに援護しない!」
「だって警部が使った梯子を記者の方が使用してるんですよお。やっと別のを見つけたんですうゲフゲフ」
「さっさと下りろ! 乙女怪盗は二ブロック先で屋根から下りた。警官を急行させるんだ」
難を逃れたジョゼフィーヌは、するりと屋根からバルコニーを伝い、裏路へ下りた。記者らしき男が待ち構えていたように傍へ寄る。
「ご無事で何よりです。予備の煙幕が功を奏しましたね」
記者がよく持っているような手提げ鞄からローブを取り出し、怪盗装束の上に着せかけられた。自身もローブを被り、杖を手にする。記者の格好をしていたフランソワは、瞬く間に老婆に変身した。
「ありがとう。優秀な執事のおかげだよ」
「さあ、参りましょう。風邪を引くといけません」
身をぴたりと寄せ合い、しずしずと裏路を進む。目抜き通りは警官たちが押し寄せて俄に騒がしくなった。閉店している店の扉を叩き、通りかかる辻馬車を検問している。
ふたりが歩く石畳の行く手を、軍靴が遮った。
「こんな夜更けにどこへ行くんですか? ンフフゥ」
老婆に扮したフランソワは頭を下げて、嗄れた声音を絞り出した。
「孫娘がひどい熱を出しまして、お医者さまのところに連れて行くのでございます」
ゲホゲホと苦しそうな咳を出す娘を気遣わしげに窺う。
「それは大変ですね。同行しましょうか? ンフゥ」
「いえいえ、警察の方々はお仕事中でございますから、お構いなく。お気遣い感謝いたします」
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